第14話 報告書
エレベーターを降りた砂鳥宗吾は、黒いネクタイを外し、喪服の上着を脱いで社長室に向かった。両開きのガラス扉を押し開けると、秘書が立ち上がって一礼する。
「お客様がお見えです」
宗吾はうなずき、黒く重い社長室のドアを開けた。正面の窓際に背の高いシルエット。白髪の八十歳くらいに思える老人が、白手袋をした両手を後ろに組んでいる。ドアを閉めた宗吾は深々と一礼した。
「お待たせしました、先生」
「いえいえ、いいんですよ。待つのは慣れっこですから」
老人は振り返り微笑む。その笑顔がソファにかけるのを待って、宗吾は向かい側に座った。
「それで、どうでしたか」
何がどうなのか、と聞き返すまでもないのだろう。宗吾の問いに老人は小さくうなずく。
「ええ、来ましたよ。やはり来ました。想像していた通りです」
「では」
緊張した面持ちでのぞき込むように見つめる宗吾に、老人は小さく苦笑して見せた。
「何です。その場で絞め殺したのか、とでも言いたのでしょうか」
「いえ、決してそんな意味では」
宗吾は動揺して首を振る。しかし、顔には図星を突かれた驚きがあった。老人は小さくため息をつく。
「人を殺し屋みたいに言わないでください。私はそんな野蛮な事は嫌いなのです。一応はね」
「はい。申し訳ございません」
「それよりも、時効は間もなく成立するのでしょう。そちらは順調なのでしょうか」
「……はい、その事なのですが」
何とも言いにくそうにしている顔を、老人は静かに見つめている。宗吾にとっては無言の催促にも思えた。
「あえて兄の遺族を追放しなくとも、と思うのです」
老人の口元に浮かぶ酷薄な笑み。
「それは困りますね。あの取締役たちは、御社の業績の足を引っ張るだけです。株主としては非常に強い不満を感じます」
「それは確かにそうかも知れません。ですが、こちらにも計画があるのです。不用意に手を入れて失敗しては元も子もありません。ご理解ください」
「状況は常に変動します。ならば計画もそれに対応せねばなりません。いますぐ、より良い計画に練り直してください。それにこのご時世、取締約の数は少ないに越した事はありませんよ。『船頭多くして船山に上る』と言いますからね。御社は、あなたのカリスマによって統治されるのが最良なのです」
「そうおっしゃいますが、完成された計画に手を入れるのは容易ではないのです」
「あなたの亡き兄の妻とその弟。この二人を取締約から外し、社外取締役を一人追加する。そういうお話でしたよね。その前提で私も協力してきたのですが。違いましたか」
「しかし」
「そんなに過去の罪が暴かれるのが恐ろしいですか。そのために十年という時間を費やしてきたのでしょう。あなたには、もはや恐れる物などないはず。いま動かないでいつ動くのです。それとも」
その瞬間、社長室の内側が闇に包まれたかに思えた。
「もっと恐ろしい目に遭いたいのですか」
老人は立ち上がる。宗吾はその顔を見上げ恐怖するしかない。
「せ、先生」
その肩にポン、と何かが乗る。近すぎて顔は動かせないが、おそらくそれはステッキの頭。闇はいつの間にか消え去り、老人はドアへと向かっていた。
「そちらが約束を守る限り、こちらもあなたを守りますよ。ではまた」
立ち上がれない砂鳥宗吾を尻目に、老人は部屋を出て行った。
火曜の夕方、築根と原樹は県警捜査一課長の
直立不動の二人の姿など視界にないかの如く報告書に目を通した古暮課長は、捺印欄に三文判を押した。
「調整役、ご苦労」
それだけ言うと書類を連絡用封筒に入れる。もう用はないのだろう。だが築根は立ったまま動かない。原樹はどうしたものかと動くに動けず、額に汗が噴き出している。
封筒を机の上にポンと放り出し、古暮はジロリと築根をにらんだ。
「まだ何か用か」
築根はその目を正面から見つめる。
「明日から休暇をいただきたいのですが」
「馬鹿か。休暇は二週間前に申請しろ。そもそも、おまえらみたいな冷や飯食らいでも雑用くらいはできるだろう。ただでさえ手が足りんのだ、勝手に休みが取れると思うな」
「調べたい事があります」
「空き時間に調べろ」
「霊源寺始の死亡事案を一から洗い直したいと思います」
「霊源寺始の死亡事案については、報告書に書かれてある事がすべてだ」
「納得できません」
「おまえの書いた報告書だろうが!」
手のひらを机に叩き付けた古暮課長に、原樹は目をしばたかせた。
「いいか、この件は所轄が事故だと結論付けた。窓のストッパーが老朽化で金属疲労を起こしていた事実に気付かなかった以上、ホテル側に過失の可能性はあるが、無理矢理窓を開けようとしたのは霊源寺始自身だ。そしてストッパーは壊れ、霊源寺始は転落した。現場に残された証拠がそれを物語っている。どこに疑う点がある」
「明確な理由はありません」
築根の言葉は本心だった。
「ですが現場に立ってみて、この結論には違和感を覚えました。何かが違うんです」
「刑事の勘だとでも言うんじゃないだろうな」
「あえて言えば、それに近いかも……」
「ふざけるな!」
古暮は再び机を叩く。原樹の顔から血の気が引いた。
「おまえは理解していないようだが、県警の仕事は所轄の協力があって成り立つものだ。ついでに言えば、砂鳥ホールディングスは県の公安委員会にも顔が利く。それをおまえは所轄のメンツも、砂鳥のメンツも潰そうという訳だ。何の根拠もない勘だけを頼りにな。それはつまり私のメンツも、県警のメンツも潰すという事だ。わかるか」
「わかっているつもりです」
築根は即答したが、それが古暮の怒りの火に油を注ぐ。
「つもりじゃ意味ないだろうが!」
課長のナイフのような目が、いまにも斬りつけんばかりの殺気を放っている。原樹はもう卒倒しそうだ。しかし築根は一歩も引かない。
「休暇をお願いします」
静寂の中、古暮は椅子を回し背を向けると、大きなため息をついた。
「……おまえら二人に一週間くれてやる。だが、何も出て来なかったときは覚えておけ」
「ありがとうございます」
築根は深々と一礼すると、
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