第15話 骨
火曜の夜。河地美冬は駐車場にアルファロメオを駐めた。スマートフォンを取り出してみたが、五味からの着信はない。依頼をしてからまだ二日、何かを期待するのは急ぎすぎか。だが結果とは言わない、途中経過だけでも知らせて欲しいと願うのは迷惑なのだろうか。
ため息をつきながらアパートの階段を上り、部屋の鍵を取り出したとき、美冬の目がギョッと見開かれた。通路に設置された二十ワットの蛍光灯が灯り、かろうじて自室のドアが見て取れる。そこに蠢く影があった。さまざまな想像が頭の中を駆け巡る。
「……そこにいるのは誰」
乾いた声をかけると、小さな影が二つ、蛍光灯の真下まで移動した。二人の子供。比較的大きな姿は、右手に大きめのスポーツバッグを持った十歳くらいの男の子。左の手につながる小さな姿は、七、八歳の女の子。目が見えないのだろうか、固く目を閉じている。
「河地美冬さんですか」
男の子がたずねた。美冬がうなずくと頭を下げ、一度スポーツバッグを置いて、シャツの胸ポケットからヨレヨレになった白封筒を取り出し、こう言った。
「晋平さん……じゃなかった。あなたのお兄さんからの手紙です」
「兄さん、から?」
少しこわばった手でそれを受け取ると、美冬はその場で封筒を開いた。一旦部屋に入るなどというアイデアは浮かばない。一刻も、一秒でも早く中身を確認したかったのだ。中にあったのは、ワープロ書きのプリントアウトされた紙が一枚だけ。無機質な文字の並びに、美冬の胸は塞いだ。これが、この十年間の結果なのだろうか。
しかし、文面を読んだ美冬の顔から血の気が引いて行く。そして、じっと見つめる男の子にたずねた。
「兄さんは、いまどこに」
男の子は右手のスポーツバッグを差し出した。受け取った美冬はその場でしゃがみ込み、バッグを開ける。見えたのは白い木製の箱。蓋を開くまでもない、中には骨壺が入っているのだろう。美冬はそのまま崩れるように座り込み、うつむいたまま深く深く息を吐いた。
美冬へわたしはもううまく自が書けない
なにをかいたらいいのかもわかrない
もうおわりだ全部終わりだわたしは
テンバツダこれはてんばつだ
この二人をよろしくたのむたのむ
そうごにあやあってほしいちからにはなれない
火曜日。夜も更けた繁華街の裏通り、雑居ビルの四階にある五味総合興信所のインターホンが連打されると、つむじ風を巻き起こす勢いで開くドア。鬼神の顔で仁王立ちする五味が怒鳴りつける。
「るっせえ! さっさと入れ!」
ピョンピョンと跳ねるように事務所に入ってきた笹桑は、ソファに先客を見つけた。
「あ、親方さんだ」
「あら笹桑ちゃん、あんたも呼ばれたんだって?」
「そうっすよ、五味さんすーぐ私を頼りにするんで」
「ぶっ飛ばすぞこの野郎」
にらみつける五味に見えないように舌を出すと、笹桑はいつも通りジローの隣に座る。
五味は三人の向かい側に座り、胸ポケットからタバコを取り出した。
「五味さーん。吸っていいかどうか訊くのはマナーっすよ」
しかし、文句を言う笹桑の目を五味は見ない。
「マナーは相手を見て守る事にしてるんでな」
「うわ、ひっど」
タバコを咥えて火を点ける。一口吸い、煙を天井に向けて吐いた。焦れたようにたずねる親方。
「ねえ、そろそろ教えとくれよ。いったい何の用で、うちら呼び出したんだい」
「そうそう、私も用件聞いてないっすけど」
すると五味は、相変わらず膝を抱え虚空を見つめているジローを横目でにらんだ。
「ジロー、昼間会ったジジイを出せ」
数秒の沈黙の後、ジローは不意に立ち上がり、五味の右側に立った。横顔をのぞき込むように笑顔で腰を曲げる。
「すみません、火を貸していただけませんか」
五味が右手を差し出すと、それをガッシリと握る。
「ありがとう、五味くん」
親方はキョトンとした顔だが、ジローの能力を知っている笹桑は真剣だ。
「おや、まさか私に自己紹介をしろなどと言うのですか。言いませんよね。私の正体は君には教えません。でも私は君を知っています。とてもよく知っています。それが現実というものでしょう」
ジローは五味に背を向け立ち去る、と行きたいところなのだろうが、ここは狭い事務所の中、ソファの前で足踏みをするしかない。こう言いながら。
