🔖ショート・ショート集

@hon_no_shiori

冷蔵庫

「はぁ・・・」


寝る前のひととき、ため息混じりに冷蔵庫を開けるのが半年前からの私の日課になっていた。


ため息をつく理由は特にない。

まるで悩める人生を過ごしているかに見えるでしょう? 人生に大事なのはこういう細かい自己プロデュースなのだ。

「今私は脳みそを使って生きていますよ!」「今私は大変意味のある時間を過ごしてます!」という、演出。


演出と言っても別に今の私が誰かに見られているわけではない。

お世辞にもキレイとは言えない木造アパートその名もアムール103号室で絶賛ひとり暮らし満喫中の私。西村香苗。32歳独身。

部屋のどの位置に立っても死角が発生しないワンルームの間取り。かくれんぼ不可能な部屋。その隅々までもが全部私のもの。



ずっと一人暮らしなわけではなかった。

入居してから半年前までは元カレと同棲していた。ここはもともと同棲用に2人で借りた部屋である。


じゃなきゃさすがに1人で「アムール(=愛)」なんて馬鹿げた名前のアパートは選ばない。

最初は住所を書くたびに気恥ずかしかったアムールという言葉も、今は私にとってABCと同じ識別記号のひとつでしかなくなった。



元カレとの暮らしは、良くも悪くも普通だった。

しかし2人で暮らすには少し狭いこの部屋。家の中では常にお互いの姿が視界に入る。

そんな空間で2年半もの時間を過ごせば、当然の結果。お互いが空気のような存在になっていた。



そんなある日、彼が私の前から消えた。



秘密結社にさらわれた!とかだったら面白いけど、事実とは大抵つまらないもの。


私から別の女に乗り換えただけ。


女の気配を何となくは感じていたけれど、ある日はっきり別れを告げられた。



そして、彼は、いなくなった。



その直後は私も人並みにショックを受けたが、数日もするとむしろせいせいした気持ちになったことには自分でも驚いた。


このせまい部屋の中で私以外に生物は存在しないというクリアな環境。

私以外は無機物であふれた世界。

この部屋にある全てのゴミや汚れは、私の、私だけの、生きた足跡。


そう思うとなんだか床のシミ一つにさえ母性を感じ、愛しく思えてくるのだ。




とまあ、そんな感じで。

現在一人暮らしを大満喫中の私が、中古家具屋で購入した20年選手の冷蔵庫を意味もなく開けているという冒頭シーンに戻ります。


ちなみにこの冷蔵庫の開閉儀式だが、別におなかが空いてるわけではない。


しいて言えば…口寂しいだけ。


元カレとは必ずおやすみのキスをしてから寝る習慣があったのだ。

2人で決めた絶対のルール。

「どんな1日を過ごしても寝る前には必ずキスをしよう」という、歯が浮くような約束。


私たちはルールを守った。同棲中。毎日。



唇が重なり鼓動が跳ねた日も。

飽きるほどに唇を重ねた日も。

キスだけじゃ終われない日も。

激しい言い合いになった日も。

冷戦状態でお互い無視の日も。

違う女の名前で呼ばれた日も。



どんな日も寝る前のキスだけは絶対に欠かさなかった。


キスをせずに寝ようにもお互いに寝付けなかったのだ。

例えるならば、トイレを流さずにその場を立ち去ろうとしているような居心地の悪さ。


だから毎晩まるで部屋の電気を消すように、どちらからともなく唇を重ねてから眠りについていた。



そんなおやすみのキスが半年前になくなってからというもの、私は毎晩寝る前に冷蔵庫を開けるようになった。


冷蔵庫の冷気が、いつものように冷蔵庫の中央に向かって突き出した私の小さいあご、そして形のいい唇(と元カレが言っていた)を冷たく包む。


「・・・変なにおい。」


冷蔵庫から漂う独特な臭気が私の鼻をふんわり不快に覆って、思わず顔をしかめる。


私は自他共に認める「においには鈍感な人間」だが、このにおいだけはいつまでたっても慣れない。


顔を冷蔵庫の中心部に近付けた時、ふと冷蔵庫の右奥に転がる1パックの納豆が目に留まった。


これは一体いつのだろうか?

購入した記憶すらない納豆が冷蔵庫の奥でひっそり熟成されていた。

パックを手に取って記載された消費期限を見ると、うげぇ。4カ月以上前。

もともと腐ってるのに、さらに腐った納豆。


冷蔵庫を閉めて台所のシンクの電灯をつけ、なんとなく禍々しさすら感じるそのパックを開け、恐る恐るフィルムをはがす。

フィルムと納豆との間に、かすかに糸のきらめきが見えた。


においを嗅いでみる。

大丈夫なような…大丈夫ではないような?

そもそも納豆がどんなにおいだったかが思い出せない。

やっぱり私は、においには鈍感だ。




よし、食べよう。




その思考に至るまでに特に迷いはなかった。これもある種の自傷行為なのかもしれない。


洗い場にそのまま置いてあった夕飯で使った箸をひと舐めし、その箸で納豆を勢いよくかき混ぜた。




ズボッ!




ああ。

割りばしが納豆パックの底を貫通してしまった。ふと脳裏に蘇るのは元カレの声。



「香苗って本当にガサツだよな。本当に女か?」



そんな空耳を打ち消すように、納豆のかき混ぜ作業に没頭した。思ったよりも豆同士が粘ってくれたおかげで穴から豆が落下することもなく、納得のいく納豆の状態に至った。




・・・ずぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞ




一口で全てを口に含む。




グチャ、、グチャ、、グチャ、、、


クチャ、、、クチャ、、、


うっ、、、、


ぐ、、


、、、、、ごくん




後味に刺すような苦みを感じた気がした。

でもまあ納豆はそもそもこんな味だったかと問われたらこんな味だった気もする。

私はにおいの嗅覚も鈍感だが味覚も相当鈍感なのである。


元彼にも「味音痴」「舌馬鹿」と言われ、私の手料理が食卓に並んだのは同棲初日だけだった。


でもそのことに関して別に怒りの感情はなかった。私はもともと味覚や嗅覚が鈍い自覚があったし、共同生活で大事なのは役割分担。

料理上手な元カレが調理を、私が後片付けを担当をすればいいだけ。

まあ元カレにはその片付け方さえガサツだと毎日怒られていたが。



納豆(多分)を食べてから5分は経っただろうか。

特に大きな違和感は感じない。


安心したような少し残念なような複雑な心持ちで、そのまま台所で寝る前の歯磨きをした。

歯も磨き終わり、台所のシンクの電灯のツマミを引っ張って消す。

薄暗い闇に包まれた空間で、そっと冷蔵庫を開ける。




私の寝る前の日課だ。




冷蔵庫の冷気がいつものように冷蔵庫の中央に向かって突き出した私の小さいあご、そして形のいい唇(と元カレは言っていた)を冷たく包む。








ちゅっ






冷蔵庫の真ん中に佇むの唇にキスをした。





「・・・変なにおい。」





思わず顔をしかめる。





やっぱりこのにおいだけは、


いつまでたっても、


慣れない。



(了)

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