第14話
寮の近くにあるコンビニに入り、ロールケーキ二つとチョコレートをカゴに入れる。
ポテトチップスも入れるか迷って、キャラメルにする。
お金を払って外へ出ると、雨がぽつぽつ降ってくる。
面倒くさいなと思いながら傘をさしてオレンジ色の寮へ向かう。
どんどん雨が激しくなって、おろしたてのTシャツが濡れ、デニムにも雨が染みこんできて足を速める。水たまりを避けて寮へ戻ると、田中さんはまだ帰ってきていなかった。
傘を振って水滴を飛ばして、傘立てにたてる。雨で濡れた手も振ってくしゃみを一回すると、聞き慣れた声で名前を呼ばれた。
「あれ、音瀬。どこか行ってたの?」
練習棟から帰ってきたらしい美空が私と同じように手をぶんっと振って水を飛ばす。
「コンビニ。ロールケーキ買ってきた」
手に持った袋を見せると、美空が羨ましそうに言った。
「え、いいな」
「美空の分もあるから一緒に食べようよ」
「やったー」
明るい声が玄関に響き、私たちは部屋へ戻るべく歩き出す。
「ねえ、音瀬。今度あるっていう新しいコンクールさ、あれどうするの?」
前川先生から聞いたコンクール。
美空の口から出てきた言葉がなにを指しているかがすぐにわかって、手を固く握りしめる。
私が、大丈夫、って言ったら出る?
田中さんの言葉が頭に浮かぶ。
どうして彼女は「コンクール出ないなんて許さないから」なんて言ったのだろう。
許されなくても私はコンクールには出ない。
「美空はでるの?」
私はロールケーキが入った袋をぶんっと振る。
「私は出ないことにした。他のコンクールにでる。音瀬は?」
息を吸って、吐いて。
握った手を開いて口も開く。
「出るつもりない」
「そっか。瑠璃ちゃんもでないって言ってた」
みんな出ないなら大丈夫。
なにが大丈夫なのかわからないけれど、大丈夫と唱える。
コンクールは出なくても許されるものだ。
田中さんが前に言っていたような勝負をする必要はない。
そもそも勝負をしなくても結果はわかっている。今の私が田中さんに勝つことはありえない。
もし、どうしても勝負をしたいと言うなら実技試験で十分だ。
コンクールにこだわる必要はないと思う。
それに私は、勝負をしなければならないようなライバルには成り得ない。
「音瀬は他のコンクールには出ないの?」
部屋の前に着き、美空が扉を開けながら聞いてくる。
「出ないかな。……人前で弾くの苦手だし」
「ほんと、そこは消極的だよね。人前で弾くの楽しいじゃん。気分盛り上がるしさ。私はコンクール好きだけどね。拍手ももらえたら最高だけど」
明るい性格の美空は、ピアノも明るい。
聴いていると気持ちが明るくなる。聴かせてと頼んでいないのに、人を練習室に引っ張り込んでピアノを聴かせるのはどうかと思うけれど。
「コンクールって拍手しないしね」
コンサートや発表会では拍手があるけれど、基本的にコンクールで拍手はしない。
「いつかショパンコンクールとか、そういう拍手をしていい大きいコンクール出て拍手もらいたいな」
「私は無理かな。失敗しそうだし」
「失敗すること前提なんだ。後ろ向きじゃない?」
美空がベッドに腰を下ろして私を見る。
「美空が前向きすぎるだけなんじゃないの」
「受験のとき、先生たちの前で弾いたんだし、あれと同じじゃん」
「同じって言っても、受験も緊張したし」
私は机の上にロールケーキが入った袋を置く。
椅子を美空のほうへ向けて、静かに座る。
良く受かったと思う。
受験のときは試験官の先生が数人と受験生数人が一つの部屋にいて、弾き始めるまでは手が震えて家に帰りたい気分だったけれど、大きな失敗はしなかった。
それが何故かはわからない。
ピアノの神様。
大きな失敗をしなかったのはそういうものがいたからなのかと思ったし、奇跡だとも思った。
「緊張したけど受かったんなら、人前でもいいってことじゃん」
「そういうわけじゃないんだけど」
「ふむ。じゃあ、何人以上から緊張するの?」
「何人以上って言われても。人数じゃないから」
五人まではいいとか、十人以上は駄目とか、そんな風に明確に決まっているなら対処のしようがあるのかもしれないが、実際は五人でも駄目なときは駄目だし、十人でもなんとかなるときもある。だから、何人と聞かれても困る。
ドレミ、ドレミ、大丈夫。
お母さんから教えてもらったおまじないが頭の中で響く。
小学生になって、初めて大きなコンクールに出たとき。
今までしたことのなかった緊張をした。
そのとき教えてもらったおまじないは、おそらくお母さんがその場で作ったものだと思うけれど、よく効いた。それから、発表会もコンクールも緊張せずに楽しく弾けた。将来の夢はピアニストです、なんて小学校の文集に書くほど自分に自信があった。
そう、中学生になって初めてのコンクールにでるまでは。
「美空、ロールケーキ食べないの?」
「食べる」
私は袋の中からロールケーキを一つ取りだして、美空に渡す。
「さんきゅー。今度、お返しにおごるね」
美空が嬉しそうに言い、パッケージを開けた。
私もベッドに座ってロールケーキを取り出す。
おまじないの効果はあれから、ずっと、でない。
一人で弾くのも楽しいけれど、昔みたいにたくさんの人の前でも弾いてみたいと思う。
もしも、コンクールに出たら。
受験のときみたいに奇跡的にうまくいくかもしれない。
そんなことを考えてみるけれど、子どものときのように弾けるイメージはできなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます