第17話 努力家が迷い込む隘路

「努力……」


「美希ちゃんも同じ西都大生だから分かってもらえると思うけど。私たちは西都大学に合格したことで偏差値競争の勝者として、優秀だという評価を学歴として獲得したわけよね。だけど、同時に『しょせん偏差値秀才に過ぎない』という非難がましい目で見られることにもなった」


 そうだ。スポーツとか音楽とかの習い事なら上達したことは単純に褒められるのに、勉強だけはそうじゃない。勉強ができても、いや、できる分、他の何かが劣っていると決めつけられがちだ。男性だって「ガリ勉は心が貧しい」くらいは言われるだろう。それに加えて女性の場合は……。


「人生は受験と就職だけじゃないわ。大人になった女性は恋愛や結婚……女性としての魅力を問われる場面から避けられない。それなのに私は初めてできた彼氏にフラれてしまって、最初からつまづいてしまった」


「由梨さん……」


「私は失恋から立ち直ろうと思った。価値がないのなら価値をもとうって思った。もう去っていった他人は変えられないけれど、自分は変えられるもの」


 由梨さんはきゅっと目を瞑ってから続ける。


「そこで私は考えたの。じゃあ女性としての価値って何かしら? 何に努力をすればいいの? 私はずっと子どもの頃から習い事にも勉強にも頑張って成果を上げてきたわ。努力する方向さえ見つかれば、それに邁進して……そうすることでこの混乱しきってたまらない苦しさから抜け出せると思った」


 その努力の向かう先が、お洒落やエステや、英会話などの知的な習い事であればいわゆる「自分磨き」と呼ばれるものとなるだろう。だが、この優秀で真面目な由梨さんに、そんなヌルいものは物足りなかったに違いない。


「その時の私は少しふっくらしてたのね。社交ダンスの練習場の鏡に映る自分の姿が急に醜悪に見えた。だから体重を落としてみたの。食欲をコントロールするのは苦しかったけど、頑張って、体重計に乗って実際に痩せてた時は本当に嬉しかった」


 それは……。


「嬉しいというよりホッとしたという感じね。体重が落ちて細くなることで、私の女性としての価値が上がったと数字で実感できた。そして、私は自分の身体をコントロールできたことに達成感を持つと同時に、自分がちゃんと努力できる人間だということを確認できて安心したの。自分が理想を目指せるということが私の自信になった」


「一時的にそれで自信になったらいいですが、あまり長期間続くと……」


「そう。それが一年二年と拗れてしまってね。だから今の私は摂食障害」


 そうではないかと思っていた。浴場で見る由梨さんの姿は単に痩せていると表現するにはどこか病的だ。


「私は入学当初は普通に一人でマンションに住んでたの。だけど、大学で講義中に倒れてそのまま入院したのね。そこに金ちゃんが居合わせて病院に見舞いに来てくれたの」


「寮に入る前から知り合いだったんですか?」


「金ちゃんは当時工学部の学生だったから、西都大学の理系女子学生同士の親睦会で知り合ったの。受けてる講義も共通しててね。だから、倒れた時も同じ部屋にいたのよ」


「そうですか……」


「摂食障害は自分を病気だと認めることがむつかしいものでね。周囲は痩せすぎだって言うけど、自分では普通……いえ、まだまだ努力しなくてはと思ってた」


 今でも由梨さんは痛々しいほど痩せている。当時はどれだけ細かったんだろう。


「当時の私は自分が異常だって言われても理解できなかった。したくもないし、自分はこれで正常だと思ってた。でもね、その一方で倒れて、その病院で精神科への受診を勧められるとやっぱり異常なのかもしれないって思い始めて。この時期、この私の微妙な気持ちを金ちゃんにだけ話すことができたの」


 由梨さんはふふっと小さく微笑んだ。


「だって、金ちゃんは金髪のカツラをつけてて明らかに普通じゃないでしょう? 金ちゃんほどヘンな人なら、私もヘンなのかもって言ってみやすかったのね」


「金田さんはなんと……?」


「一人暮らしを止めて寮に来ないかって誘ってくれたの」


「ご病気になって、ご家族は心配されませんでしたか?」


「もちろん家族は千葉の実家に帰ってこいと言ったわ。ウチは別に美希ちゃんみたいに毒親じゃないし、いい家族ではあるんだけど、私が戻りなくなかった。弁護士の父、大学教授の母、医師の兄が暮らす実家……。西都大も卒業できていない私なんて、そんな価値のない人間なんて、こんな家族のもとに帰れない……」