「この件に首を突っ込むのはおやめなさい。忠告はしましたよ」
「よし、もういい。座ってろ」
五味の言葉でジローはソファの定位置へと戻り、また膝を抱えて虚空を見つめた。
親方はまだ状況が理解できないのか、首をかしげている。
「何だい、いまのは」
しかし細かい事情を説明している心理的余裕は、いまの五味にはなかった。
「ああいうしゃべり方、ああいう雰囲気のジジイだ。八十歳くらい、背は高い、馬鹿力で白髪、金は持ってるかも知れない、やたら健康そうな、だが裏の世界に通じてるヤツだ。親方、アンタ知らねえか」
「んー、そう言われてもねえ。ちょっと心当たりは」
親方は眉を寄せる。思い出すのを待っていられず、五味は笹桑に視線を向けた。
「笹桑、オマエはどうだ。顔だけは広いだろ」
「だけって言われるとカチンと来ますけど、でも、うーん、そうっすね」
と、何かを思い出したのか顔を上げた。
「私は会った事ないんすけど、『提督』とか『巨匠』とか『先生』って呼ばれてる人がいるらしいんすね。よくわからないんすけど、とにかく凄い人だって噂なんす。この人に聞いてみたら、あるいは……」
「あーっ!」
突然の叫び声に笹桑が驚いて振り返れば、親方が真っ青な顔で立ち上がっている。
「どうしたんすか、親方さん」
「提督だ」
親方はジローを見つめていた。
「さっきのアレ、アレは提督だよ。アタシゃ二十年前、いや三十年前か、わかんないけど、とにかく昔に一回だけ会った事あるんだ」
「間違いないのか」
身を乗り出す五味に、親方はガクガクと震えるようにうなずく。
「あの頃は、まだ子飼いの若い衆が何人もいてね、何の用件だったか、もう忘れちまったけど、二人ほど人手を貸してくれってのさ。前金でね、結構な金額をポンと払いやがったよ。で、二人貸して、それっきり」
「それっきり?」
のぞき込む笹桑の視線を避けるようにうつむく親方。
「三日経っても四日経っても戻って来やしない。こりゃ向こうの居心地が良くて乗り換えたか、そんな事も思ったさ。そしてちょうど一週間目に……手足が海で見つかったよ。二人とも、バラバラにされてたんだ」
眉を寄せて見つめる五味の前で、親方は続けた。
「捜したよ。そりゃ捜したさ。ヤクザにまで頭下げて、使える人手は全部使って、あいつを捜したんだ。アタシだけじゃない、警察だって動いたよ。でも、どこにも見つかんなかった。忽然と、煙みたいに消えちまって。大山鳴動すりゃネズミ一匹くらい見つかりそうなもんじゃないか。なのに手下の一人すら見つけられなかったんだよ」
そして、五味に厳しい顔を向ける。
「やめときな。相手が悪いよ。勝ち目なんかないよ、ありゃ化け物だ。はした金でどうにかなる相手じゃない」
五味はまさに苦虫を噛み潰したような顔で、タバコのフィルターを噛みしめている。そのとき、スマートフォンが振動した。ポケットから取り出せば、表示されているのは築根麻耶の名前。知り合いの県警捜査一課の刑事だ。
「んだよ、こんなときに。はい、どうした」
と、五味の顔が困惑する。
「情報屋? ニュース? 何慌ててんだよ……おい、ちょっと待て!」
突然、五味は立ち上がり、事務机のPCに走った。開いたままになっていたブラウザの検索窓に「トラック 突入」と打ち込む。エンターキーを叩けば表示される、ついさっき報道されたばかりのニュース。
あの五味が訪れた電気屋に、抵抗やコンデンサやスイッチの無数にぶら下がるあの情報屋のいる店に、飲酒運転のトラックが突っ込んでいた。七十代の運転手が軽傷で、店主は重傷だという。
偶然か。いや、こんな都合のいい偶然があってたまるか。
親方と笹桑も、この情報屋を知っている。二人はモニター画面をのぞき込んで息を呑んでいた。
五味は、スマートフォンがまだ通話中であるのを確認して耳に当てる。
「おい、いまどこにいる。こっちに来れるか」
そう言ったと同時に鳴るインターホン。凍り付く事務所の空気。しかし、ドアの外にいたのは河地美冬。子供を二人連れて。
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