チョコレート(前編)
時計の長針、短針がちょうど十二の数字に重なり合った頃、私は何の気なしに携帯端末とにらめっこしていた。
画面には “知り合って三年” “そういう関係になって一年”の彼のやりとりが写しだされている。目はきりっとしているけれど、髪形はキノコ型で頬や唇はふっくら。
何となく大人しい印象を持つ彼に段々と惹かれていったのは私の方だ。
語尾に “だね” とか “だよ” をつけるところとか、「寒くない? 」「手伝おうか? 」なんて気遣いをできるところとか、そんなところが彼の魅力だ。後者の長所は何度も聞かれて少し鬱陶しいときもあるけれど。
○「おはよー」
●「おっはー」
○「今日は何してるの? 」
●「今日は家でだらだらしてるよ」
○「そーなんだ あたしもだらだらしてるよ 」
●「一緒だね」
○「ねー好きだよ」
●「僕もだよ」
○「あたしたちって相性いいよね」
●「うん、そうだね」
昔の会話履歴を遡って頬杖をつきながら眺めている私を机の上の小鏡が映す。
その姿は“恋する乙女”というよりも“毒リンゴを姫に食わせるために思考を巡らせる魔女”のようだ。
ただ片っ方が送ったことを鏡みたいに送りあっている画面を見て、ちょっとだけ嫌悪したのは彼には内緒にしておこう。
そう思ったのも束の間、突然、甲高い音が部屋中に響き渡る。
私のポケットの中のタイマーが無機質に時を伝えているのだ。ヒヨコみたいにもっと愛嬌のある感じで鳴けないものなのか、それか
とにかく私はこの血の通わない音が大嫌いだ。
「はいはい、いま行きますよー」
悲壮感強めに溜息を言葉に馴染ませて空気中に流し、私は席をたった。
そして冷蔵庫の中で固まっているであろう
溜息をつくと幸せが逃げるなんて言うけれど、実際には自律神経を保つために行われる呼吸なのだ。何よりいまの私には幸せが逃げるなんて言葉自体が似合わない。
冷蔵庫の扉を開けるとそこには、オーブンペーパーに整列した
今日はニ月十四日。サプライズで彼に渡しにいくつもりなのだ。
そして、このチョコレート。実はただのチョコレートではない。なんと中にお酒が入っているのだ、俗にいう
「俺、酎ハイとかよりお洒落な洋酒の方が好きなんだよね」なんてカッコつけていた彼。
そんな彼のためにわざわざ一瓶、四千円もするウィスキーを中に仕込み、外側のチョコレートも少し良い物を溶かして綺麗に形を整え直して、高級に仕上げたのである。
甘いチョコレートとほろ苦いウィスキーが混じりあった自信作。
元々、製菓の専門学校に通っているので、こういったことは好きだし得意分野だ。
私は用意していた簡易的な箱とラッピングを棚から取り出すと、チョコレートを一個ずつ丁寧に箱詰めした。そしてラッピングを施し、もう一度、冷蔵庫に入れた。
箱に入りきらず余ったものは適当に袋に入れて、冷蔵庫に戻した。
時計の長針は八を指している。
「もう少しだけゆっくりしていられるな」
私はぽつりと独り言をこぼすと、棚から化粧品や髪留めを取り出し、さっきいたテーブルと椅子がある部屋に戻った。
そして、さっきの続きで携帯端末に目をやりながら私は化粧を始めた。昔は鏡を凝視しながらこだわったものだが、現在では他の物をチラ見するくらい、余裕にこなすことができる。
○「あたし、こんど海に行きたいなー」
●「海か、一泊二日だと少しな」
○「やっぱり厳しい? 」
●「うーん、いっかい予定とか確認してみるよ、」
○「わかった…… あ! それはそうとこの口紅ありがとね!すごく可愛いし使いやすい」
●「気に入ってくれてよかった! 〇〇に似合うと思ってさ! 薄桃色にしたんだ! 」
ファンデーションを塗りながら片方の手の指で、会話を現在へと引き戻していく。
右手にパフを持ち、左手で何かをするのはもはや私のお家芸といっても過言ではないだろう。
○「ねー、決まりそう? 」
●「うーん、まだ何とも、」
○「もう、適当に誤魔化しちゃえばバレないのに」
●「いやいや、俺にだって責任ってものがあってだね」
○「またそんなこと言って、あたしもう知らないからね」
●「待って待って、ごめんよ もう少し待って、たぶん大丈夫だからさ」
私の顔はファンデーションでは隠し切れないほどに真っ赤になった。そこには、どうしようもないことにごねる彼女と煮え切らない彼の姿があったからだ。
だが、怖い物見たさで最後まで眺めてみることにした。もし壁に覗き穴があったら誰でも除きたくなるだろう、それと同じだ。
この瞬間、"恋する乙女" は "覗き魔"となった。
○「どうだった?」
●「ん?多分、大丈夫だと思うよ……」
○「多分って何よ笑」
●「だってまだいってないから、はっきりしないでごめんよ」
○「もー仕方ないよ、なるべくはやくね」
●「うん、今夜にでもいってみるよ」
アイラインを引いていく。
私はどちらかと言えば顔が薄いので、なるべくはっきりして見えるように黒の物を使うようにしている。
私の頬はというとまだ熱を持っていた。いったい何度、同じ会話をしているのだろうか。
時間がたち、メイクが進んでいくにつれて、私の顔はますます赤くなっていった。
ポンッ「今日、なんか予定あるー? 」
もう画面は閉じて、はやく準備を始めよう。そう思い立った時だった。
端末にメッセージが表示されたのである、送られてきたのだ。
私はまずいと思い、すぐさまトークを閉じて、携帯端末をポケットの中にしまった。
もし、これに返信してしまえばここまでの計画が水の泡だ。焦った私の目が泳ぐ。
時計の短針はすでに一を少し通り越していた。
私は手早く腕時計を左手に巻く。
勝負の瞬間はすぐそこまで迫ってきているのだ。
私は「ふー」と息を吐き切ると彼への気持ちを一つずつ心の中に浮かべていくことにした。
優しくて大人しい彼
ベッドで見せる男らしい彼
すぐに財布や携帯を失くしてしまう彼
焦ると髪をかき上げて落ち着こうとする彼
照れると唇をペロッと舐める彼
気さくにいろんな人に話しかける彼
私の友達とも凄く仲良くしてくれる彼
浮かべて言ったらキリがない。
私の心の大海に彼への気持ちを表した水風船が無数に浮かび上がるようなそんな感じだ。
自分で想像しておいて、私はまた顔を真っ赤にさせた。
サプライズというのはあまりしたことがないからか、緊張しているのが自分でもわかる。
「きっと大丈夫、上手くいく」
私は鏡で自分の顔を確認しながら、そう呟いた。
そして冷蔵庫の中からはチョコレートを、棚からは薄桃色の口紅をそれぞれ取り出し鞄にいれた。
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