第二幕 写し身
最初、この女が何を言っているのか分からなかった。物語って本とか演劇とかそういうのか。この女は何を言っている? 僕がああいうのから来た。ようは文字の中から出てきたってことなのか?
混乱する僕をよそにその女は手帳のようなものを広げ、続ける。
『君がどんな物語から出てきたのか……。それは私も知らない。まあ我々の国のものではないのは確かだ』
『我々の国ではない?』
『ああ。ここは恐らく君の出身地からすればずっと東にある国なんだ。それも多分君のいた時代から相当時間が経っている』
『……』
待て待て待て。ずっと東にある国だと?
『どれくらい離れているのですか?』
『そうだなあ。まあ海を挟んでいるから途方もないくらい遠いとしか言えない』
『海って、あの青い?』
『そうだ』
僕は海とやらを見た記憶がない。でも知識としては持っているのだ。とても広く、どこまでも遠くまで続いていく塩の水。そしてそれを挟んでいるとすれば、ここは島に違いない。……いやそんなことはどうでもいい。まずは『物語の中から出てきた』とはどういうことなのか。
『物語の中から出てきた……というのは?』
『そのままの意味だ。君は本や演劇、映画……は分からないか。まあ君は何かの物語の登場人物だったってことだ』
『でも、どうやって出てくるんですか?』
『ああ。それは第四の壁、からだ』
『第四の壁?』
それは一体何なのだ?
『物語と現実の間、それを隔てる壁……て言ったらいいのかな? たまにその壁をすり抜けてきちゃう登場人物がいるんだ』
『……すり抜ける?』
『ああ。どうやってかは私たちもまだよく分からない。……あ、そうだ。一つ例を出そうか』
そう言って女はさっきの薄い板に近づき、僕が引っこ抜いた糸のようなものをカチャカチャとつけている。そして、机の中から筆入れほどの大きさの物を出し、薄い板に向ける。瞬間、薄い板がまた別の世界を映し出した。
『えーと。まだやってるところあんのかなあ』
女は筆入れのような何かの突起を指で押している。すると、薄い板の中の世界が次々に切り替わっていった。
『これはテレビと言ってね。まあなんて言ったらいいのか、世界と一瞬で繋がれるものなんだ。世界のあらゆる情報をこの映っている人とその仲間の人たちがまとめて、この薄い板、画面ていうんだけどこれを通じて紹介してくれるの。これはリモコン。このテレビを操作するものだ』
と女は薄い板と筆入れのようなものを交互に指差した。
『お、あったあった』
テレビと呼ばれるものからまた声がする。今度は男のものだ。
「きょうごご、じょせいごにんをさつがいしたとして……」
さっきも聞いた訳の分からない言葉だ。
『何を言っているのか分からないです』
『あ、そうか。じゃあ言うぞ。今日午後女性5人を殺害したとして17歳の少年が捕まりました』
……なんだと。女性5人を殺しただって? まだ17歳の男の子が? 年端の行かぬ少年が? なんてひどい事件だ。その少年はなんだってそんなことを!
『……許せない……』
『そうだろうそうだろう。でもじつはこれも物語の登場人物がやったことなんだ』
『え?』
『君、ジャック・ザ・リッパーって知ってるかい?』
ジャック・ザ・リッパー? 一体誰なんだそれは。
『ああ。知らない? ジャック・ザ・リッパー、人呼んで切り裂きジャックは私たちの世界ではかなり有名な殺人鬼でね。殺した女性の臓器を持ち帰ったっていう気狂いな男で、それそれは人々に残した印象とか凄かったわけだ。それこそ、事件から100年以上たった今でも捜査が続けられているぐらいね。だからかなり多くの、小説や舞台に限らず、物語に登場したわけさ。で、これはその物語の一つとなった切り裂きジャックが第四の壁を突破してこっちの世界の女性を5人殺したということだ』
実在した殺人鬼なんかを小説に出すとは、この時代は酔狂なことをするものだ。でもこの話のおかげでだいぶ今の自分の状況を受け入れやすくなった。
『当然17歳の少年ていうのは嘘。切り裂きジャックは見つけて処分した。この国は少年法ていうのがあって、大人になる前は顔とか名前は晒されない。だから第四の壁を突破してきた漂流者がなにかしでかしたときの隠れ蓑ってわけだ。まあこっちの世界に出てきても、出典となった物語のなかの、その登場人物が消えたわけじゃあない。ページを開いて白紙だらけだったら大騒ぎだからな。物語の登場人物が幽体離脱してこっちに来たと思ってくれていい。だから、実際は亡霊のようなものと考えてくれ。死んだら消えるだけだからな』
ようは物語の登場人物の写し身というわけか。不思議と悲しみや焦りは湧いてこなかった。何も思い出せず、もとの世界にも恐らく帰れない。いや、そもそも帰る必要がないし、帰る世界だって存在しない。そんなただ息を吸って吐くだけの不確かな存在なのに。
『で、私たちはそういう漂流者たちを観測して処分するっていう仕事をしているわけだ。警察庁公安部対未確認事象課という部署でね』
『じゃあ。なんで僕を殺さない』
処分するだけなら僕をこんなところに運び込まずにさっさと殺してしまえばよかったのではないか。
目の前の女は僕の問いにテレビのリモコンを手の上で弄びながら答えた。
『実は、君と同時に、ああ七日前のことなんだが、第四の壁を突破してきた漂流者がいるんだ。多分君と同じ出典元だと思うんだけど、その漂流者の持つエネルギーが凄まじくてね。こっちの観測機器が一瞬で全てショートしたんだ。ああこの観測機器っていうのはその漂流者の恰好や顔立ちから一瞬で出典元を割り出すものなんだ。恐らく君はその漂流者に引っ張られて第四の壁を超えたのだろうね。記憶が無いのは、それが影響しているのかもしれない』
そう言って女はテレビより一回り以上小さい板を出してきた。
『これはタブレットというものだ。小さいテレビと思えばいい。ひとまずはこれを見てほしい』
僕は言われた通り、タブレットに目をやる。夜なのだろうか? 映る世界は薄暗く大きな建物と建物の間の道が映し出された。刹那、画面全体が白く染まる。一瞬テレビと同じように女が何かしたのかと思ったが、それも違う。光っているのだ。とてつもなく強い光がタブレットの画面全体を覆っている。明るすぎて、さっきまで映っていた建物も見えない。やがて雷を思わせるその光は徐々に小さくなり、夜を取り戻していったが、真ん中に一瞬だけ人影のようなものが浮かんだ気がした。一瞬だけ、ほんとに一瞬だけ浮かんだだけの影。それだけだったが、僕の心はひどく揺さぶられた。なんだが自分の半身を失い、そしてもう一度出会ったような、そんな感情を覚える。けれども、その人影を見ても何も思い出せなかった。
『っ!!』
女は、興奮した犬みたいに映像に食いつきそうになる僕を見つめてからまたタブレットに目線を戻した。
『やっぱり、君とこの漂流者の関係は相当深いようだ。恋人か親友か、はたまた好敵手か。まあでも普通だったらこんな風に超えてくることはない。もっと静かなものなんだ。眼を離した隙にそこにいるみたいな感じでな。それこそ君がその例だ。君はこの漂流者の映像が撮れた場所から大体6キロぐらい、歩いて1時間と50分くらいのところでうつ伏せに倒れた状態で発見された。まあこの漂流者のせいで観測機器の大本が駄目になってそれは今も直っていないから、君の正体も分からないままなんだけど。これだけのエネルギーと一緒に第四の壁を越えてきた漂流者は牛首以来だ。漂流者の持つ力はその漂流者が物語の中でどんな感情を抱いたかに依存する。これだけのエネルギーを持つということは、よっぽど呪いや恨み、悲しみの念が強い設定の登場人物なんだろう』
女の声は徐々に尻すぼみになり、最後は独り言のようなものに変わっていった。
『牛首?』
『ああ。この国の禁忌と言っていい話だ。こいつのせいで私たちの仲間の殆どが死んだ』
女は忌々しげに首を振り、髪をかき上げた。
『いや、そんなことはどうでもいい。私は今日、君にお願いしにきたんだ』
女の声はさっきの余裕綽々とした話し方と打って変わって、ため息混じりの少し早口なものとなった。牛首とやらに植え付けられた恐怖を僕が刺激してしまったからだろう。少し申し訳なく思った。
『お願い、とは?』
『ああ。実は君とこの漂流者が第四の壁を突破してきてからこの都市で毒殺事件の件数が一気に増えた。もともとゼロに等しかったものがここ数日で6件に増えたんだ。これはこの漂流者の仕業である可能性が高い。そこで、だ。この漂流者と関係がありそうな君に私たちの手伝いを依頼したい。君の記憶も取り戻せるはずだ』
『手伝い?』
僕の胸が冷や汗をかくような感覚を覚える。なんだか嫌な予感がした。
『ああ。私たちと一緒にこの漂流者を探すんだ。協力してくれるかい?』
……結局、僕はこの女、いや、ボウエンというコードネームを持っているらしい刑事の頼みを飲んだ。嫌な予感は洪水が街を進んでいくように、確実に僕の平常心を蝕んでいったが、僕ともう一人の漂流者の全てを知りたいという心からの願望に逆らうことはできなかった。
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