第20話 晋平さんの家
「確証は、ない」
立ち尽くす山猪寛二は正直に白状した。
「確証がないにもかかわらず、僕を人殺し呼ばわりするつもりなのか」
椅子に座る砂鳥宗吾は静かにたずねる。砂鳥ホールディングスの社長室。窓の外の景色は、高い陽の光を受けて黄金色に輝いていた。
「もし確証が得られたら、おまえは終わってしまう」
山猪は苦悩を顔に浮かべてそう言う。応じる宗吾もうなずいた。
「そうだね。もしも君の言う確証が得られるのなら、そうなる」
「頼む砂鳥、自首してくれ」
「それは友達だから、かな」
「そうだ。おまえがした事は許せない。でも、おまえが警察から逃げ回って、捕まって、晒し者にされるのはもっと耐えられない」
真っ直ぐな山猪の視線を受けて、宗吾は深くため息をつく。
「……君の言う通りだよ。霊源寺は僕が殺した」
山猪は息を呑む。
「どうして」
「僕が証人として河地善春を捜していた事を、親族にバラすと脅されてね。現金ではなくホテルの共同経営者という肩書きが欲しかったようだ。ちょうど窓のストッパーが壊れかけていた部屋があって、客を入れないようにしていたんだよ。その部屋を霊源寺に使わせた」
「転落する事を狙ってか」
「まさか。そこまで運任せにはできない。ホテルの朝のフロントは忙しいんだ。特にうちのように人気があるとね。変装した僕が前を通っても、チェックアウト対応の方が優先される」
「じゃあ、おまえ自身が部屋にまで行って」
「ああ。窓に向かって突き飛ばしたんだ」
告白を受けながら、山猪は自分の頭の中で絡み合っていた糸がほどけるのを感じた。トリックと呼ぶほどでもない。説明されれば、いとも簡潔でシンプルな仕掛け。だがこれを説明してくれたという事は。
「自首してくれるんだな」
「君には負けたよ」
寂しげに微笑む宗吾に、山猪は「ありがとう」とつぶやきドアに向かった。その背中がドアの向こうに消えると、宗吾はスマートフォンで電話をかける。
「先生ですか、終わりました。よろしくお願いします」
頭の切れるうっかり屋、高校時代から何も進歩していないな。そんな事を考えながら。
高速を一時間走り、下道で一時間半。ファミレスで昼食を摂り、さらに三十分走って五味のクラウンと笹桑のミニは目的地に到着。ミニの後部座席から巨漢の原樹が窮屈そうに出てきたのは、ちょっとした手品を見ているようだった。
目の前にあるのは古い一軒家。春男と冬絵が「晋平さん」と暮らした家である。春男が鍵を開け、一同は中に入る。特に美冬は感慨深げだ。一階は台所を入れて四部屋。おそらく二階も三部屋くらいしかないだろう。三人暮らしには決して広い家ではない。だが、それが不幸であったとは限らない。
「葬式はしたのか」
家の中を見回しながら五味がたずねた。春男は首を振る。
「町内会長さんが、火葬だけしてくれました。他の事はボクにはわからなかったので」
「ふうん。えらい面倒見のいい町内会長だな」
一番奥の部屋に入ると、本棚がある。半分以上は画集だ。
「そういや美術部だったか……ん?」
画集の上の隙間に、オレンジ色のスケッチブックが差し込まれている。五味は何気なく手に取った。
「何にも描いてないですよ」
春男が言う。
「スケッチブックはお守りみたいな物で、置いてあるだけなんだって晋平さん、いつも言ってました」
「お守り、ね」
五味はスケッチブックを開き、しばらく眺めてから春男に見せた。
「あっ」
そこにはページいっぱいに、風景画の鉛筆スケッチがあった。どこの風景なのかはわからない。
「親方」
五味に呼ばれて、入り口付近に立っていた親方が小走りにやってきた。
「はいはい、何だい呼んだかい」
「この絵、どう思う」
と、スケッチブックを渡したが、渡された方は困惑している。
「どうって、アタシゃ絵の専門家でも、心理学の専門家でもないからね」
「アルツハイマー的にはどうだ」
「アルツハイマーの専門家でもないよ」
五味は不満げに小さく舌打ちした。
「実際どうなんだ、三十やそこらで発症するもんなのか」
「若年性のアルツハイマーなら遺伝する可能性はあるよ。二十代で発症した例もあるし」
五味は、また視線を春男に向ける。
「何も描いてないって言ってたんだな、晋平さんは」
「はい。ボクもスケッチブックに描いてるのを見た事がなかったので、そうかと」
「記憶障害、かねえ」
親方がつぶやく。
「アルツハイマーになると、短期記憶を維持できなくなるんだ。新しく何かを記憶するのが難しくなるんだよ。だから自分がやった事を忘れちまうのさ。ただ普通はそこまで進行してたら、誰が見てもおかしな行動を取るもんだろうけどね」
五味は何やら不満げな顔で考え込むと、スケッチブックを親方の手から取り上げ、美冬に手渡す。美冬はそれを恐る恐る開き、食い入るように見つめた。
五味が視線を上げれば、
「なあ春男」
「はい」
「晋平さんは髪が長かったのか」
「いいえ、坊主頭でした」
「剃ってたのか」
「剃ってはいないです。いつも自分でバリカンで刈ってました」
「バリカン、か」
坊主頭の首吊り死体。五味は首をひねった。この漠然とした違和感は何だ。何かおかしいのか。いったい何がおかしい。何がこんなに引っかかる。
階段から足音が二つ。二階を調べていた築根と原樹が降りて来る。五味がそちらに目を向けると、築根は首を振った。
「特に変わった物は何もない」
「そもそも子供用のタンスがあるだけだ。他に家具らしき物は何一つない。質素と言うか、その……」
春男がいる事にいまさら気づいたのか、原樹が言葉を濁す。五味は一番奥の部屋で存在を主張している木の机を見た。その上にはノートPCとプリンター。最後の手紙はここで書かれたのだろう。だが。
「二階に物置はなかったのか」
五味の言葉に原樹は首を振る。
「物置はない。物がないしな」
結局言うのか。しかし、それならば。五味は眉を寄せた。
「首を吊ったロープは、どこから出てきた」
再び視線を向けられた春男は、申し訳なさそうな顔で首を振る。
「ロープなんて、家の中で見た事ありませんでした」
「まあ、それは自殺を思い立ったその足で買いに行ったかも知れんだろ。ホームセンターとかに」
原樹はそう言ったが、五味はほとんど聞いていない。と、そのとき。
「……ロープ、あったかも知れない」
その消え入るようなか細い声は、春男の隣で目を閉じた冬絵の口から。
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