第1話

「誰よりも優しくありなさい」

 それが母の口癖だった。霧のように曖昧な視界で僕の涙を拭いながら今日も言う。長い艶のある黒髪はいつも周りの目を引き、スッと伸びた鼻、淡い朱色の唇はいつだって微笑んでいる。

「どうして、あいつらが僕の悪口を言ったんだ」

 僕は悪くない。言外に主張する。母は困ったように微笑む。

「そう、そうかも知れないわね。だとしてもよ」

 確かにこの時、俺は母にひどい言葉をぶつけた気がする。詳細は記憶に埋もれて思い出せなかった。ぼんやりとまぶたに暖かさが与えられた。

 揺りかごのような心地の良い振動がついたひじから伝わっていた。寝てしまっていたらしい。眼鏡をかけ直す。曇った電車の車窓の外には、銀世界が広がっていた。積もり積もった雪は、ミニチュアサイズの山脈を築いている。

「見飽きない街でしょう?」

 突然、横から話し掛けられる。いつの間にか俺の席の前には雪の精霊が座っていた。そう表現しても過言ではないほどの地面まで付きそうな銀髪、色素の薄い肌を持った女性だ。

「今日、来たばかりなんですよ」

「あら失礼。……転校かしら?」

「ええ、そうです」

 俺は特に驚かなかった。年齢的にも妥当な予想だろう。隠すことでもない。

「温泉付きの旅館、いえ学生なら遊園地がお薦めよ。行ってみてくださいな」

「まもなく、雪津駅、雪津駅です」

 老齢の男の声が目的地を告げる。俺はわずかばかりしか喋れなかったことを後悔しながら席を立つ。

「ようこそ雪津市へ、天ケあまがせさとる君」

 電車の外に出る寸前、女性がそんなことを言った。首をひねって記憶を探って見るが、雪女に化かされた気分になっただけだった。

 

 周りではスマホを持った人の波がうごめいている。早々に立ち去ることにした。駅から出るとリュックの中にあった古臭い紙の地図を取り出す。雪津駅、雪津駅、あった。目的地は北東だ。

 右を見れば雪、左を見れば雪、下も当然雪で、上からは新たな刺客が派遣されている。真っ白な道に足を取られながら進む。吐き出す息は、一瞬で白くなる。電車に乗る前に調べた情報によると10℃は当たり前のように下回っている。手袋とマフラーがなければ外を歩きたくもない。

 急な坂道を登ると、公園の草木に雪が降り積もっていた。一角には緑の大地が広がっていた。おそらく春にでも花が咲くのだろう。石造りの橋を渡って寄り道をする。公園のベンチに仲睦まじく座っている老夫婦を見ると、なんとも言えない悲しさが胸の内から登ってくる。大丈夫だ、俺にはエレインさんがいるからな。

 目的地までは迷うことなく着けた。現在、これが本当に目的地なのか怪しんでいるという一点を除けばだが。ホラー映画に出てきそうな巨大な西洋風の屋敷だ。どこかで見たような気もする。囲うように場違いなはずの和風の庭園がある。だけど見事に調和し違和感を感じさせない。

 間違って入ったら斬り殺されそうな豪邸を前に、何度も地図を見返す。穴が空くほど見つめても、うろうろと周囲を確認しても目的地は動くことはない。動く前より心なしか罪悪感が湧いた気がする。傍から見れば完全に不審者だった。

「すいませーん」

 勇気を振り絞って門の前で大声をあげる。……返事はない、ただの屋敷のようだ。楽観的な思考に影響されたのか、外で寒がるのが嫌だったのか強行突破することにした。絶対にここで正しいはずだ。たぶん……。

 門を押すとガラガラと音が鳴って、あっさりと開いた。見る限り、監視カメラもない。屋敷の将来が心配になる。

「失礼しまーす」

 本当に失礼なことをしながら言う。一歩屋敷に踏み入れた。山の頂上に登った如き達成感は鼻の前に突き刺さった棒で消し飛んだ。もしキノピオだったら鼻がもげ落ちていた。冷や汗が頬を伝う。

 後ずさりながら顔を少し持ち上げれば、純白のカチューシャを着けた青髪のメイドが立っていた。天然記念物だー、というのんきな考えは、感情の読めない冷めた瞳で吹き飛ぶ。

「不法侵入者発見!マジカルな私が駆逐するぞー」

 表情筋を一切動かさず棒読みでメイドが喋る。しかも頭の上でピースをしながらだ。決めポーズなのだろうか。

「あの、俺ここに住むことになった、天ヶ」

「言語を喋るとは、希少種か。だが問答無用」

 メイドは瞬きの瞬間に、雪に突き刺さった武器を引き抜いていた。どこにでもありそうな箒が、今の俺には鋭利な刃物よりも恐ろしい。視線からは何故か、本気かどうかも分からない。咄嗟に、後ろに受け身も取らずに転がった。頭上で風切り音がなる。

「避けた。なかなかやるようだな。だが、貴様は四天王の中でも最弱、敵ではない!」

 メイドは一気に、倒れた俺にほうきという名の魔剣が振り下ろす。反射的に腕で頭を覆った。

 衝撃は来なかった。代わりに「イタイ」という気の抜けたメイドの声が聞こえる。恐る恐る見上げると、何故か既視感を覚える黒のドレスを着た銀髪の少女がメイドの頭にチョップを食らわしていた。揺れる雪の結晶がついたネックレスが目にちらつく。

「初めまして、兄様。予想通り愉快な人なのね」

 形の良い唇を歪ませながら少女は言った。

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