第6話 浮かぶ
まず挨拶として娘が名乗った。その後に私の紹介。猫になれるカバン。続いて、エノーラ嬢も初対面だったのか自己紹介した。ヴィヴィアンさんとアビーさんは黙ってそれを聞いていた。
「お会いできて光栄です」
ジェナさんはか細く微笑んだ。
「今日はあいにくの天気ですね」
と、窓の外を見る。言われてみれば、空には雲が。
「本当ですね」
娘が微笑む。娘はメモ帳の新しいページを開くとまた「?」を書き込んだ。それから聴取を始めた。
「ベッドが浮かぶそうですね」
本当に、何ともないような会話のつもりで、それこそ天気の話でもするかのような調子で娘は本題に切り込んだ。するとジェナ嬢が悲しそうな顔をした。
「信じていらっしゃらないのでしょう? お父様みたいに」
「いいえ」娘はまた微笑んだ。「私はあなたの意見を尊重しますよ」
するとジェナ嬢はほっと表情を和らげた。娘は一呼吸置くと会話を続けた。
「ベッドが浮かんだのはいつのことですか?」
「朝よ。いつの朝か、と言われるとここ数回の診察の日の朝、という言い方になるわね。四週間ずっとこんな調子よ。起きようとしたら天井が近いの。で、辺りを見渡すと、ベッドが浮いていて……」
私、高所恐怖症なのよ。ジェナ嬢はそう断ってから続けた。
「二階の窓から下を見るのでさえ怖いの。だから、この部屋は一階でしょう? お父様が困っていたわ。お前は深窓の令嬢だと思っているのに、って」
自分の娘に言うことじゃない気もするわね。まぁでも言いたいことは分かるわ。
と、私はここでカバンから猫の姿に変身して娘の足下に立った。ジェナ嬢がひょいと体を起こして驚きの声を上げる。
「まぁ、猫になるカバンってそういうことなのね」
「うふふ」
私が笑うとジェナ嬢はさらに驚いた。
「言葉も話せるの?」
「元は人間なのよ」
私がしっぽをくゆらせそう告げるとジェナ嬢はとんとんと自分の膝を叩いた。
「こっちへいらっしゃいな。かわいい猫さん」
まぁ、あの子の膝に行くのも悪くないかもね。
そう思った私は勢いをつけるとベッドの上に飛び乗った。そのまま優雅に見えるであろう足取りでジェナ嬢の膝元へ行く。静かに座ると、ジェナ嬢が私の背中を撫でた。なかなか心得た触り方で、きっとジェナ嬢は、動物の扱いに慣れた子なのだなと思った。生き物と親和性の高い子ほど、気持ちを病みやすいって言うし。
と、ジェナ嬢と同じ目線に立ってみると色々なことが分かった。ひとつ。枕元にパイプがある。ふたつ、ベッドの下を通過しているパイプもある。赤銅色のパイプだから通風用かしら。そう言えば枕もとのパイプも赤銅色だわ、なんてことを思う。
「悲しいの」
ジェナさんが私の目線に気づいたのか、枕元を振り返りながらつぶやいた。
「新鮮な空気を送るためのパイプなんですって。この屋敷の裏にある山から空気を吸い込んでいるそうよ。でも私、窓を開けて流れ込んでくる空気が好き。鳥のさえずりや、草のざわめく音のする空気が、好き」
言われてみると、確かに枕もとのパイプは他のパイプより心なしか太い気がした。重要性がうかがえる。
ベッドの下を見る。ベッド下の隙間は、パイプを通すためか随分と高い。人の膝の高さくらいはあるだろう。道理でさっきベッドに飛び乗る時勢いが必要だと思った。
ベッドの話に戻すわね。ジェナ嬢は小さく続けた。
「最初は夢だと思ったの。幽体離脱って言葉があるでしょう? あれだと思ったの。でも違ったわ。腕をつねると痛いし、ぱっちり目覚めた感覚はある。けれど状況がどう見ても夢の中のそれで、奇妙奇天烈というか、さっぱり理解が追い付かなかった。で、診察の時間でしょう。行かなければならないことは分かっているのに、ベッドが下りてくれない。仕方ないから眠ったの。そしたら次に目覚めた時、ベッドは元通り床の上にあって、時間を見たらとっくに診察の時間を過ぎていて……」
「ベッドは浮いていたものとして話します」
娘が静かに天蓋を示した。
「まずこのベッドは普通のベッドと違い天蓋がついています。ベッドが持ち上がったのは、『天蓋の中身であるマットレスの部分が持ち上がった』のですか? それとも『天蓋ごと持ち上がった』のですか?」
