百合と獅子

尾羽つばさ

第1話 治癒の少女

 昼間はジリジリとした暑さを感じるが、日が昇るまでは幾分か涼しい。そんな、夏の朝方だった。

 繁華街の裏通りの道で、女が倒れていた。身体は冷たく、息はしていない。

 住川すみかわ千鶴ちづる刑事は、その女の傍らに上司の漆原うるしばら大輔だいすけ刑事と並んで立っていた。鑑識が慌ただしそうに写真を撮っている。二人は街で起こった殺人事件の現場検証をしていた。犯人は逃走中だが、目撃証言がある。どうやら、男らしい。捕まるのも時間の問題だろう。

 昨夜遅くから明け方にかけて雨が降ったせいか、アスファルトには水溜りが出来ている。女はうつ伏せで倒れており、長い髪が顔を隠していた。着衣は乱れていない。争った形跡もないようだ。

「被害者の名前は、坂上麗子れいこ。二十四歳、女性。職業フリーター。現在は日神ひのかみ駅前にあるキャバクラ『エンジェルズ』で勤務していたようです」

 若い警官が、刑事二人にそう告げた。

「ストーン神父、どう思われますか?」

 漆原刑事は眼鏡をかけたアフリカ系の初老の男にそう尋ねた。

「全身の血を抜かれ、首筋には噛み痕……吸血鬼の仕業ですね」

 ストーン神父と呼ばれた男は、顎を撫でながらそう答えた。

 この世界には、人類の他に吸血鬼という魔物が存在するが、それが実在することを多くの人間は知らない。日本は吸血鬼が公に確認されていないため安全とされているが、この街――日神市にも吸血鬼の魔の手が忍び寄っているようだ。日神警察署は吸血鬼対応係を設置して、吸血鬼に対する捜査を積極的に行っているが、未だ成果はないに等しい状態だった。

「吸血鬼か……」

 住川刑事は考えていた。この世界では魔法などのオカルト的な現象は存在しないというのが常識だ。科学文明が発達し、科学技術によって生活の基盤を支えられている現代社会において、それはありえる話ではないのだ。しかし――。

「まさか、ね……」

 頭を振り、考え直すことにした。今すべきことは事実の確認であって、余計なことを考えることではなかったからだ。たとえそれが非科学的であっても。


 ◇◇◇


 夏休みを目前にした日神高校の、一年三組の教室にて。放課後の掃除での出来事だった。生徒の誰かが教室の窓を開ける。すると、とある女子生徒の黒髪のミディアムボブヘアーが風で揺れた。この生徒――月下つきしたさゆりは日神市で暮らす女子高生だ。父親はおらず、母親と二人で暮らしている。

「ねえ、月下さん、どこ中だっけ?」

 女子生徒の一人が、教室を掃除するさゆりに尋ねてきた。

「く、倉光中学校……」

 さゆりはほそぼそとした声で答えた。女子生徒は自分のグループに戻り、噂をする。

「今の聞いた? 声めっちゃ小さいんだけど!」

 女子生徒のグループは、さゆりを嘲笑した。

 ああ、高校でもぼっちなんだ――さゆりはそう思った。これは今に始まったことではない。母子家庭という理由で、さゆりは小さい頃からいじめを受けてきた。クラスメイトの親ですら、「母子家庭の子とは遊ぶな」と言って差別してきたのだ。かといって、自分を育ててくれた母親を恨んだことは一度もなかった。

 そんな環境で育ったせいか、さゆりは人と話すことが苦手だった。さらに、入学して早くもクラスから浮いてしまった。そのきっかけは、自己紹介の時に自分の名前を噛んでしまったことだ。それ以来、クラスメイトからは笑い者にされてしまった。二人を除いては。さゆりを笑わなかったクラスメイトは二人いたのだ。

 まず一人目は、白谷しらたに美緒みおだ。「陰キャ」なさゆりとは正反対の、キラキラ系モテ女子。しかし、他の女子生徒たちが「月下さんって暗いよね」と噂をしていると、「そんなこと言っちゃダメだよ」と言ってくれたのだ。

 もう二人目は、住川隼人はやとだ。さゆりの幼馴染であり、いじめを受けていた時のさゆりの味方になってくれた子だ。どうやら、いじめやからかいが嫌いらしい。幸い、スクールカースト上位の隼人が目を光らせているおかげで、クラスにいじめは起こっていない。

 さゆりは心の中で「隼人くん……」とつぶやく。さゆりが恋をしている相手こそ、かばってくれた隼人なのだ。だが、彼はクラスの人気者だ。こんな冴えない自分が彼に話しかけていいはずがないと、自分に言い聞かせていた。

