第一章
君を初めて見たのは、目を刺す太陽が夏の始まりを知らせに来た日。夕暮れ時。
道路の端に座り込む丸い背中の向こう側で子猫がにゃあと鳴いた。
右手に猫じゃらし。左手に煙草。
制服姿に似合わない煙草がやけに苦しそうだったから、よく覚えている。
その次の日。また君を見た。
今度は自動販売機の下を覗き込んでは必死に手を伸ばしていた。
10円玉がそんなに大事なものだろうか。それくらい幾らでも代わりはあるのに。
手の届かない10円玉がそんなに大事なものだろうか。
その次もそのまた次の日も私は君を見た。
高い塀から降りられなくなった猫に差し伸べる細い指。橋の上から川の水に沈めた吸い殻。真っ白なチョークで小学生と地面に落書き。小学生と別れた後ペットボトルをひっくり返し落書きを洗い流していた。
君は不思議な人だった。
人に興味があるのかないのか。少なくとも自分のことはどうでも良いようだ。
そんな君を私は深く知りたいと思った。
私が君を知ったのは、黒焦げになった蝉の死骸が玄関先に転がっていた夏の終わり。
その日私は君を見なかった。周りを見渡してもいない。猫じゃらしを揺らしてみても自動販売機の下を覗いてもいない。
君の真似をして煙草も吸ってみた。黒い煙に目隠しされた。こうやって君は世界に蓋をしていたのか。
こうやって私は君に会いたいのだと実感するのか。
私は君を追った。水で洗い流された足跡に目を凝らした。アスファルトを這うように歩いたのは初めてだ。
君の足跡が途切れた先を見上げるとそこは大きな劇場だった。
チケットがないと中には入れないと言われた。君が必死に手を伸ばしていた自動販売機下の10円玉ではチケットは買えないらしい。
君は案外間抜けだな。久しぶりに声を出して笑った。おかげで白い目を向けられたよ。
次の日私はまた劇場に足を運んだ。今度はチケットを握りしめて。力いっぱい握りしめていたそれはぐしゃぐしゃに皺が入り手汗で文字が薄れていた。
劇場というのは思っていたよりも遠くにある。私の家からも、客席からも。
こんな遠い所に本当に君がいるんだろうか。わざわざ金を払ってこんな所まで来なくてもあの自動販売機の前で見られると思うが。
場内での注意事項。楽しみだと言う隣の客。
劇場内の雑音を開演のブザーが全て取り払った。
目を閉じているのか開いているのか分からない暗闇に包まれる。舞台の真ん中に一筋のスポットライトが当たる。その先に、君がいる。
君が顔を上げた瞬間バリバリと歓声が鼓膜を刺激した。
光に照らされた君は少し汗ばんでいた。時折暑いと愚痴をこぼした。
マイクロフォン越しに聞く君の声は汽笛のように真っ直ぐで砂糖水のように甘ったるいものだった。
舞台の上での君は何人もいるみたいに思えた。泣くように歌ったり笑うように踊ったり、コロコロ変わる表情は万華鏡のよう。
いや、違う。
目が痛むほどの強い照明をキラキラ反射させて輝く姿は、万華鏡よりももっと複雑な光。
刹那、君と目が合う。見間違いかと思ったが君は確実に私を指さし笑った。
君の目は海のように深く澄んでいた。太陽の光をめいっぱい取り込んで小波立つ海は涙が出るくらい青かった。
青がこんなに綺麗な色だなんて知らなかった。私は初めて色彩の海に飛び込んだ。
その日私は舞台が終わっても家に帰っても夢見心地だった。君が歌ったあの歌を真似してみたり、青い絵の具を壁に広げてみたり。
こんな風に浮かれるのは心が落ち着かない。
君に会いたい。何をしててもあの青色を思い出す。
嗚呼そうだ。こんな地獄を恋と呼ぼう。
君は私の初恋泥棒だ。
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