@opai-hunter

 彼は服を着替えると、顔をばしゃばしゃと洗った。鏡に映る自分の顔が、まるで化け物のように見えた。そして同時に、何かにひどく怯えている、臆病な自分を悟った。そんな矛盾したものを抱えた自分を、全てを引き剝がしてしまいたくなって、彼はより一層強く、何度も削り落とすように顔を洗った。

 彼は洗面所を後にすると、リビングのソファーでうずくまったまま動かない妹に目をやった。

「この服は、あの男のか?」

「……ええ、そうよ」

 彼女は下を向いたまま、小さく答えた。彼女の肩は、小刻みに震えていた。

「そうか、どうりで臭いわけだ」

 彼は無理やりに笑いながら言った。それはもはや虚勢に過ぎなかったが、下を向いたままの彼女にそこまで悟られるとは思えなかった。

「……悪かったわね。臭くて」

 ややあって、彼女は言った。若干語気が強くなったような気がした。そのことが、彼を余計不安にさせた。なぜだ。どうしてあいつを庇うようなことを言う。不安はすぐに、苛立ちに変わった。

「まあいいさ。どうせもう会うこともないんだからな」

 彼は声を荒げてそう言い放つと、どすどすと玄関へ向かった。

 靴を履きドアノブに手をかけた時、後ろで声がした。

「……し」

「ん、なんだ?」

「……ろし」

「なっ……はあっ?」

 今度ははっきりと聞こえた。頭が真っ白になる。

 気が付くと彼は家の中に戻ろうとしていた。靴を履いたまま、家にあがっていた。床がみしみしと軋む。さすがの彼も、妹にそんなことを言われればキレる。

 だがそこで踏み止まった。拳を握りしめる。嫌な感覚が呼び起された。すると今度は、不安や恐怖が彼の胸を支配した。麓の町で、パトカーのサイレンが聞こえた。彼は途端青ざめた顔で、玄関を飛び出した。




 彼は町へ下りると、良さげな喫茶店に入った。まだ早朝だからか、客は彼の他にいなかった。

「いらっしゃいませ。ご注文はなににします?」

 店の奥から出てきたのは若い女性だった。まだ二十代だろうか。他に人の気配はなく、恐らく彼女がこの店の店主なのだろう。彼女の元気さに、彼は少し安堵した。

「じゃあ、コーヒーを一杯」

「かしこまりました」

 彼はカウンターの一つに腰を下ろした。こうして見てみると、なかなかに洒落た喫茶店だった。木張りの内装に、仰々しくない程度のシャンデリア。自分のような者が来るようなところではない気がした。こういう店ならばきっと、昼間などは若者たちで賑わうのだろうと想像した。

 彼女はコーヒーを淹れている。店内は静かで、壁に掛かった振り子時計だけがかちこちと音を立てていた。だが彼には、この静けさが心地良く感じられた。自分自身と向き合い、もう一度考え直す時間が、彼には必要だった。彼にとってここは、初めて得た安心できる場所だった。

 彼はふと窓の外を見た。雪が降っていた。驚いて自分の袖に目をやると、袖は少し濡れていた。彼は雪が降っていることにすら、今まで気が付かなかった。それは、それほどまでに彼が余裕をなくしていたことを意味した。だが今は違った。むしろほっとした。雪が積もれば、足跡は消える。

「雪、珍しいんですか?」

「え?」

 彼は視線を戻した。女店主と目が合った。

「常連さんじゃないから、旅の方かなと思って。違いました?」

「え、ええ。そうです」

 咄嗟に嘘を吐いた。この町に住んでいる妹の兄ですなど、言えるはずがない。

「ここら辺はよく雪が積もるんですか?」

 今度は彼が質問した。

「はい。二月あたりになると、もう、だいぶ積もりますよ。膝の下ぐらいまで」

 彼女は入口へ回ると、膝の下の高さで両手を水平に動かし、それから、スコップで雪を搔き出す真似をしながら、「だから雪搔きも大変なんですよ」と言った。彼はその仕草が少しおかしく思えて、くすくすと笑った。面白い女性だなと思った。美しいと、そう思った。

