忍び寄る過去、にじり寄る実技試験

第13話

 合服から夏服へ。


 衣替えが終わって形だけは夏になったけれど、雨は七月に入っても降り続いている。寮のテレビを見ても梅雨が明けたと告げられることはなく、湿度の高さが空気を重くし、肩にのしかかる。腕にも普段感じない重さを感じる。


 実技試験が迫っているけれど、ピアノからは錆びついた音しかでない。

 寮の部屋、窓から外を見ると朝から降っていた雨が上がっている。


 練習と練習の合間を有効活用するだけだから。


 私は自分にそう言い訳してコンビニへ向かう。

 体を動かせば気分転換になるし、甘いものを食べたら楽しい気分になるかもしれない。いくら実技試験が近くても、日曜日の午後にコンビニスイーツを食べるくらいの贅沢は許されるはずだ。気晴らしをして、気持ちを切り替えてピアノに向かえばいい。


 いつ雨が降ってもいいように傘を持って寮を出る。

 のんびりと歩いてコンビニの前で足を止める。

 少し考えてからそのまま通り過ぎて、目的もなく歩く。


 美空と一緒に来れば良かったかなあ。


 彼女は今、練習室にいる。

 一人が嫌いなわけではないけれど、気晴らしをするなら一人よりも二人が良かったように思う。コンビニへ行くだけだったとしても、美空の練習が終わるのを待って、一緒に出かければ良かったと後悔する。


「十分歩いたら帰ろ」


 いつまでもふらふらしているわけにはいかないし、一人で歩いていてもつまらないから時間を決める。


 背筋を伸ばしてアーケード街まで歩くと、どこからかギターの音と歌声が聴こえてくる。耳を澄ませて聞いてもなんの曲かわからない。オリジナルかもしれないなと思いながら、音に向かって歩く。ギターが音を外し、歌も音が外れて危なっかしい。でも、どちらも弾んだ音で、聞いていると楽しくなってくる。


「あ、いた」


 シャッターが下りた店の前、ギターを弾く女の人と歌を歌う女の人がいて足を止める。人だかりはできていないけれど、私と同じようにそれなりに足を止めて聞く人がいるせいか、彼女たちはにこやかだ。


 足でリズムを取りながらオリジナルっぽい曲を聴いていると、幼稚園児か小学生、どちらかわからないけれど小さな子どもがギターと歌に乱入する。リズムに合わせて短い手と足をバタバタと動かして踊り出す。


「かわいい」


 そう言えば、私も子どものころは人前に出るのが好きだったっけ。


 ピアノを始めたばかりの私は、両親に聞いてほしくて「聞いて」とねだっていつまでもピアノを弾いていた。お爺ちゃんやお婆ちゃんにも聞いてほしくて、遊びに来た二人を前に小さなコンサートを開いていた。


 子どもは無敵だ。

 怖い物知らずで、なんでもできる。


 あのころの私だったら、言われなくてもコンクールに出たいと言っていたはずだ。


 はあ、と息を吐く。


 子どもには戻れないし、今の気持ちのまま子どもに戻っても人前でピアノを弾けるとは思えない。今、目の前で踊っている子どもの精神を乗っ取ればウキウキしながらコンクールに出たいと思えるかもしれないが、人の精神を乗っ取るなんてホラーかSFみたいなことはできたりはしない。


 だったら、奥枝先輩みたいにバッハ先生やショパン先生の声を――。


 いや、無理だ。

 あれは奥枝先輩だからできることだ。

 私が突然「バッハ先生が呼んでる」なんて言ってピアノを弾き始めたら、ただの危ない人だ。


「帰ろ」


 私はギターと歌に背を向けて、足を一歩踏み出す。


 むぎゅり。


 足の裏に踏んではいけないものを踏んだ感触がある。

 視線を下にやると、人の足があった。


「すみません」


 反射的に謝って、足をどかし、視線を上げる。


「げっ」


 潰されたカエルみたいな声がでる。


 田中唄乃。

 なんであんたがここにいる。


「倉橋さん。私もたぶん同じこと思ってる」


 思ったことが顔に出ていたらしい。

 田中さんがうんざりしたような顔をして私を見る。


 珍しい。


 こけしか、マネキンか。

 土偶でもいいけれど、動くことがない表情筋が動いている。でも、それは一瞬のことで、またいつもの表情のない顔で言った。


「あれ、聞いてたの?」


 そう言って、田中さんが私の後ろに視線をやる。


「そうだけど」

「ふうん」


 田中さんが二歩くらい近づいてきて、顔を私に寄せてくる。


 近い。


 ただでさえ近い位置にいたのに、さらに近づいてきたら必要以上に仲が良さそうに見えるし、無駄に整った顔が見えすぎて目のやり場に困る。


「下手。わざわざこんなところで弾く意味がわからない」


 ぼそり、と耳元で呟いてくる。

 なるほど。

 今の台詞を大声で言うほど感情がないわけではないらしい。でも、小声で話すという配慮をしたらなんでも言っていいわけではない。


「相変わらず失礼だよね。ああいうの、楽しそうでいいじゃん」


 私は田中さんが近づいてきた分だけ後ろに下がって、振り返る。


 小さな子どものダンス。

 ギターを奏でる指。

 歌を響かせる幸せそうな顔。


 私にはできないことだけれど、悪くない光景だ。


「……楽しそう、か。まあ、それは認めるけど」


 田中さんが小さな声で言って、考える前に私の口から「え?」という声が出る。


「え、ってなに」

「いや、そんなこと言うとは思わなくて。田中さんって、下手なんだからこんなところで弾いてないで練習したほうがいい、とか言いそうじゃん」

「そうも思ってる。でも、楽しそうなのは認める。誰かさんみたいに弾けるくせに弾かないよりはいいと思うし」


 棘のある言葉が耳に刺さって、私は田中さんを睨んだ。


「それ、どういう意味?」

「心当たりあるんでしょ」

「心当たりってなに?」

「……倉橋さん、コンクール出ないなんて許さないから」


 田中さんが質問とはまったく関係がないと思えることを凜とした声で言って、私をじっと見た。

 目を合わせたくなくても目が合う。

 はは、と乾いた笑いが私の口からでる。


「田中さんが許すとか許さないとか決めるものじゃないし、私がコンクールに出ても出なくても田中さんには関係ないでしょ」


 彼女は冗談が下手だ。

 コンクールにでないなんて許さない、なんてことを田中さんが本気で思うわけがない。またたちの悪い冗談を言っているだけだ。首を絞めてきたときも、私の才能を妬んでいるなんて一瞬でわかる嘘をついた。


 私には、彼女にこだわられるほどのものがない。


「私が、大丈夫、って言ったら出る?」


 田中さんが手を伸ばし、私の首を撫でた。

 冷たい指先に、一瞬、息が止まる。


 ドレミ、ドレミ、大丈夫。


 過去に何度も口にしてきたおまじないが頭に浮かんで消える。

 首を絞められたわけではないのに、息がうまくできない。


「……なんで田中さんが大丈夫って言うわけ」


 私の声に反応したように首を撫でた手が離れる。


「別に。励ましてあげたら気が変わるか試しただけ。帰る」


 いつものように冷たく言って、田中さんが私に背を向ける。


「は? 田中さん、ちょっと!」


 声をかけるが、彼女は止まらない。

 長い黒髪が揺れ、そのたび背中が小さくなっていく。


「なんなの、一体」


 わけがわからない。

 音が外れたギターと歌声が聞こえてくる。

 でも、田中さんの声は聞こえない。

 私は重い足を引きずるように寮へ向かう道を歩き出した。

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