第22話 見ている世界

「おまえは凄いヤツだよ、宗吾。勉強でもスポーツでも、おまえがその気になったら誰も敵わないかも知れない。僕なんか、おまえに比べたら鼻クソみたいなもんだ」


 それは、河地善春の言葉。


「だけどな」


 そう、あいつはこう言ったのだ。この僕に向かって、微笑みながら傲然と。


「僕の見ている世界は、おまえにも見えない僕だけの物なんだ」




 目を開けると社長室は暗闇の中。いつの間にか眠ってしまったらしい。机の上のデジタル時計は定時を過ぎている。


 砂鳥宗吾は社長室を出ると、受付で立ち上がり一礼する秘書に「もういい、今日は帰りたまえ」と声をかけ、一人エレベーターに向かった。




「おまえは凄いよ、宗吾。それは認める。おまえは確かに優秀だ。だが、一人の能力に頼る組織は脆弱になる。おまえには、どの会社も任せられない」


 それは、あのときの長兄、宗一郎の言葉。


「でもね、兄さん」


 そう、このとき宗吾はこう言ったのだ。兄に向かって、微笑みながら傲然と。


「僕はもう会社を引き継ぐと決めてるんだ。その予定は変えられない」

「引き継ぐって、いったいどの社をだ」


「どの社じゃないよ。グループ企業を経営する気はない。僕が引き継ぐ会社は、砂鳥ホールディングスさ」

「……それが、おまえの本性か」


 砂鳥グループが保有する中型客船エメラルドサンシャイン号の後部デッキ。砂鳥ホールディングス創立十周年記念クルーズの二日目、深夜の海は音も光もすべてを飲み込む怪異の如し。


 そこに瓶を一本突っ込まれた銀色のシャンパンクーラーが、ワゴンに乗って運ばれてくる。白い給仕服を着た若い男はまだ見習いなのだろう、服に着られている感があった。


「おい、何のつもりだ」

「僕の趣向です。今夜は兄さんと腹を割って話せると思ったので」


 微笑む宗吾が自らシャンパンの栓を抜き、グラスに黄金色の輝きを注ぐ。それをいぶかしげな宗一郎に手渡そうとするが、兄は拒絶した。


「いらん」


 その瞬間。


 宗吾はシャンパンの瓶を軽く放り投げた。宗一郎の顔の辺りに。反射的にそれを受け止めた兄を見て、宗吾は突進し、胸を強く押す。兄の体は浮き上がり、柵を越え、暗い海の只中へと落下して行った。最期の言葉すら残さずに。


 しばし暗黒の海原を見つめると、宗吾は不意に振り返り、白い給仕服の男に近付いて耳元でささやいた。


「これでおまえも共犯だ。善春」


 河地善春は硬い表情のまま、しかし慌てる様子もなくうなずく。


「これは事故だった。それでいいんだな」

「ああそうだ。兄さんは、バランスを崩して海に転落した。おまえはその目撃者だ」


 善春は探るような目で宗吾を見つめ、宗吾はそれを見つめ返す。


「わかってる。おまえがもし時効まで逃げ切れなかったら、僕が目撃者として証言する。おまえの父さんが、一人で突然走り出して車にかれたのだとな」

「裁判官は信じてくれるだろうか」


「まあ二人の裁判が同時に行われたら、さすがに信じてくれないかも知れないな」


 宗吾は笑う。いま実の兄を殺したばかりだとは思えないほど爽やかに。だが、この指摘は重要だ。確かに二人の裁判が同時期に開かれれば、互いの証言には疑問符が付く。しかしどちらか一方だけが裁かれるときには、相手の証言は十分に効力を発揮するのだ。


「兄は事故で死んだ。けれど、僕が酒を頼んだ記録は残っている。もしかしたら過失を問われるかも知れない。業務上過失致死傷罪の時効は十年。おまえの保護責任者遺棄致死罪の時効も十年。二人で十年逃げ切ろうじゃないか」


 そう言うと宗吾は善春の肩をポンと叩いた。


「さて、船を停めて海上保安庁に連絡するか。こんな事なら演劇部にでも入っておくんだったよ」




 兄の死体は三日後、海上保安庁が発見した。「事故」発生直後に通報しており、死体の状態に不審点が見られないのもあってか、警察の捜査はさほど厳しくなかった。砂鳥グループのいくつかの企業に警察OBを受け入れている事実が影響したのかは僕にはわからないが、兄の妻の久里子以外、親族からも関係者からも疑問を呈する声は上がらなかった。


 兄は頭は良かったが人望はなく、親族にも邪魔に思う者こそあれ、惜しむ者がいなかったのが僕には幸いしたのだろう。それでもまさか父が僕を後継者に選ぶなど、僕自身以外誰も考えていなかったに違いない。


 僕は二十七歳で砂鳥ホールディングスの社長職を継ぎ、グループの経営状態を良化させた。もちろん、いまだに不満に思っている親族やグループ企業の経営者は多いだろう。だが彼らと僕とでは、見ている世界が最初から違うのだ。


――僕の見ている世界は、おまえにも見えない僕だけの物なんだ


 そんな訳があるものか。おまえに見えている世界など、僕にとっては視界の小さな一部に過ぎない。おまえと僕とでは、見える範囲も次元も桁もまるで違う。すべて見えているのだ。僕のこの目にはすべてが。




 砂鳥宗吾を後部座席に乗せて、黒塗りのベンツが国道を走る。途中、川を渡る橋に差し掛かったとき、宗吾は視線を川原に向けた。何かが行われているのか、明るく輝く川原に。


 ほんの一瞬。

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