 彼が笑うのを見て、彼女も顔をほころばせた。

「お客さん、初めて笑ってくれた」

 彼の顔を指差し、彼女は嬉しそうに微笑んだ。




「ほらお客さん、コーヒーできましたよ」

 彼女はコーヒーを彼の前に置いた。ふわっといい香りが店内に広がる。彼は一口コーヒーをすすった。

「あ、おいしい」思わず呟いた。

「ほんとう? うれしい」彼女は微笑んだ。

 少しの間、沈黙が続いた。彼はちびちびとコーヒーをすすり、彼女はそれをただ眺めているだけだった。

「お客さん、なにかあったの?」

 沈黙を破ったのは、彼女だった。

「いいや、なにもないよ」

 彼は答えた。

「うそ。なにもなくない顔してる」

 彼はこの時、少しだけ面倒だなと思った。彼女のことを鬱陶しいと感じた。

 彼は俯いたまま黙っていた。また沈黙が続く。ややあって、彼は答えた。

「君は生きる価値のない人間って、いると思う?」

 なぜそんなことを言ったのか、自分でもよく分からなかった。彼女とはもう会うこともないだろうに。恐らく、彼自身がもう、耐えきらなかったからだろう。罪の重さに。

 彼女は彼が急に言い出したことに、少しぽかんとしていた。だが、それが真剣だったということは、伝わったようだった。彼女は少し考える素振りを見せてから、

「いないと思う」と答えた。

「どんなに最低な人間でも、生きる価値がないなんてことはないと思う。それに、生きる価値なんて他人が勝手に決めることじゃないと思うわ」

 その言葉は、彼の胸に重く突き刺さった。それは、彼女の言うことがもっともだと自分でも少し思ってしまったことと、彼女が自分の味方をしてくれなかったことが、原因だと彼は理解していた。

 だが彼が口走ったのは違った。

「俺はいると思う。本当のクズ野郎で、周りに迷惑しかかけないようなやつに、生きる資格なんてないと思う。世の中には、どうしようもないクズだっているんだ」

 そう言いながら、彼の右手がカップを握る力は強くなった。まるで自分に言い聞かせているようだった。

 彼女は彼の話を黙って聞いていたが、ふと口を開いた。

「本当にそう思ってるの?」

 彼女は彼の目をまっすぐと見つめたまま言った。彼は全てを見透かされたようで、ぶるりと身震いをした。もう逃げ場はないと思った。今こそ自分と向き合うべきだと思った。

 彼は昨夜の出来事を思い出した。




 彼が、姪が怪我をして入院しているという知らせを聞いて、病院に見舞いに訪れたのは、一ヶ月ほど前のことだった。ちょうど彼が職を失った後日だった。それについては、さほどショックではなかった。クビになったのは、これが初めてではなかったからだ。それよりも自分のすべきことが分からなくなったのはショックだった。だからこそ次の日知らせを聞くと、彼は飛ぶように駆けつけた。生活費の心配がなくなったというのも、確かにあった。

 彼の両親はすでに他界しており、見舞い人は彼一人だけだった。姪にとって、彼は「おじさん」という立場でしかなかったが、結婚しておらず子供もいない彼は、彼女のことをとてもよく気に入っていた。それは彼女においても然りで、彼が見舞いの品にお菓子を持って行くと、彼女は大層喜んだ。誰の金であるかは、言うまでもなかった。

 彼は毎日病院に寄っていたが、四日目ぐらいから、妹の方に異変を感じ始めた。妹の顔や腕に、妙な痣が増えていることに気付いたのだ。そして同時に、姪の父親が、まだ一度も見舞いに来ていないことにも気が付いた。彼は妹に問いつめたが、彼女は口を割ってはくれなかった。

 次の日、彼は少し早めに病院へ向かった。幸い妹はまだ来ていなかった。彼は姪に家庭環境のことを尋ねた。妹に内緒で聞きだすのはずるいとも思ったが、全ては彼女のためだと思った。彼は妹が家庭内暴力を受けているのではと疑っていたのだ。

