覚えていますか。
かささぎ峠
第1話 クマノミ
ピカピカのランドセルを背負って大きな門をくぐると、満開の桜の木が視界いっぱいに広がった。何故かとても懐かしい感じがして胸がいっぱいになった。それが初めて前世を思い出した日だった。
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次の四月から中学生になる秋は予習だと言って、兄の部屋から中学の教科書を引っ張り出てきた。
「あんまり変わってないか」
ペラペラと数学の教科書に目を通し、自分の知っている中学校の数学との違いを確認する。
小学校の入学式で昔のことを思い出してから六年がたった。何かの拍子に思い出すということを繰り返し、今では12歳の「秋」の記憶より昔の--世間一般で言うところの前世--18歳の「拓人」としての記憶の方が多くなった。最近は思い出すこともほぼ無くなり、昔の記憶を持て余したまま平穏な日々を送っている。
今月小学校を卒業し、春休みに突入したため秋は暇を持て余していた。教科書から漫画へと持ち替え、ベットに背中を預ける。そのまま怠惰を貪っていると突然部屋の扉が開けられた。
「水族館行くよ」
大きな音とともに現れ、兄はそう言い去っていった。秋は突然の音に驚き漫画を閉じてしまった。風のような兄の勢いにため息を吐き、適当に漫画を片付けリビングへと向かう。
リビングにはテレビの前を陣取る兄と、楽しそうに話す母と父がいた。
「水族館行くの?」
秋がソファに座る両親に尋ねる。やっと来たと言わんばかりに父は目を輝かせた。
「秋!いや、冬が水族館に行くって言い出してな。ほらテレビで今特集やってて」
父の言葉のままにテレビに視線を向けると、確かに色とりどりの魚達が泳ぐ様子が映し出されていた。「名古屋港水族館では……」と説明するナレーションの声も聞こえる。
「それ見た冬が今から行こうとするから、それなら明日行こかってなって」
「明日??」
「そう、で、明日の予定立ててるねん。」
兄を見ると最近手に入れたスマホになにやら打ち込んでる様子だった。多分見たい魚リストでも作っているのだろうと秋は視線を父に戻す。
「どっか行きたいとこある?水族館周辺なら多分いけるで」
「お母さんは美味しい魚料理食べたいなーと思って」
母がそう言ってスマホを見せてきた。画面には周辺の魚介料理店がずらりと並んでいた。
「俺は別に行きたい所はないけど…」
「そう?まあ明日一日まるまるおるつもりやから、また考えといて」
秋は頷いて、キッチンでりんごジュースをコップになみなみ注ぎ部屋に戻る。
兄は気分屋で思い立ったが吉日と言わんばかりの行動力がある。今日のように突拍子のないことを言い出すことは日常茶飯事だ。そんな兄に振り回される戸山家ではない。ついでにとことん楽んでしまうのが家族円満の秘訣なのだろう
「名古屋港水族館…」
その場所に秋はどこか引っかかる感じがしたが、結局その日解決することはなかった。
次の日は朝からバタバタと忙しく、荷物をまとめ車に乗り込んですぐに出発した。途中パーキングエリアで休みつつも水族館の開館時間ぴったりに到着することができた。チケット売り場から戻ってきた母から入場券を受け取り、兄は真っ直ぐ入場口に向かう。
「ちょっと、兄ちゃん!」
秋は兄の腕を掴みそれを止める。
「父さんと母さんが写真撮りたいって言ってたよ。水族館の前で」
「ああ」