 千葉の家族は気にせず帰ってくるよう言ってくれただろう。けれども、そんなにきらびやかな人々と暮らすのは、たとえ家族といえども、いや家族だからこそ辛いものかもしれない。


「親が下鴨女子寮で京都暮らしを続けることに反対してた時に、金ちゃんが白河さんを連れてきてね」


「大家さんの白河さんですか?」


「そう。白河さんが出て来て話はとんとん拍子に進んだわ。『ウチの寮でしたら二十

四時間看護婦さんがつきまっせ』って。朝子ちゃんが入寮したての頃なんだけどね」


 白河さんが話をまとめる様子が目に浮かぶ。


「親も、朝子ちゃんと同室なのを条件に認めてくれたの。そして入寮してからずっと朝子ちゃんか金ちゃん、そうでなくても他の誰かが夕食に誘ってくれてね。はじめは知らないからそうして誘い合わせて食堂に来るルールがあるのかと思っていたら、私のためにそうしてくれてたの。でも、だからと言って食べられるかどうかを監視するわけでもなくて、食べられなければ『調子悪いんだね』ってそれだけで終わり。それくらいの距離が私にはちょうど良かった」


 それにね……と由梨さんが続ける。


「食堂で色んな人と引き合わされてどんどん仲間ができたのが良かった」


 由梨さんが愛情のこもった目を美希に向ける。


「皆、若い女性の学生で、自分が何なのか、何になりたいのか、何になれるのか迷いながら生きてる。自分の価値は何だろうって問いと向き合ってる。悩んでいるのは私ひとりじゃない……。あ、そもそも人間は社会が要求する価値を満たさなければならないのかという根本的な問題も忘れてはいけないわね。これは新市ちゃんの受け売りだけど」


「社会学ですもんね」


「その新市ちゃんは『何か役割があった方がいい』と考えてくれてね。体調に波がある私に決まった役職は無理だけど、理系だからIT関係を受け持つことになったの。もっとも、プログラミングならともかく、サイトの運営やSNSの投稿は数学とあまり関係ないんだけど」


 寮のサイトやSNSがあるのか。あとで由梨さんのお仕事を見てみようと美希は思う。


「この寮では話し相手がいて役割があるから孤独じゃない。その前は、頭の中がカロリー計算でいっぱいになりそうなときも、過食や嘔吐の衝動にかられたときもいつも一人だった。でも寮だと仲間がいて、世間話で気が逸れることもあるし、誰も居なければ娯楽室に漫画もあるし」


 由梨さんはテーブルの上のマグカップを両手で包んだ。


「もちろん全てが解決したわけではなくて、今でも専門医の治療もカウンセリングも受けているわ。でも、専門機関を離れた時間と空間でも独りにならなくてすむ寮暮らしに私はとても助けられているの」


「……」


「恋愛関係の愚痴を聞いたのも良かったわね。河合ちゃんみたいに彼氏が出来た人もいれば、失恋の痛みに苦しみもがく人もいた。そして他人に対してなら『別にふられたからって貴女の価値がないわけじゃない』って言ってあげられるのよね」


「そ、そうですよ! たまたま相性が悪かっただけなんですから!」


 由梨さんの笑みに「してやったり」という色が加わる。


「ね? 金ちゃんの言うとおり、彼氏ができるかどうかはご縁、偶然、時の運」


 ふうという息が美希の口から洩れた。


「ほんとですね。こうして他にもそんな人がいるって分かるとその言葉が腑に落ちます」


 自分の頭に当然のこととして既にあっても、他人に言われて初めて心に響くこともある。


「そう、こうして他人と話していると自分一人では気づけなかったことにも気づけるようになる。特別なことが起きなくても特別な場所よ、この寮は」


 由梨さんが「あ、そうだ!」とひときわ大きな声を出して腰を浮かせた。


「美希ちゃん、玄関の張り紙にたぶん気づいてないよね?」


 玄関の張り紙と言われても、寮委員会からのお知らせくらいしか心当たりはない。


「白河さんが達筆で『京都市左京区下鴨女子寮へようこそ』って書いて下さっているのよ。見に行きましょう」


「はい」


 由梨さんは地階から一階への階段の電気を点け、その先の玄関の明かりもつけた。


 いつも玄関で靴を脱いだら自然と左奥にある階段に足を向けるから気づかなかったが、右手の壁に確かに張り紙がある。あちこちの塗装がボロボロと剥げているコンクリート壁に、黄ばんだ紙はあまりになじんでいて存在に気付かなかった。年配の女性らしい美しく柔らかい、やや草書に近い毛筆書きが紙に流れている。