 結果はその通りだったが、内容は想像以上のものだった。姪が骨折をして入院しているのは、家の窓から足を滑らせて落ちたからだと聞いていた。妹だけでなく、その娘までも家庭内暴力を受けているのだと知り、彼は驚いた。沸々と怒りが沸いてくるのと同時に、なぜ妹は今まで相談してくれなかったのかと思った。両親が他界した今、彼女が頼れるのは自分だけだと思っていた。だから毎日見舞いにも行った。自分は自分で思っているほど、妹に信頼されていないのかと思うと、なんとも言えない気持ちになった。後で妹が来たら、問いつめてやろうと思った。

 妹はまもなくしてやって来た。彼が問いつめると、彼女は苦虫を嚙み潰したような顔で「外で話そう」と言った。彼はそれに従った。きっと娘の前では、彼女も言いにくいのだろうと思った。彼女の痣は、やはり家庭内暴力によってできたものだった。娘の体が弱いのは、お前の血が混ざっているからだと。それを聞いた彼は、激しく叱責した。なぜそんなことを今まで自分に隠してきたのかと。だが妹は、心配をかけたくなかったと言うばかりだった。何度問いつめても、同じことしか言わなかった。彼は彼女に、離婚するよう持ち掛けた。だが彼女は首を横に振った。彼は警察官だから、こんな田舎じゃすぐに揉み消されると。実際、近所の人が児童相談所に通報してくれたこともあったが、様子見だと言われて終わったらしい。

 「だから、ごめんね」気にしなくていいよ、彼女はそう言って話を打ち切った。その日家に帰ってから彼は、一晩中寝ずに悩み込んだ。どうすればいいのか。妙案は依然として出なかった。

 次の日、昼から彼女の家を訪ねた。彼は彼女に、昨晩考えた苦肉の策を披露した。彼女は初め、ひどく反対した。彼の提案は、夫を殺すことだった。現場労働で金も名誉もないような彼が思い付くものなど、これぐらいしかなかった。妹が飲み物に睡眠薬を混ぜて飲ませ、眠ったところを風呂に沈めて溺死させる。彼女が反対するだろうとは覚悟していたが、彼は彼女が反対する理由が予想と反していることを知った。彼女は、人殺しは良くないからと強く主張していた。それは道徳的な意味で言っているのであって、彼のことを心配しているわけではなかった。彼は心のどこかで、兄が犯罪者になるのを止めてくれる妹を信じていた。だからその事実は、彼の決断を鈍らせた。やけくそになった彼は、自分がなにに対して怒っているのかも分からないまま、犯行を強行した。誰に対する怒りなのか、やり場をなくした彼の怒りは、全てあの男にぶつけていた。妹は結局、夫と共に睡眠薬を飲むことで承諾した。自分が夫を殺すことについては、全く止めなかった。むしろ安堵している気さえもした。それを彼は、自分の使命だと受け取った。自分を誇らしく思った。自分が兄でよかったなと。

 昨夜、彼が妹からもらった合鍵で家に侵入した時、夫と妹は共にソファーで寝ていた。彼は男を風呂まで運ぼうとしたが、睡眠薬があまり効いていなかったのか、男は目を覚ましてしまった。彼は男が暴れ出すのを見て、仕方なく、念のため持って来ていた出刃包丁で、やつの胸元を刺した。男はぐったりと横たわった。実にあっけなく、死んだ。




 彼は険しい顔をして黙っていた。コーヒーのカップがかたかたと震えていた。しばらくして、それは自分の右手が震えているからだと気付いた。彼の右手には、出刃包丁の感触が鮮明に残っていた。

 壁に掛かった振り子時計だけが、かちこちと時を刻む。先程とは打って変わり、彼はこの静寂を気まずく思った。

 ふと、女店主が口を開いた。

「お客さんになにがあったのかは知らないけど、あなたは……」

 そこで間を開けた。少し躊躇った割には、力強くすらすらと言った。

「自分は間違ってないって言いたいんだ」と。

「え……」

 彼はたじろいだ。彼女の言ったことが的外れだったからではない。彼女の言ったことが、まるっきり正鵠を射ていたからだ。彼女の方が彼自身よりも、彼のことを理解している気さえした。

「違う?」

「そうかも、しれない」

 妹と向き合いきれずに逃げ出したのも、きっと、心のどこかでは自分が間違っていたことを認めてしまっていたからだと思った。そして、自分は間違っていないと主張したい自分もまた、いるのだ。その理由が、極めて悪質で自分勝手なものであることも、理解している。