 掃除が終わったさゆりは、席に着いてお気に入りのキーホルダーをいじる。そのキーホルダーには、英語で「ブリット・ローズ」というロゴが入っていた。

 ブリット・ローズは、自称「吸血鬼」のボーカリスト、ジークフリートが率いるロックバンドだ。彼の「吸血鬼」という設定が自称に過ぎないのはわかっている。だが、彼のカリスマ性は本物だ。彼の作った曲は本当に素晴らしいものばかりだし、金髪に、青いカラーコンタクトレンズを入れた目、美しい顔立ちという、まるで漫画の中の登場人物のような美貌も魅力的だ。実際、彼には熱狂的なファンもついていた。

「ボッシーさん!」

 教室のドアが開き、長い黒髪の蒼が現れ、さゆりを呼んだ。さゆりが所属する手芸部の部長、通称「姫」だ。一方、「ボッシー」は母子家庭のさゆりを揶揄やゆするあだ名だった。

 彼女はさゆりの席に近づいてくる。さゆりは慌ててキーホルダーを隠した。

「は、はい」

 さゆりは返事をした。

「今、なに隠したのよ?」

 姫が意地悪な口調でそう言う。

「いいから、貸してちょうだい!」

 姫はそう言ってさゆりの手からキーホルダーをぶん取った。そしてキーホルダーのロゴを一瞥いちべつすると、大きな声で笑った。

「ブリット・ローズ? ボッシーさんって自称吸血鬼のミュージシャンが好きなのー?」

 姫は大声でそう言う。教室には、まだ生徒が残っている。さゆりは恥ずかしくなって止めようとしたが、姫は自重しなかった。それどころか、大声で笑いながら喋り続けた。

「吸血鬼って、あくまでも自称でしょ? だって、そんなのいる訳ないものねー!」

 穴があったら入りたい――姫の言葉に、さゆりは羞恥心しゅうちしんから顔がカーッと熱くなるのを感じた。

「あ、そうそう。夏休みの宿題、やってくれるわよね?」

 姫は当然のようにそう言う。

 さゆりは気弱な性格のせいか、部員からパシリ扱いされていた。特に女王様の姫はさゆりがお気に入りらしく、いつも用事を押し付けてくるのだ。自分の宿題だけでも手一杯なのに、その上、上級生の宿題もやらなければならないのか。

「は、はい」

 だが、さゆりは従うしかなかった。逆らえば、なにをされるか。

「じゃあ、部室で渡すから。頼んだわね!」

 姫はそう言ってキーホルダーをさゆりに返し、教室から去っていった。


 ◇◇◇


 日神市内にあるビルの一室にて。栗毛と灰色の目が特徴の、無精髭を生やした精悍な顔つきのその男は、一人ソファに座り、誰かを待っている様子だ。

 しばらくすると、外からハイヒールで歩く足音が近づいてくる。足音の主である女は、どうやらこの部屋の主に用があるらしい。女が静かにドアの前に立ち、呼び鈴を鳴らす。この部屋の主――レンは女を招き入れた。レンはその女の顔を見て、少なからず驚いた。

