第二章 楽しい異世界生活

第41話 初めての討伐依頼

 ◇◇◇◇


 翌朝。

 ハジメはいつもと同じように工房裏の広場で鍛錬を始めた。


 木剣を振り、素振りを百回。

 続いて体幹を鍛えるための腕立て、腹筋、スクワットを繰り返す。

 隣ではヴェルトハルトが静かに見守っていた。


「ふぅ……! やっぱり朝の空気は気持ちいいな」

「うむ。肉体を動かすことで魔力の流れも整う。良い習慣だ」


 汗を拭ったハジメは水を飲み干すと簡単な朝食を取った。

 焼きパンと温かいスープ、干し肉少々。

 腹を満たすと彼は腰の剣を確かめ、革鎧を身に着ける。


「よし、行こうか。今日は新しい挑戦だ」

「討伐依頼か」

「うん。薬草採取にも慣れてきたし、そろそろ戦闘の経験も積まないとね」


 二人は街の中心部へ向かい、冒険者ギルドの重厚な扉を押し開けた。

 朝のギルドはすでに賑わっており、受付前には冒険者たちの列ができている。

 金属と革の匂い、笑い声などの喧騒。

 初めの頃は場違いに感じた空気も今はどこか懐かしく感じる。

 掲示板に貼られた依頼書の中からハジメは一枚を手に取った。


「ゴブリンの討伐依頼……」


 ヴェルトハルトが隣で頷く。


「ついにこの時が来たか」

「うん。異世界の定番だしな」


 ハジメは苦笑しながらもどこか緊張の色を浮かべる。


 これまでは薬草採取のついでにスライムや角兎といった弱い魔物ばかりだった。

 だが、ゴブリンは違う。

 単体では弱くとも、群れる性質を持ち、武器を扱い、狡猾に連携してくる。


 受付で依頼書を提出すると担当の女性職員が確認の印を押した。


「ゴブリン討伐ですね。最近、街の北側の丘で出没報告が増えています。巣を作る前に駆除しておきたいところです。気をつけてくださいね」


 ハジメは深く頷いた。


「ありがとうございます。すぐに向かいます」


 ギルドを出ると彼は再び装備を確かめ、ヴェルトハルトと視線を交わす。


「準備は万全か?」

「ああ。薬草採取とは違うけど、やるしかない」

「うむ。恐れるな、主。お主の剣筋はすでに鈍ってはおらぬ」


 ハジメは剣の柄を握りしめ、息を整える。


「よし、行こう。初めての討伐依頼だ!」


 朝の光を背にハジメとヴェルトハルトは街を出発した。

 その背には確かな決意と新たな一歩の輝きが宿っていた。


 街を出てから一時間ほど。

 北の丘陵地帯は小さな森が点在し、ところどころに獣道が伸びている。

 依頼書に記されていたゴブリンの目撃地点は、その森の外れだった。


 ハジメは剣を握りしめ、慎重に足を進める。

 枯葉を踏む音がやけに大きく感じられ、肩が自然と強張る。


「……ここが現場か」

「うむ。足跡も新しい。間違いないだろう」


 ヴェルトハルトはしゃがみ込み、土に残る小さな足跡を確かめた。

 人間の子供ほどの大きさ。

 浅くても複数ある。

 数は三、いや、五。

 群れで行動しているらしい。


 ハジメは無意識に喉を鳴らした。


「やっぱり……戦うってなると違うな。薬草採りの時みたいにただ動けばいいってわけじゃない」


 その声にはわずかな震えが混じっていた。

 ヴェルトハルトはそんな主を見上げ、静かに口を開く。


「主よ。肩の力を抜け」

「え?」

「緊張すれば、視野が狭まり、呼吸も浅くなる。普段通りの動きができれば、今の主ならばゴブリンごとき恐るるに足らん」


 その穏やかな声音には不思議な説得力があった。

 ハジメは深く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。


「……そうだな。準備をしてきたんだ。装備も整えて鍛錬も続けた。なら、できるはずだ」


 小さく頷くと剣を握る手に力が戻る。

 ヴェルトハルトが満足げに微笑んだ。


「その調子だ。恐怖は悪くない。それは命を守る本能だ。だが、恐怖に呑まれるな。恐怖を飼い慣らせばそれは力となる」

「……覚えておくよ」


 ハジメは一歩、森の奥へと足を踏み入れた。

 鳥の鳴き声が止み、風が枝を揺らす音だけが響く。


 しばらく森を進むとヴェルトハルトがぴたりと足を止めた。

 その金の瞳が一点を鋭く射抜く。


「見つけたぞ」


 ハジメも息を呑み、ヴェルトハルトの視線の先を追った。

 木々の陰に小柄な影が五つ。

 粗末な棍棒や錆びた短剣を手にしたゴブリンたちが何やら食べ残しを奪い合っている。


「五匹……やっぱり群れてるか」


 ハジメは身を低くし、そっと息を潜めた。

 ヴェルトハルトも枝葉の陰に体を隠しながら小声で問う。


「さて、主よ。どう戦う?」


 ハジメはしばし沈黙した。

 視線の先でゴブリンたちは警戒もせずに笑い声を上げている。

 しかし数は五。

 こちらは二人。

 数の差では負けているが、ヴェルトハルト一人いれば負けはしないだろう。


「……五匹もいる。正直、今の俺じゃ勝ち目はない。撤退して、もっと状況を探るべきだと思う」


 その言葉にヴェルトハルトは満足げに頷いた。


「悪くない判断だ。数で劣る時は退く。それもまた戦略の一つだな」

「だろ? 俺も無茶はしたくないし」


 安堵しかけたその瞬間、ヴェルトハルトの口元に不敵な笑みが浮かんだ。


「……だが、奇襲を仕掛ければ三匹は確実に倒せる」

「は? 三匹!? どうやって!?」


 思わず声を上げそうになったハジメは慌てて口を押さえる。

 小声で食いつくように問うとヴェルトハルトは淡々と答えた。


「まず、不意打ちで一匹。仲間をやられて動揺している隙に二匹目。そして、状況を理解して反撃に移る瞬間、そこを叩いて三匹目」


 まるで計算式でも説明するような口調だった。


「……いや、簡単に言うけど、それ一流の冒険者じゃないとできないと思うから!」


 ハジメは額を押さえ、ため息をつく。


「俺、まだ新米冒険者だってこと忘れてないか?」

「む?」

「む? じゃない! そんな教本に載ってそうな理想ムーブ、俺にできるわけ……」


 そこまで言いかけてハジメはヴェルトハルトの目が真剣そのものになっているのに気づいた。


「……主。戦いとは、経験を積まねば身につかぬ。だが、実戦の中でしか得られぬ学びというものもある」


 静かに、けれど力強い声。

 ハジメは息を飲み、しばらく沈黙したのち、小さく頷いた。


「……わかった。やるよ。でも、無茶はしないからな」

「うむ。ならば我が援護しよう。恐れるな、主。お主はもう、ただの職人ではない」


 ハジメは握った剣に力を込め、そっと腰を低くした。

 初めての討伐戦が始まろうとしていた。


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