「もう一度聞くけど」

 彼女は再び口を開いた。

「お客さんは本当に、生きる価値がない人なんていると思ってるの?」

「……あ、ああ。そうだよ」

 あの男を刺した時の顔が、一瞬頭をよぎった。

「お客さん、ちゃんと目を見て言って」

 ここで初めて、彼は自分が俯いていることに気付いた。これではまるで、自分が悪いと認めているようなものだった。彼は顔を上げた。女店主の顔が思ったより近かったことと、その表情の真剣さに彼は驚いた。これは彼女からの、純粋な声援だと思った。もう二度と会うこともないような自分を助けようとしてくれている。ありがたいと感じた。だが、自分は悪くないと妄信し続けている彼もまた、彼の中に根強く残っていた。もう後には引けない。その事実が、彼が素直になるのを妨げていた。

「いるんだ、生きる価値のない人間だって。みんながみんないいやつとは限らない。君は若いから、まだそういうやつに出会ったことがないだけだ」

 結局、そんなことを口にしていた。自分でも、なぜむきになっているのか分からなかった。素直になりたい、そう思う自分もいることを、彼は認めた。そのたびに、昨夜のことが頭に浮かんでは離れなかった。

 彼があの男に出刃包丁を向けた時、男は真っ先に隣で寝ている妻を庇おうとしたのだ。彼はその時、悪者なのは自分の方なのではないかと錯覚した。その男の顔は、間違いなく「父親」の顔だった。愛する者を守る、こいつはそんなやつだったかと驚いた。彼が知っているその男は、どうしようもないクズだった。愛する者を傷つける。だからこうして自分が天誅を下そうとしたのだ。彼は戸惑った。こんなのは予想外だった。悪者なら、最後まで悪者でいてくれよと思った。クズ野郎のまま死んでくれよと思った。だがもう後には引けない。彼は持っていた出刃包丁を、思いっきり男の胸に突き立てた。

 もうなかったことにしたかった。なにもかもを、やり直してしまいたかった。

 だが彼の中には、妹のためにやったのだという正義感が、根強く残っているのも確かだった。そしてそう思うことは、自分のしたことを正当化すると共に、自分の罪を妹になすりつけているのと同じことだとも理解していた。自分がなぜやったのか、なんのためにやったのか、もう分からなかった。自分のやったことが正しかったとは、もう思えなかった。

「自分でも分かっているんでしょう。もう、認めてしまった方が楽になれるのよ。自分が間違ってたって、認めるのはすごく大変だし苦しいことだけど、それでも、お客さんなら、できると思うわ。わたし、信じてる」

 女店主は彼の目をまっすぐと見つめたまま言った。見ず知らずの自分に対して、なぜここまでしてくれるのか、彼はもう理解できなかった。ほっといてくれよ、と思う自分と同時に、この女性に全てをさらけ出してしまいたいと思う弱気な自分もいた。今では、後者の方が強くなっているように思う。彼女には、底知れぬ安心感が漂っていた。彼の心はもうとっくに限界を超えていた。その場で泣きじゃくりたくなったが、それは耐え忍んだ。大人の男が、自分より年下の女の前でぎゃあぎゃあ泣き喚くなど、彼の尊厳に関わる。さすがに彼も、それくらいの分別はつく男だ。彼は彼女の問いに、真摯に答えようと思った。

「俺には、無理だ。今更認めるなんて、そんなこと、できない。する資格なんて、ない」

 それは、彼が初めて出した心からの本音だった。彼は相変わらず下を向いたままだったが、その声は、くぐもっていて、静寂な店内に重く響き渡った。

「そんなことないわ。お客さんなら、できる。だってあなたは、臆病だもの」

「え……?」

 彼はようやく顔を上げた。目が合う。彼女の目は真剣で、純粋で、迫力があった。彼は彼女が言ったことがなにを意味しているのか分からなかった。彼は今まで生きてきて、人に臆病と言われたことなどなかったし、なにより彼女がそれを悪口で言っているようにも見えなかったからだ。

「お客さんは、臆病で、そして優しい人。だから今も、一人で苦しんでる。もがいて、あがいて、答えなんてないのに、それでも必死に答えを探そうとしている。真面目で純粋で、全部一人で背負い込もうとしちゃう人。その優しさは、臆病さの裏返し」