秋の言葉に兄は不服そうに体の向きを変えた。”名古屋港水族館”と名前が入る場所で写真を二三枚撮り、母は「いい感じ」と写真を見てにこにこしていた。母からおっけーサインをもらった兄は「なんかあったら電話して」と言って先に行ってしまった。兄と一緒に行動すると思っているのか、両親は秋に「また後で」とひらひらと手を振る。パンフレットを眺めている二人の仲の相変わらずさに秋は苦笑いを浮かべた。
仕方なさそうに秋は人混みに押されながらも兄を追いかけた。幸い兄はすぐに見つかった。イルカの水槽の前で仁王立ちで動かない兄はよく目立っていた。「兄ちゃん」と声をかけると兄はちらりと声の主を見て、思い出したように「秋か」と声を漏らす。
「母さんと父さんがらぶらぶだったから」
そう言うと兄は先程の秋と同じように笑った。
「行きたいとこある?」
「別にないよ。兄ちゃんについて行く」
「なら、まずはウミガメ見るで」
兄は秋に見せパンフレットを指さす。イルカの水槽のある現在地からは遠く、別館で、しかも出口の方が近いような場所だった。
「他は見ないの?」
思わず秋がそう聞けば、兄は「今は亀が見たい気分やから」と淡々と返した。兄らしい理由に納得させられた秋は歩き出した兄を必死で追いかけた。
薄暗い空間もいくつか通り抜けるとお目当ての水槽にたどり着いた。兄はウミガメを見つけると動かなくなった。視線だけが動く亀を追いかけている。ここまで休みなく足を動かしてきた秋はようやく足を止められ一息ついた。秋と兄は頭2個分ぐらい差があり、歩幅も兄の方が断然大きい。そんな兄について行くのは秋にとってかなり大変だった。
ぐるりと周囲を見渡すとある水槽が目に入った。たいして大きくもない水槽に大きさも種類も違う魚が泳いでいる。変わったところのないその水槽が妙に気になって「あっち行ってくる」と兄に声をかけ、その水槽に向かう。水槽の中の魚が段々とはっきりしてくるにつれ、秋の中にあったモヤモヤは大きく濃くなっていった。
「クマノミ……」
水槽の魚がはっきり分かった時、秋は目を大きく見開いた。ぽんっと秋の中でなにか弾けた音がした。次から次へと栓が外れたように昔の記憶が湧いてくる。思い出したのだ。今まで思い出さなかったことが不思議なぐらいに大きな記憶で、それは止まることを知らない。その膨大さに水槽でゆっくりと泳ぐクマノミの姿ははもう秋の目に入っていなかった。
──
「拓人先輩」
クマノミの水槽の前で止まった拓人に柾也が声を掛けた。
「クマノミ好きなんですか?」
柾也が不思議そうに聞く。拓人は目をクマノミから離さずに頷いた。その拓人の様子に柾也はくすりと笑った。
「笑ったろ」
拓人がむっとした顔で勢いよく振り返ると、今度は我慢できずに柾也は笑った。
「そういうところですよ」
頭半分の差を埋めるように柾也が少し屈んで拓人と目を合わせた。拓人の頬が赤く染まっていく。「もぅ」と不機嫌そうに視線を水槽に戻した。赤くなった顔がガラスに映った気がして、拓人は意識をクマノミに逸らした。拓人はしばらくそのままクマノミを眺めていたが、唐突に柾也に顔を向けた。
「ちょっと」
「拓人先輩どうしたんですか?」
拓人の手に指を絡めたままなんでもないよう柾也は聞き返した。「これ」としらばっくれる柾也の手を強く握り返す。
「どれですか?」
にやにやと柾也は口角をあげてそう吹かした。はぁと拓人は息を吐き周囲を見回す。夏休み真っ只中の水族館は人で溢れかえっていて騒がしい。
「大丈夫ですよ。暗いし誰も見てないですって」
「柾也がいいならいいけどさ、なんか言ってよ。驚いたじゃん。」
心配そうに周囲を見渡す拓人に気づいたのか柾也が1歩近づいて耳元で囁いた。距離を詰められ、拓人は先程と同じように、さらにたどたどしく言い返す。柾也が言うようにクマノミの水槽の周りには子供連れの家族がいるだけだ。しかも子供たちが泳ぐ魚に夢中になっているのを親が愛おしそうに見ていて、こちらに気づいた様子はまるでない。