「天井が近かったから、多分『天蓋の中身であるマットレスの部分が持ち上がった』のだと思うわ」
「ベッドの造りは?」
「多くのベッドと変わらないと思うわ。寝台があって、その上に板があって、さらにその上にマットレスがあって。寝台の脚の部分に天蓋が繋がっていることぐらいしか、普通のベッドとの差異はないように思うわ」
「感覚的な問題なので、正確じゃなくてもいいのですが」
娘は穏やかな目つきだった。
「『マットレスが浮いた』のか『マットレスが乗っている板ごと浮いた』のか判別がつきましたか?」
するとジェナ嬢はちょっと考えるような顔になってから、告げた。
「『板ごと浮いていた』と思うわ。マットレスがたわんでいなかったもの」
「ありがとうございます」
娘がメモ帳を閉じた。「?」を書いたことによる情報の吸収は、メモ帳を閉じれば一旦停止となる。
「お加減は如何ですか。しんどかったらお伝えください」
するとジェナ嬢は笑った。
「いえ。あなたと話すの楽しいわ。歳が近いから? 私友達が少なくて……」
娘も穏やかに笑い返した。
「それでは、今から友達になりませんか?」
ジェナ嬢は嬉しそうにした。
「あら、素敵。それじゃ敬語はよしましょう」
「ええ、ジェナ」
娘が真っ直ぐな目線でジェナさんを見つめた。
「どうかお体に気を付けて。私の大切な、友達だから」
「ありがとう。私のベッドの話を信じてくれたのはあなたが初めてだわ」
*
ジェナ嬢への聞き込みが終わるとすぐ、娘はすぐヴィヴィアンさんに質問した。
「屋敷中の機械を制御する部屋はありますか?」
「あります」ヴィヴィアンさんは端的に答えた。
「地下室に。お連れしましょうか?」
「お願いします」
そういうわけで私たちは地下室へ行った。大きなお屋敷の地下室は、私も何度か色々な屋敷の地下室に入ったことがあるけれど、この機械屋敷の地下室はかなり異色だった。
壁という壁にパイプが、まるでミミズの通った後みたいに走り回っていて、何だか胸の奥がもぞもぞした。そして地下室の形状。ドーム型で、まるでここで秘密のミサでも開かれていたのかというような造りだった。これに関してはエノーラ嬢が言及した。
「昔この地下室は宝物庫だったのよ」
声がドーム型の天井に反響する。
「絵画や彫刻がしまわれていたわ」
「今は違うようですね」
娘が見上げる先。
「こんな大きい魔蓄は初めて見ました」
「そうでしょう」ヴィヴィアンさんは自慢げだった。
「おそらく国中を探しても、これほど大きな魔蓄はあまりないんじゃないかなぁ」
ドームの天井を、まるで蚕の蛹のように覆い尽くしている大きな球形の物体。
様々なパイプが、蚕の糸よろしくその球形に繋がっていて、ぶるぶると震えている。よく見ると、球形外部に露出したピストンのような構造物がひっきりなしに上下している。気が狂いそうな速度で回転している歯車が覗いていて、球形上部に接続された複数の排気パイプからは、蒸気が噴き出ている。まるで心臓みたいだ。
私が唖然としていると、しかし娘はその巨大な魔蓄にはとっくに関心を失ったらしく、すぐ近くにあった箱を示して訊ねていた。
「これは?」
「
「なるほど」
と、娘が手近にあったテーブル上にあるものに興味を示した。フィルムで包まれた小さな角砂糖みたいな金属と、コルク付き試験管の中に入れられたジェル状の何か。
「この物質は?」
「あ、それは気を付けて!」
ヴィヴィアンさんが慌てる。
「四角いのはシトリウムという物質です。水分に反応して激しく燃焼します。指先の汗程度でも爆発する。フィルムを湿らせないように……あっ、そのジェルも駄目です! 空気に触れると燃焼する嫌気脂肪酸という物質で……」
「色々な物が置いてあるのね」
私がつぶやくと、ヴィヴィアンさんが一転、嬉しそうな顔をして振り向いた。それから告げた。
「機械屋敷の制御室兼、機械屋敷実験室ですから! ようこそ男のロマンへ!」
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