第28話
……それから一時間後。
俺たちは午後の練習を取りやめて、会場となる656広場の周辺にやってきていた。
配れるものは早く配ったほうがいいです、と言い張る早坂の勢いに押され、全員がビラ配り要員として駆り出されたというわけだ。
「というわけでセンパイがたには、五十枚ずつ配ってもらいたいです。残りはひなたがなんとかしますので。……ポイントとしては、この辺りのお店を中心に配っていくことですね!」
早坂によれば、客の集まる飲食店などでは、レジなどの目立つ箇所に何枚か置いてくれるケースがあるという。
「やけに詳しいんだな、お前」
「いえ、事前にちょっとばかり調べただけですっ」
五十枚のビラを俺に押し付けながら、早坂は快活とした声で言った。
「それじゃあ、ひなたは向こうの商店街のほうに行ってきますから、センパイがたも各自よろしくお願いしますっ」
ぱたぱたと駆けていく早坂の姿を、俺たちは四人そろって呆然と見つめた。
「……俺らも配るかぁ」
そこから散り散りとなって、各自手のうちにあるビラを消費していくこととなった。
俺も適当にぶらついてみるが……、そもそも通りすがる人の絶対数が少なすぎる。
このビラ配り作戦に決定的な瑕疵があるとすれば、それは――ここが佐賀である、というところだろう。
それでもどうにか善良そうな人を選別し、おそるおそる声を掛ける。
しかし向こうも一筋縄ではいかない。呼びかけに応じたとしても、俺が手にしている紙の束を一目見ただけで、軽く会釈してそのまま通り過ぎていく人ばかりだ。ごく稀に、完全無視を決め込む輩もいる。配っている側としては苦難この上ない。
「……減らないな……」
それなりに時間が経っても、俺の手元からは十枚と減っていなかった。
にじんだ汗を手の甲で拭う。
ここまで大変なものだとは思わなかった。まあ、俺自身がさしてコミュ力もなく、人相もイマイチという点を差し引いても……かなり苦戦していると言えるだろう。
気を取り直して、俺は早坂の言っていたように、近くの店を中心に攻めていくことにした。
656広場から北方面に抜けていったところに、小さな理髪店を見つけた。
軒先のテントに印字されていた屋号は、経年劣化によって剥げかけている。明らかに地元の、それも年配向けの店構えだった。
アイドルライブと縁もゆかりもないことは確定だが、今はとにかく枚数さえ減らせばいい。
客ではないのに来店するのも気が引けたが、ここで弱音を吐くわけにはいかない。
意を決し入店すると、人のよさそうなばあさんがすぐに出てきた。八十代の前半だろうか。
「あぁ、どうもねぇ。若い方、こちらに」
「……ああ、いえ。実は……というか、髪を切りにきたのではなくて」
咄嗟に出てきた言葉に、俺は自分で呆れてしまう。
こういうときは結論ファーストだろうが、と思い直し、すぐさま修正を図った。
「すぐそこの広場で、自分たちがイベントをやることになっていて。もしよろしければ、こちらにもビラを置かせていただければ、と」
たどたどしいながらも、俺はどうにか言うべき言葉を並べ立てた。
やはり向いていない。ばあさんの反応を見るより前に、俺の心は次の店へと向き始めていた。
……だが、ばあさんは柔和なほほえみをたたえたまま、そうですかい、と優しくうなずいてくれる。
「ちょっと、見せてもらってもいいかねぇ」
「え、ええ。もちろんです」
一枚のビラを手渡すと、ばあさんの目がわずかに見開いたような気がした。
「あぁ……これはこれは。懐かしいもんだねぇ」
「懐かしい……?」
「うん。このねぇ、天川さん? っていう子。この辺でも大人気だったからねぇ」
昔を懐かしむように、ばあさんはしわの目立つ手先で、そっとビラの表面を撫でる。
それが遠い記憶なのか、はたまた最近の出来事なのか……表情からは推し量れない。
「あのときは凄かったねぇ。普段はほら、そんな感じで、人なんてたまにしか通らない風景だけどねぇ。相当な人溜まりになるもんだから、大事件が起こったのかと、そわそわしたもんだったわねぇ。でね、ちょっと観に行ってみたらねぇ――」
そこからは何度かワープとループを繰り返し、長々と昔話が続いていった。
ただ、俺もその話を真摯に聞き続けていた。九年前のドル研ライブ、そして天川詩音の生み出した熱狂。それを間近で見た人の話は、なかなか興味深いものがあったからだ。
ひととおりの話を終えると、ばあさんは満足したように口を曲げた。
「あなたたちも、上手くいくといいわねぇ。時間が取れたら、ワタシも観に行ってみるかねぇ」
ばあさんはそう言って、俺が持っていたビラをすべて引き抜き――旧型のレジがたたずむレジ置き場に、ドル研のビラを丁寧に重ね置きしてみせたのだった。
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