なんでもない攻防に堪えきれなくなった拓人がふっと笑った。口に手を当てて笑いを隠そうとしているが、柾也にはバレてしまったようでばちりと目があった。
「楽しんでもらえて良かったです」
いかにも幸せそうに言う柾也の横腹を突き、恋人繋ぎのままの手を引っ張ってクマノミの水槽を後にした。
──
はっきりと思い出した。恋人がいた。前の自分には大好きで仕方ない恋人がいたのだ。同性で、世間にはまだ馴染みづらい関係だったが、二人は二人らしく幸せに過ごしていた。
クマノミから意識が外れて水槽に映る顔が見えた。酷い顔をしていた。唇を真一文字に結んで今にも泣きそうな顔だった。モヤモヤが晴れてスッキリした代わりにとてつもない後悔が秋を襲った。
--どうして今まで思い出さなかったのか。
楽しかった記憶と後悔が混ざり頭がずきりと傷んだ。理由は何となく分かってはいるが、思い出せなかった自分が薄情な人間に思えて仕方なかった。先程まで聞こえていた周囲の音は全く耳に入らず、クマノミがイソギンチャクの周りを優雅に泳いでいるのが嫌に目に入る。人が大勢いる場所で涙を流すのは躊躇われて、秋は水槽に背を向けた。
「わっ」
どんっと誰かとぶつかって、その衝撃で秋は尻もちを着いた。涙を流すまいと下を向いていたのが悪かった。
「ごめん、大丈夫か?」
低めの柔らかい声が心配そうに尋ねてきた。立ち上がろうとしていた秋はその声に動きを止める。
「怪我はない?」
秋よりも大きな体を屈め、続けざまにそう聞いてきた。今度は鮮明に、しっかりと、聞こえてしまった。聞き覚えのある、つい先程思い出した、恋人の声だった。
記憶の中の声と心配そうに尋ねくる声がぴったり重なる。その事実が信じられず、確かめようと固まっていた顔を恐る恐るあげた。秋は顔にぐっと力を込めた。そうでもしないと堪えていた涙がこぼれそうだったからだ。やはりというか、目の前には恋人の、柾也がいた。記憶の中よりも少し大人びた雰囲気で、でも変わらずに優しい目をしていた。今は眉毛を下げ、今にも泣きそうな秋をその目に移している。
「ごめん、痛かったよな。ごめんな」
立てるかと聞かれ、秋は首を縦に振るも体に力が入らず立てなかった。そんな秋の様子を見兼ねて柾也は脇に手を入れて秋をぐっと持ち上げた。まだ成長前とはいえ中学生になる自分を軽々と持ち上げたことに秋は目を丸くする。立たされたことで放心し止まっていた思考が働き始めた。なんで、どうしてと疑問ばかりが浮き上がるだけで、まだ柾也に返す言葉が見つからなかった。
「怪我はないかな」
再度問いかけられた質問に秋はうんと頷く。言葉は出なかったが、心から心配していることがひしひしと伝わってきて、秋は反射的に体が動いたのだ。
「そうか、良かった。」
柾也は安心し切ったように秋に微笑みかけた。
「……っ」
堰を切ったように秋の目から涙がこぼれ落ちた。久しぶりに、12年ぶりに見た恋人の笑顔は秋には毒だった。泣き始めた目の前の少年に柾也はあたふたとしながらも、声を掛ける。
「どこか痛い?ごめんな」
どんなに声をかけられても秋には追い討ちのように感じた。先程思い出したばかりだが、恋人への想いは前と変わらないのだ。むしろもう会えないとさえ思っていたぶん、会えた時の喜びは凄まじかった。秋は嬉しいのか、悲しいのか分からなくなっていた。目の前に恋人がいるということは秋を泣かせるのに十分だった。