 彼女は静かにそう言った。

 彼は彼女の目をじっと見つめ続けた。彼は大層驚いていた。まるで全て見透かしたように言う。まだ三十年も生きていないような娘に、こうも助けられるとは思わなかった。彼女には、感謝の念しかなかった。

 ふと、今朝妹がうずくまって泣いていた姿が思い出された。彼女は右手に、写真を一枚握っていた。その写真には、妹と夫とまだ幼い娘が、三人仲良く写っていた。

 ああ、そういうことか。彼は悟った。じわりと、目頭が熱くなった。

 あの男も、初めからああだったわけではなかったのか。あの男も、生きる価値のない人間ではなかったのか。あの時妹は、まだ優しかった頃の夫を思い出して泣いていたのか。妹が殺しに反対だったのは、夫がいつか優しかった頃に戻ると、ずっと信じていたからなのか。

 写真を片手にうずくまって泣く妹の顔と、妹を庇って死んだ男の顔が、同時に頭に浮かんだ。

 ああ、そうだったのか。一番生きる価値がない人間は、俺だったのか。生きる価値がないと勝手に決めつけ、それを妹のせいにして殺した。本当のクズ野郎は、俺だったのか。

「ああ、くそだ、くそ野郎だ。生きる価値がない人間は、俺の方だったんだ。初めから分かっていたんだ。ずっと、目を背けてきただけだったんだ。ああ、本当に、くそだ」

 最後の方は涙声で、よく聞きとれなかった。

「それは違いますよ」

 顔を上げると、彼女と目が合った。

「お客さん、わたし、言いましたよね。生きる価値のない人なんていないって。それは、あなたにおいても、言えることなんですよ」

 彼女の声は、やはり静かで、そしてとても優しかった。

 その言葉を聞いた途端、彼は堰を切ったように泣き出した。彼はもう溢れる涙を止めることはできなかった。彼女はそれを静かに見守った。だがその目は、まるで冷酷だった。これで満足かと言っているようだった。彼女の目は彼の方を向いていたが、焦点は定まっていなかった。これでチャラになったと思っているようにも見えた。

 彼は目尻を乱暴に拭った。彼女の、とやかく事情を聞こうとしないところに、自分は救われたんだなあと思った。自分より年下の相手の前で泣いたのなんて、生まれて初めてなんじゃないかと思った。

 彼は彼女に対して、ぎこちなく笑って見せた。顔が引きつってうまく笑えなかったが、彼女はうっすらと口許に笑みを浮かべ、返してくれた。

「こうして長いことこういう商売をやってるとね、その人のことが分かってくるんですよ」

 彼女はなぜか、どこか遠いところを見るような目つきをしていた。

「長いったって、十年もやってないでしょうに」

 彼は軽く冗談を言った。

「あら、十年って、意外と長いんですよ。私の人生の三分の一ですからね」

 彼女は笑って答えた。自分よりずっと大人びたことを言ったと思えば、こうやって無邪気に笑う彼女はまるで少女のようにも見えた。こっちの方が、似合っていると思った。

 彼はそっと彼女の方をのぞき見た。彼女はなにやら作業をしていた。

 彼には少し思うところがあった。決定的だったのが、さっきの目つきだ。まだ若いだろうに、いったいどんな経験をしたら、あんな表情ができるのだろうと思った。彼女も、なにかを背負って生きているのだろうか。人間は皆、誰しも人に言えない秘密を背負って生きているんだなと思った。自分も彼女も、妹もその夫も、決して例外ではないのだ。