「この『京都市左京区下鴨女子寮へようこそ』は白河さんの御手蹟だと思いますが、これは?」


 その左横に太いマジックで別の言葉が添えられていたのだ、「彼氏がクソでも仲間がいれば大丈夫!」と。


「それは私の入寮に合わせて金ちゃんが書き加えてくれたの。白河さんも『ええよ、ええよ』と諸手を挙げて大賛成だったそうよ。入寮してから白河さんとお話したことがあるんだけど……」


「ああ、ときどき大家さんも来られるそうですね」


「白河さんは今より厳しい差別の時代を生きてきた方よ。そして、この寮が、同世代の女子学生たちが仲間として同じ屋根の下で暮らしながら、外の世界で傷ついた心を癒し合える場であって欲しいと願ってらっしゃる」


「癒す……私も寮生の一人ですがそんなことできるでしょうか……」


 由梨さんは「できるわ」と即答した。


「今の美希ちゃんは既にそうしてる」


「……?」


「私の苦い思い出話をずっと聞いていてくれているじゃない。それも、さっき『由梨さんは全く悪くない』って言ってくれたわ。私、とても癒されているのよ?」


「そ、それは良かったです。でも、私は私が思ったことを口にしているだけで……」


「美希ちゃんは優しいのよ。自然に相手を気遣う言葉が出てくる……」


「そんな……。でも、私は思いやりがない子だって、小さい頃から言われてて……」


 由梨さんは痛まし気に美希を見て少し黙った。


「美希ちゃんは自分を劣っていると考える『認知の歪み』が強いものね。お母様からずっと刷り込まれてきたものが、私とちょっと話しただけで変わるのは難しいわよね」


「スミマセン。せっかく由梨さんが褒めて下さっているのに、私が素直じゃなくて」


 由梨さんは「ううん」と小さく首を振った。


「私だって回復の途中よ。今でもときどき自分の身体に余計なお肉がついているような気がしてしかたない気がするときがあるもの……」


 美希はぶんぶんと首を振り、両の掌を突き出して激しく横に振った。


「えええっ。それはないです。ないですよ、そんなに痩せてて……」


「河合ちゃんもそれが私の『認知の歪み』だと言うわ。もちろんお医者さんもカウンセラーもね」


「……」


 だけど、と由梨さんは困った顔で苦く笑う。


「そう簡単に自分についての認知は変えられないわよね。『貴女の認知は歪んでます』っていくら専門家に言われても、その歪んでるのが自分の認知なのだもの……」


 だから由梨さんは今でも自分の痛々しいほど痩せた身体に肉が余っているという認知から抜け出しきっていない。


「それでも少しずつ少しずつ良くなっていると思うの。淡々とした暮らしの中で毎日が過ぎていく。仲間と挨拶を交わし、体調を気遣いあい、愚痴をこぼし合う……。何をしたから、何をしなかったからに関係なく、互いに思い遣る人間関係の中で私はここに居場所があるって思えるのが嬉しい。価値って言葉が大袈裟に感じられるほど当たり前に、私にはここに居る価値があるんだなあって思えるの」


「……」


「私は自分の価値を自分で高めなければいけないって思いこんでいた。だけど、違うって今は思う」

 

由梨さんはここで「自立と孤立は違う」とも言い添えて続けた。


「自分の自分に関する認知は自分一人で作り上げるものではないわ。寮のみんなも、そして今も美希ちゃんが私のことを『いい人』って言ってくれた。これを受け止めて私も自分を『いい人なんだ』と認知するんだから。自分の認知って他人とのコミュニケーションで作られるのよね」


「コミュニケーションですか……」


「そう。河合ちゃんが貸してくれた本にあった話なんだけど。私たちは身だしなみを整えるのに鏡で見ないといけないでしょう? 人間は、他人という鏡に映った像を見て自分を知るんだと思うの」


 ここで話題が美希に移る。


「美希ちゃんもそうよ。今まではお母様という鏡に映る像を信じ込まされてきた。だけど、これからは、今の美希ちゃんと生活を共にしているウチの寮生の評価を信じてみて」




*****

この小説は鷲生の実体験がベースにあります。

その辺のエッセイもございますので、よろしければお立ち寄りくださいませ。

「(略)下鴨女子寮へようこそ」へようこそ!」

https://kakuyomu.jp/works/16817139557002643221

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