秋が泣き出したことで、一部始終を見ていた周りの人たちが少し集まってきた。
「迷子か」
「いや、ぶつかったんだよ」
「怪我したのか」
上がる声に柾也は秋を泣き止ませようとあれこれ考えて、ポケットにあるシールに気がついた。
「僕、クマノミ好き?ずっとクマノミ見てたでしょ。」
秋の返事を聞く前にシールを秋に差し出す。入場する時に配られていたシールで、デフォルメされたクマノミが描かれていた。
「これ、俺はシール使わないからさ」
泣き続けたことで少し落ち着いてきた秋は真っ赤になった目で柾也とシールを交互に見る。秋の視線に気づいた柾也はニコリと微笑み返した。その微笑みにまたも泣きそうになったが、秋は耐えシールを受け取った。
「……ありがとっ、ごさいます」
掠れて小さな声だったが柾也にははっきり聞こえたようで、「良かった」と頭を撫でられた。
「痛いところはない?」
「うん」
「もう大丈夫?」
「うん」
秋の様子に柾也は息を吐いた。「良かった」とまた頭を撫で、柾也は立ち上がった。お騒がせしました、と集まっていた周りの人に頭を下げ、秋に視線を向けた。
「お父さんお母さんは?」
秋が兄のことを言う前に「秋」と呼ぶ声があった。ずかずかと音を立てそうな勢いで向かってくるのはその兄だった。
「どうしたん?なんで泣いてんの?」
涙と鼻水でぐちゃぐちゃなった秋を見た兄はそう詰め寄った。
「すみません」
柾也が申し訳なさそうに兄に頭を下げた。
「私がとぶつかってしまって、」
柾也から今までの事を聞いた兄は「こちらこそすみません」と柾也に頭を下げた。
「そんなことで泣いてたらキリないわ。ほら秋も謝り」
「……ごめんなさい」
秋の背中をばんと叩き、兄に促されるままに謝った。柾也は胸の前で手を振り「いえいえ」と秋の言葉を否定する。
「私の不注意ですので。僕、ほんとに痛いところはない?」
気遣うような視線に人の前で泣きわめいたことが意識させられ、聞かれるままにうんと頷いた。
「大丈夫、です。」
念を押すようにそう言うと、柾也は満面の笑みを秋に向けた。秋は湧き上がる感情を息とともに飲み込んでやり過ごした。
「すみません。ご迷惑かけました。ほら行くで」
離れたくない秋とは反対に、秋の手を引っ張りそそくさと兄は歩き出す。
「やだ!」
珍しく声を荒らげた秋に兄は目を丸くする。兄の手を引き剥がして柾也の方を向くと、ニコニコとする柾也と目が合った。
「まさや」
混み上がってくるもの抑えて、震えた声で柾也を呼ぶ。初めてあったはずの少年に名前を呼ばれ、柾也は驚きを隠せない様子で、え、と声を漏らした。
「まさやぁ」
自分が拓人だと、恋人だと言いたかったが、柾也の困惑に揺れる目に言葉が詰まる。ぐるぐると秋の中で回るだけで、声にならなかった。
「お昼ご飯、待ち合わせしてるねんで」
不思議そうに兄は動かない秋の手を掴む。引っ張られるままに足が動き、遠くなる柾也の姿にくい止めていた涙が溢れた。
「待ち合わせどこだっけ」
そう問いかけ隣を見た兄は泣く秋に気づき、驚き呆れたように言う。
「どんだけ泣くねん、どっか痛いんか?」
「……っく」
ぶんぶんと首を横に振ると、兄はなんやねんと秋から視線を外す。
柾也はもう見えない。今日ここで会ったことは奇跡でしかなく、次会える可能性はゼロに近い。考えれば考えるほど現実が突きつけられる。秋は柾也のところに戻ろうと体を捻るが、兄の力には適わずその手から離れられなかった。
「やだ」
力なく言った秋の言葉は人混みに消えていった。
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