「はい」

 彼女はそう言って、コーヒーをもう一杯、彼の前に置いた。

「え、注文していないんだけど」

 彼が戸惑った素振りを見せると、

「いっぱい泣いたでしょう。わたしからのプレゼントです」

 彼女はにこやかに微笑むと、「こういうの、一度やってみたかったんです」と言った。

 彼はまた下を向いた。今度は、自分の泣き顔をこの娘に見られたくないと思ったからだ。

 彼はコーヒーを一口口に入れた。じわっと、口中に味が広がる。少し苦いのが、また良いと思った。

「おいしいですか?」

 彼女は尋ねた。

「あったかいです」

 彼は答えた。




「そうだ、写真、撮りませんか?」

 彼女は言った。

「写真?」

 彼は訝しがった。あまりに脈絡のない提案だったからなのと、彼女のような若い女性から写真を撮ろうと言われたことがなかったからだ。

「ええ、記念です」

「まあ、いいですけど」

 彼は自分の携帯を取り出し、彼女に渡した。彼の携帯はスマートフォンだ。自分が持つようなものではないとは思っているが、会社で必要なのだから仕方がない。自分のような下っ端でも持っているということは、きっとほとんどの人が持っているということだろう。折り畳み式の方が、断然使い勝手は良かった。

「じゃあいきますよ。はい、チーズ」

 ぱしゃり。

 彼女が顔をぐいと近づけてきたので、一瞬どきりとしたが、顔には出さなかった。若者はスキンシップが豊富なのだろう。距離感の相違は、時代の変化だと思った。

 彼女は彼の携帯をぴこぴこいじくっていた。彼にはなにをしているのかさっぱりだったが、彼女を信じることにした。

「はい、できましたよ」

 彼は携帯を受け取った。

「ん、なんですかこれ」

 彼は画面を見ると眉を細めた。

「ツイッターっていうんですよ。わたしも最近知ったんですけどね」

「へええ……ん?『喫茶店でコーヒーなう』……。この『なう』ってなんですか?」

「ああ、それはですね。最近若い子の中で流行ってるらしいんですよ。だからわたしも真似してみました。使い方が合ってるかは自信ないですけど」

「へえ。あなたもお若いですよね」

「いえ、わたしなんかよりももっと若い、高校生くらいの子が使う言葉なんだそうです」

「へえ」

 彼はそういうしかなかった。それに、あまりそういったことに興味はなかった。

 ゴーンゴーンと振り子時計が鳴った。もう朝七時だ。日も昇り始めて、辺りは段々明るくなる。もうじき、この店も客で賑わいだすことだろう。そうなる前に、彼はこの店を出なければならない。もう別れの時なのだと、彼らは感じていた。

「ごちそうさま」

 彼はそう言って席を立った。店を出るのが、なぜか名残惜しかった。

「ありがとうございました」

 彼女はゆっくりと微笑んだ。

 彼は最後に、一つずっと疑問に思っていたことを聞いた。

「あの、どうして俺なんかを助けてくれたんですか?」

 ずっと気になっていた。もう会うこともないだろうに。

 彼女は少し考える仕草をしてから、彼の目をまっすぐと見た。

「自分でもよく分かりません。だけどたぶん、お客さんが昔のわたしに似ていたからかもしれません」

「え、それって……」

「秘密です」

 彼女は人差し指を口に当て、どこか悲しそうに微笑んだ。

 彼はくるりと向き直ると、入口へと近づいていった。その顔は屈託なく晴れ晴れとしていて、この店に入った時とは、えらい変わり様だった。それはきっと、彼女のおかげだ。もう二度と会うこともないような人間が、自分の人生を大きく左右させる。そんな出会いも、あるものだなあと思った。

 店を出る直前、彼女は彼に声をかけた。

「あの……」

「ん?」

 彼女は振り返った彼の顔を見ると、一瞬驚いたようだったが、やがて安心したようににこやかに笑った。

「いいえ、なんでも。さようなら」

「さようなら」

 彼は店を出る。チリンと、ベルが鳴る音がした。

 彼は店を出ると、ポケットから携帯を取り出した。写真フォルダを確認する。そこには、先程撮ったばかりの写真が一枚あった。彼はその画面をタップし、写真を削除した。だがツイッターにあげた写真まで消すのは、なんだかもったいないような気がした。

 彼は携帯の画面を、膝でばきりと割った。画面にはバリバリにヒビが入っていた。それを確認すると、彼は排水溝の隙間から、携帯を投げ入れた。彼女には少し悪いとは思ったが、躊躇いはしなかった。

 彼はふううと大きく息を吐いた。白くなって現れ、やがて消えていく。それがまるで、情けない自分が抜け出していくように思えて、彼は慌てて、吐いた空気を再び吸い込んだ。

 そうして彼は静かに歩き出した。

 まだ薄暗い、未明の道を。

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