ウィスキー(中編)
腕時計の短針は一をかなり置き去りにした地点に位置している。
窓の外ではやっと花をつけ始めるであろう蕾たちが冷風にさらされているようだ。
まだニ月の半ばであるため、太陽が照っていても外の肌寒さは冬場とさして変わらない。
私は調理室の扉を開ける。
今日は友達である〇〇をここに呼び出しているのだ。
「ごめんね、遅くなっちゃって」
「別にいいけど、はやくしてくれるかな」
〇〇はもともと整った顔立ちをしているが、今日はかなり気合が入っているようでいつもより化粧も厚く、そして美しかった。
なるべく自然に見えるように工夫された化粧は彼女の立体的なそれぞれのパーツを下品さなく際立たせている。
そして何より目を引くのが薄桃色の唇だ。
口紅を濃く塗り過ぎたのか、上唇と下唇を激しく擦り合わせている。
私はそんな彼女をテーブル越しで眺めながら、さっそく本題に入った。
「今度の課題がチョコレートなんだけどね、何だか自信なくって」
「仕方ないわね、ちょっと待ってて」
彼女は目の前の私をよそに誰かと携帯端末をいじっている。
テーブルには携帯端末や化粧道具一式が置かれている。
どうやらここで化粧を直したようだ。
調理室の机は清潔に扱わなければならないなんてルールなのだが、目の前の彼女にはそんなもの通用しない。
私は暇なので少し携帯端末を覗いてみることにした。
○「あたし、こんど海に行きたいなー」
●「海か、一泊二日だと少しな」
○「やっぱり厳しい? 」
●「うーん、いっかい予定とか確認してみるよ、」
○「わかった…… あ! それはそうとこの口紅ありがとね!すごく可愛いし使いやすい」
●「気に入ってくれてよかった! 〇〇に似合うと思ってさ!薄桃色にしたんだ! 」
どうやら、かなり過去の履歴を見ているらしい。彼とのやりとりであることに間違いはなさそうだ。
何より、他の化粧道具は乱雑に置かれているのにその口紅だけが綺麗に立たせてあることが気になった。
私の顔は真っ赤になった。
私は "怒りを感じると顔が赤くなる" のだ。熱を持つため鏡を見ずとも自分で感じ取れる。
許せなかった。愛する人が私ではなく、こんなやつに惚れているということに。
ずっと思ってきた、ただ一途に。
ずっと我慢してきた、隣にいれるならそれでいいと。
私はいま目の前で行われていることが許せないのではない。ずっと、このようなことが続いていた。
だから決めていたのだ、復讐しようと。
愛する者、愛してしまった者の二人に対して。
「まだ今日送ったやつ既読つかないんだけど、何かあったのかな」
私がいることなんてお構いなしに〇〇は独り言をつぶやいた。
私もそれならと聴いていないふりをして、自分の鞄を開け、チョコレートの入ったビニール袋を取り出した。
そして声をかけた。
「これなんだけどさ」
「普通のチョコレートって感じだね」
「一回、食べてみてほしいな」
私が手渡すと彼女はすぐさまチョコレートを袋から指でつまんで取り出した。
彼女の指は調理の専門学生とは思えないほど綺麗だ。
「何か見た目は普通って感じね」
「まあまあ、そう言わずに食べてよ」
「それじゃ、頂きます」
彼女はそのまま、一口でチョコレートを食べた。
そして口の中で転がすことはせず、すぐに嚙み砕いた。
その行為があなたを死へといざなう
〇〇はすぐに自分の口の中で起こった異変に気付き、口を抑えながら流し台へ向かった。
そしてチョコレートを吐き出し、水道の水で口を思いっきり
私は一応、調理の専門学校に通うパティシエの卵だ。
自分の作ったものに一定の誇りを持っている。だから “自分の作品に毒は入れてはいない”
私は〇〇が洗面台でもがき苦しんでいる様を横目に、鞄から “あるもの” を取り出した。
そして〇〇に気づかれぬよう、そっとテーブルの上にある同一のそれと入れ替えた。
それから、しばらくして水道の流れる音が止まった。〇〇が鬼のような形相でこちら見ている。
せっかくの整った顔がもったいない。
「あんた、どういうつもり あたしがお酒だめなの知っているはずなのに」
「あ、そうだったかしらね ごめんなさい」
私はあえて挑発するような口調で〇〇の動揺を誘った。
テーブルの上の些細な変化に気づかせないためだ。
「もういい、これから予定もあるし 今日は帰る」
「あらそう、それは残念だわ」
「あんたとなんて絶交よ」
〇〇はそういうとテーブルの上に散らかっていた化粧道具をポーチの中にしまい始めた。
何が絶交だ。先に仕掛けたのはそっちだろう。
あなたは私の “愛” を盗み、そして “思い” を踏みにじった。
ここからが本領だ。
彼女は自分で死へと続く扉の鍵を差し込んだ。
あとは私がその鍵を回せばよいのだ。
〇〇が化粧道具を片付けかけたその時、
「口紅、落ちちゃっているけどいいの? 」
〇〇は気取り屋だ。化粧をしていない顔を誰かに見られるのを嫌がるし、何より他の部分は完璧なのに、彼からもらった口紅だけをつけないなんてことはあり得ないだろう。
私はこの口紅に毒を入れたのだ。
わざわざ同じメーカーの同じ物を同じ店で買いまでして。
そしてすり替えたのだ。彼女が洗面台で口を漱いでいる間に。
「うるさい、余計なお世話よ」
〇〇はそうは言いつつも、再度ポーチから口紅と手鏡を取り出すと、乱雑に口紅を塗り始めた。
激高しているためか、自身が使っていた物との違いはまったく気になっていない様だ。
唇にベタ塗りし、さっきと同様に上唇と下唇を激しく擦り合わせた。
それから間もなくして、〇〇は苦しみ始めた。
私は目を瞑った。そして、ただ彼女の絶叫が響く調理室でただひたすらにそれが収まるのを待った。
三十秒ほどして、ようやく彼女は静かになった。
それを合図に目を開けるとそこには変わり果てた○○の姿があった。
彼のことを余程、愛していたのだろう。手には薄桃色の口紅がまだ握られていた。
私は彼女の手から口紅を拾い上げた。
私もはやく向かわなくては、愛する人の待つ場所へ。
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