百合と獅子

尾羽つばさ

第1話 治癒の少女

 この世界には、人類の他に吸血鬼という魔物が存在するが、それが実在することを多くの人間は知らない。もともとは東ヨーロッパでまことしやかに流布していた伝説だった。その地域から伝染病のように世界中に広がり、今に至るということだ。

 吸血鬼は死体に憑依する魔物であり、死体の生前の記憶と人格を色濃く反映する。まるで死体が生き返ったような状態になるのだ。

 吸血鬼は体温が低い。これは所詮しょせん、死体であるためだ。あと、甘い匂いがする。これは腐臭だ。不老であるが不死身ではなく、怪我や病気で死ぬこともある。死ぬと灰になって死体は残らない。摂取する血は動物であればなんでも良いが、人間の女性、特に処女の生き血が良いとされる。繁殖はせず、死者に血液を分け与えることによって数を増やす。噛まれたり、血を吸われたりするだけでは吸血鬼化しない。

 これが吸血鬼という魔物だ。


 ◇◇◇


 昼間はジリジリとした暑さを感じるが、日が昇るまでは幾分か涼しい。そんな、東京の夏の朝方だった。

 繁華街の裏通りの道で、女が倒れていた。身体は冷たく、息はしていない。

 住川すみかわ千鶴ちづる刑事は、その女の傍らに相棒の漆原うるしばら大輔だいすけ刑事と並んで立っていた。鑑識が慌ただしそうに写真を撮っている。二人はこの繁華街で起こった殺人事件の現場検証をしていた。犯人は逃走中だが、目撃証言がある。どうやら、男らしい。捕まるのも時間の問題だろう。

 昨夜遅くから明け方にかけて雨が降ったせいか、アスファルトには水溜りが出来ている。女はうつ伏せで倒れており、長い髪が顔を隠していた。着衣は乱れていない。争った形跡もないようだ。

「被害者の名前は、坂上麗子れいこ。二十四歳、女性。職業フリーター。現在は日神ひのかみ駅前にあるキャバクラ『エンジェルズ』で勤務していたようです」

 若い警官が、刑事二人にそう告げた。

「ストーン神父、どう思われますか?」

 漆原刑事は眼鏡をかけたアフリカ系の初老の男にそう尋ねた。

「全身の血を抜かれ、首筋には噛み痕……吸血鬼の仕業で間違いありませんね」

 ストーン神父と呼ばれた男は、顎を撫でながらそう答えた。

 この街――日神ひのかみ市に吸血鬼の魔の手が忍び寄っているようだ。日神警察署は吸血鬼対応係を設置して、吸血鬼に対する捜査を積極的に行っているが、未だ成果はないに等しい状態だった。

 千鶴と漆原は、この吸血鬼対応係に配属されて半年になる。

「吸血鬼か……」

 千鶴は考えていた。この世界では魔法などのオカルト的な現象は存在しないというのが常識だ。科学文明が発達し、科学技術によって生活の基盤を支えられている現代社会において、それはありえる話ではないのだ。しかし――。

「まさか、ね……」

 千鶴は頭を振り、考え直すことにした。今すべきことは事実の確認であって、余計なことを考えることではなかったからだ。たとえそれが非科学的であっても。


 ◇◇◇


 蝉しぐれが聞こえる中、明日から夏休みなろうとする、とある都立高等学校の一年生の教室にて。放課後での出来事だった。生徒の誰かが教室の窓を開ける。すると、とある女子生徒の黒髪のミディアムボブヘアーが風で揺れた。この生徒――月下つきしたさゆりは日神市で暮らす女子高生だ。父親はおらず、母親と二人で暮らしている。

「ねえ、月下さん、どこ中だっけ?」

 女子生徒の一人が、さゆりに尋ねてきた。

「ひ、日神第三中学校……」

 さゆりはほそぼそとした声で答えた。女子生徒は自分のグループに戻り、噂をする。

「今の聞いた? 声めっちゃ小さいんだけど!」

 女子生徒のグループは、さゆりを嘲笑した。

 ああ、高校でもぼっちなんだ――さゆりはそう思った。これは今に始まったことではない。母子家庭という理由で、さゆりは小さい頃からいじめを受けてきた。クラスメイトの親ですら、「母子家庭の子とは遊ぶな」と言って差別してきたのだ。かといって、自分を育ててくれた母親を恨んだことは一度もなかった。

 そんな環境で育ったせいか、さゆりは人と話すことが苦手だった。さらに、入学して早くもクラスから浮いてしまった。そのきっかけは、自己紹介の時に自分の名前を噛んでしまったことだ。それ以来、クラスメイトからは笑い者にされてしまった。二人を除いては。さゆりを笑わなかったクラスメイトは二人いたのだ。

 まず一人目は、白谷しらたに美桜みおだ。「陰キャ」なさゆりとは正反対の、キラキラ系モテ女子。しかし、他の女子生徒たちが「月下さんって暗いよね」と噂をしていると、「そんなこと言っちゃダメだよ」と言ってくれたのだ。

 もう二人目は、住川すみかわ隼人はやとだ。さゆりの幼馴染であり、いじめを受けていた時のさゆりの味方になってくれた子だ。どうやら、いじめやからかいが嫌いらしい。幸い、スクールカースト上位の隼人が目を光らせているおかげで、クラスにいじめは起こっていない。

 さゆりは心の中で「隼人くん……」とつぶやく。さゆりが恋をしている相手こそ、かばってくれた隼人なのだ。だが、彼はクラスの人気者だ。こんな冴えない自分が彼に話しかけていいはずがないと、自分に言い聞かせていた。

 さゆりは部活動に参加するため、通学用リュックサックを背負おうとしていた。さゆりの部活動は、手芸部だ。

「ボッシーさん!」

 教室のドアが開き、長い黒髪の美人が現れ、さゆりを呼んだ。さゆりが所属する手芸部の部長、通称「姫」だ。一方、「ボッシー」は母子家庭のさゆりを揶揄やゆするあだ名だった。姫はさゆりの席に近づいてくる。

「は、はい」

 さゆりは返事をした。するとその拍子に、さゆりの手にあったキーホルダーが床に落ちた。

「なにこれ?」

 姫はそう言って、キーホルダーを拾う。そしてキーホルダーのロゴを一瞥いちべつすると、大きな声で笑った。

「ブリット・ローズ? ボッシーさんって自称吸血鬼のミュージシャンが好きなのー?」

 姫は大声でそう言う。教室には、まだ生徒が残っている。さゆりは恥ずかしくなって止めようとしたが、姫は自重しなかった。それどころか、大声で笑いながら喋り続けた。

「吸血鬼って、あくまでも自称でしょ? だって、そんなのいる訳ないものね!」

 穴があったら入りたい――姫の言葉に、さゆりは羞恥心しゅうちしんから顔がカーッと熱くなるのを感じた。

 ブリット・ローズは、自称「吸血鬼」のボーカリスト、ジークフリートが率いるロックバンドだ。彼の「吸血鬼」という設定が自称に過ぎないのはわかっている。だが、彼のカリスマ性は本物だ。彼の作った曲は本当に素晴らしいものばかりだし、金髪に、青い目、美しい顔立ちという、まるで漫画の中の登場人物のような美貌も魅力的だ。実際、彼には熱狂的なファンもついていた。

「あ、そうそう。夏休みの宿題、やってくれるわよね?」

 姫は当然のようにそう言う。

 さゆりは気弱な性格のせいか、部員からパシリ扱いされていた。特に女王様の姫はさゆりがお気に入りらしく、いつも用事を押し付けてくるのだ。自分の宿題だけでも手一杯なのに、その上、上級生の宿題もやらなければならないのか。

「は、はい」

 だが、さゆりは従うしかなかった。逆らえば、なにをされるか。

「じゃあ、部室で渡すから。頼んだわね!」

 姫はそう言ってキーホルダーをさゆりに返し、教室から去っていった。


 ◇◇


 部活動が終わったさゆりは、校門をくぐって下校する。外はもう暗かった。空にはよい明星みょうじょうが見える。

 こんな私、生きている意味、あるのかな――さゆりは歩きながらそう考えていた。ぼっち、根暗女といったワードが頭をよぎる。痩せた体つきのその少女は、傍から見れば弱々しく思えるだろう。

「にゃあ……にゃあ……」

 さゆりが自宅に向かって歩いていると、どこからともなく子猫の弱々しい声が聞こえた。さゆりが声のしたほうへ向かうと、誰もいない公園の木の陰で、小さな黒猫が丸くなっていた。その背中には傷があり、血がにじんでいる。おそらく、カラスに襲われたのだろう。

 助けたい――そう思ったさゆりはその黒猫の背中を撫でた。すると不思議なことに、その黒猫の背中の傷が癒えたのだ。これは、さゆりが幼い頃から持っていた不思議な力だ。小学生の頃、自動車にかれた瀕死の犬を蘇生させたこともある。

 さゆりは公園の蛇口の水で黒猫の身体を洗い、血を洗い流した。そしてハンカチで身体を拭いてあげた。

「にゃあ」

 黒猫が鳴きながら、さゆりにまとわりつく。どうやら、さゆりに懐いたらしい。さゆりはその小さな身体を通学用リュックサックに入れることにした。

「お母さんに相談しなきゃ」

 さゆりはそうつぶやいて立ち上がる。するとその時、甘い匂いが漂い、男の悲鳴が聞こえた。

 えっ、なにごと? ――そう思ったさゆりは恐る恐る声の聞こえた茂みのほうへ視線を向けた。

 男が、誰かに胸を刺されていた。

「きゃあ!」

 さゆりが思わず声を上げる。すると、犯人が振り向く。犯人は外国人だった。さゆりはその場から逃げ出した。

「待て! 誤解だ!」

 背後からそう聞こえた。だが、誤解もなにも、現に人の胸を刃物で刺していたではないか。

 さゆりはひたすら逃げた。気がつくと、自宅からだいぶ離れてしまっていた。

 そうだ! 警察に通報しなきゃ! ――さゆりがそう考えてスマートフォンを取り出そうとしたとき、記憶が途切れた。

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