「エリカ?」

「お久しぶりね、レン。あら、相変わらずいい男」

 エリカと呼ばれた黒髪ショートの美しい女は、レンに向かってそう言う。

「なにしに来た? 復縁のお願いか?」

「冷たい人ね。依頼をしに来ただけよ。あなたに力を貸してほしいの」

 エリカはそう言うと、二人はソファに座る。

「この街にそうという吸血鬼が潜伏しているわ。奴を倒してほしいのよ。あなたは『ダンピール』について詳しいかしら?」

 エリカはそう尋ねてきた。

「それがどうした?」

 レンは素っ気なく答えた。

「蒼は、ダンピールが持つ『治癒の異能』を狙っているの。蒼はその力を手に入れて、自らを頂点とした吸血鬼による世界征服を目論んでいるのよ」

 エリカは言った。すると、レンはある事に気づいた。

「随分詳しいじゃねえか」

 レンはエリカにそう言った。

「私もダンピールだもの。どう? 信じられない?」

 エリカは挑発するように言う。

「生憎だが、他を当たってくれ」

 レンはそう言うと、エリカに「あっちに行け」というジェスチャーをした。

「まあ、いいわ。いずれ考え直すでしょうし……。じゃあね、レン」

 エリカはそう言いながら、部屋から立ち去った。レンはそんなエリカの背中を見つめていた。


 ◇◇◇


 部活が終わったさゆりは下校中、横断歩道を渡ろうとする。すると、そばで小さな黒猫も一緒に渡っているのに気づいた。

 あっ、黒猫ちゃんだ。首輪していないから、野良かな? ――さゆりはそう思いながら、その黒猫に近づく。するとその瞬間、トラックがこちらへ向かって勢いよく走ってきた。

 かれる! ――さゆりがそう思って目をつぶったその時だった。

 次の瞬間、さゆりは何者かに抱きかかえられ、横断歩道を渡った向こう側に倒れ込んだ。さゆりは、なにが起こったのか理解するのに時間がかかった。

「バカヤロー! 死にてえのかー!」

 トラックの運転手がそう罵倒し、走り去る。そっちから突っ込んどいて失礼だな、とさゆりは思った。

「怪我はないか?」

 黒猫を抱えたさゆりに、男がそう話しかける。栗毛の短髪に灰色の目――外国人だ。年齢は三十代後半くらいだろうか。おじさんだが、なかなかのイケメンだ。

「あ、はい……大丈夫です……」

「なら、よかった」

 外国人の男はそう言うが、さゆりは気がついた。この人、手の甲を擦りむいてる――と。

「あ、あのっ……!」

 さゆりは思わず、立ち去ろうとする外国人の男を呼び止めた。男に駆け寄り、手を掴む。そして、男の手の甲に自らの手をかざした。すると、手の甲の傷が癒えたのだ。

「ん?」

 男は自らの手の甲を確認した。傷はもう痕も残っていなかった。

「急にごめんなさい。私、不思議な力があるんです……」

 さゆりはそう言った。これは、さゆりが幼い頃から持っていた不思議な力だ。過去に瀕死の野良犬を蘇生させたこともある。

「……治癒の異能、か」

 男はそうつぶやいた。まるで、待っていたかのような口ぶりだ。

「お嬢ちゃん。傷を治してくれたお礼もしたいし、どこかでお茶しないか?」

 男はそう言った。


 ◇◇◇


 さゆりは外国人の男と、近くのハンバーガーショップに来ていた。店は混んでおり、二人は席に座っている。さゆりは傷を治してくれたお礼にと、男がハンバーガーをおごってくれることになったのだ。しかし、さゆりは異性と二人で食事するのは初めてで、緊張していた。

「い、いいんですか?」

 さゆりはそう確認する。

「いいんだよ。俺のおごりだ」

 男はそう答えた。

「あ、ありがとうございます……」

 さゆりはお礼を言う。二人はともに「いただきます」と言うと、注文したハンバーガーを食べ始めた。

美味おいしい……」

 さゆりはそうつぶやく。

「そういえば、名前を教えてなかったな。俺の名前はカッシング。レン・カッシング。お嬢ちゃんは?」

 外国人の男は名乗り、さゆりの名前を尋ねてきた。今度は噛まないように気をつけなければ。

「月下さゆりと申します……」

 さゆりが噛まずに名乗ると、レンと名乗った男は驚いた表情をしていた。

「月下……? もしかして……お母さんの名前、月下すみれさん、って言わないか?」

「は、はい。お母さんのお知り合いですか?」

「知り合いというか……住んでる賃貸のオーナーなんだ」

「確かにお母さん、ビルのオーナーです……」

 さゆりの母親は、「倉光三一三ビル」という五階建てのビルのオーナーをしている。まさか、住人の男と知り合うことになるとは、さゆりも予想外だった。

「じゃあ、オーナーの娘さんか」

「そ、そういうことになりますね」

 さゆりは力なく笑ったが、ふと、通学用リュックサックに黒猫が入っていることを思い出した。

「そうだ。この子もポテトなら食べられるかな?」

 さゆりはそう言って、リュックサックに目をやる。

「猫に揚げたジャガイモは良くないぜ」

「そ、そうなんですか。知りませんでした……。ごめんね、猫ちゃん」

 レンに言われて、さゆりはリュックサックの中の黒猫に謝った。二人は時々おしゃべりをしながら、ハンバーガーを食べ終えた。

「同じビルに住んでる訳だし、送ろうか? 日がまだ出てるとはいえ、女の子一人じゃ危ないだろ?」

「えっ! い、いいです!」

 さゆりは驚いた。命を助けてくれて、ハンバーガーをおごってくれた上に、家まで送ってくれるとは優しすぎる。自身はそこまでしてもらう価値のある人間ではない、とさゆりは思っていた。

「いいです、ってことは……送ってほしいのか?」

 だめだ。意思の疎通、とれてない――さゆりは落胆した。

「違うんです。『いいです』っていうのは肯定じゃなくて否定なんですうううう」

「遠慮するなよ。タクシー呼ぶから」

 さゆりは断りたかったが、レンはスマートフォンを取り出し、タクシーを呼んだ。タクシーはすぐに来た。

「倉光三一三ビルまでお願いします。『リヒト』って喫茶店のあるビルです」

 レンは運転手にそう伝え、二人を乗せたタクシーは発進した。自宅に向かう道中、カーラジオからニュースが流れてくる。「FMヒノカミ」――日神市を放送対象地域としたコミュニティFM放送局のラジオ番組だった。

「昨日、市内に住む女性が行方不明になり、今朝方遺体となって発見されていたことが明らかになり――」

 殺人事件かな? 物騒な世の中だなあ――さゆりはぼんやりしながらそう思った。

 あとは家に帰って、宿題をやって、お風呂に入って、寝るだけ――さゆりはそう思っていた。数分後までは。

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