「薫」

「……有馬くん」

「そこは、下の名前で呼んでほしかった。そもそも、知ってる? 俺の名前。

 まさか、知らないんじゃ……」

「んだわげねーべ」

「だったら、呼んでみて」

「拓人」

「うん。タグドに、なってるけどな」

「ほんだから?」

「いや。いいけど」


 薫が、ふーっと長い息を吐いた。じっと俺を見る。

「……なに?」

「おばあちゃんに育てられたから、『おれ』って、言うけど。ここまできつい方言で、バスガイドができると思う?」

 腰が抜けそうになった。きれいな標準語が、すらすらと口から出てきた。

「おまっ、お前っ……!」

「四年も東京にいて、マスターしてないわけがないよね。わたしが、どうして方言を使い続けてたか、わかる? 有馬くん」

「わ、わからない」

「一年の時に、ゼミの自己紹介で、この訛りで大恥かいた時。有馬くんだけが、笑わないでいてくれた。『方言は、かわいい!』って、言ってくれた。だから……」

「俺の――せいだったのか」

「せいっていうか……。かわいいなら、いいかって。思ってただけ」

「そうか。なあ、薫」

「んー?」

「コロナなんかに、負けてらんねーよな……。いつか、お前がバスの運転手兼ガイドに戻れる日が来たら、乗りに行かせて」

「いいけど。有馬くんがわたしに言いたいことって、本当に、そんなことなの?」

「ああ、うん。ちがうな……。

 俺、薫に、ずっと言えなかったことが……あって」

「うん?」

「言っていい?」

「どーぞ?」

「終息するまで……ちがう、終息しても、俺と一緒にいてくれる?」

「いーよ」

「軽いなー……。まあ、いいよ」

 大きく息を吸った。こんな状況になるまで、どうして、言えなかったのか……。

「好きだよ」

 表情の読めない目で、薫が俺を見ている。

 しばらく、二人で黙っていた。

「拓人。あんがと!」

 そう言って、にこーっと笑う。かわいいなあと思った。

 手を伸ばして、肩にふれた。あまりにもやわな手応えに、驚いてしまう。

 顔を寄せようとして、とまどった。家主である俺のことを気にしてか、食事する時と寝る時以外は、誰もマスクを取らなかった。当然、薫もマスクをつけたままだ。

「とらねーと、キスもでぎねーな」

「……そうだな。したこと、ある?」

「ね」

 ないのか。俺を待ってくれていた……なんて、ことは。いかにも、ありそうな話に思えた。

「やっぱさ。方言って、かわいいな」

「ふふっ」


 細いゴムを指にかけて、片方だけ落とした。淡いピンク色のマスクがたれ下がる。薫の唇に、そっと、ふれるだけのキスをした。

 コロナも、震災も、ただ生きているだけで遭遇してしまう、あらゆる危険も……。一瞬だけ、すべてを忘れた。薫は生きている。そして、俺も。

 閉じていた目がひらく。薫の目に、何にもかえがたい、愛情のようなものがきらめくのを見た。


 幸せだった。

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