第21話:全部、奇跡だと思うんだ

「やっぱり奈良は最高だねー! わ! すごーい! 鹿さんがいっぱい……!」


十月下旬。

俺が綾香と再会してからはや半年が過ぎたことになる。

自然はすっかり赤や黄色といった鮮やかな色彩に包まれていた。

今年は例年よりも少し早く紅葉のピークが来ており、奈良や京都といった古都が映える季節でもある。

そんな時節に都心に住む俺たちがいる理由。

それは、綾香が来たいと言ったからだ。

日帰りかと思いきや、一泊二日の日程で土日に入れ込んだ究極のハードスケジュールである。

次の日の月曜は普段通りの登校なので、時雨には呆れられてしまった。

ちなみに、時雨の計画は水面下で順調な進行を見せているという。


「あんまりはしゃぎすぎんなよ。この後京都も行って旅館に泊まるんだろ?」

「うん……! 夜宮くんの気晴らしにはなるかなって」

「……俺のことを考えてこの旅行を提案してくれていたのか」

「んーでも夜宮くんは気にしないでいいんだよ……? わたしが行きたかったって言うのは本当だから」

「ありがとな」


まるで俺が綾香に奉仕してもらっているような流れだがそれは違う。

旅館の予約から金銭の支払いまで俺がすべて任された。

数か月分のバイト代が二人分の旅行費に溶けて消えた。

とはいえ、綾香の旅行プランにイエスを出したのは俺だし、金銭も俺から持つと言ったのだから、今回ばかりは俺の奉仕が正しいかもしれない。


「うん! きゃっ!?」


俺と話していて手に持った鹿せんべいをなかなか渡さなかったからだろうか。

無数の鹿が綾香を取り囲み、むしゃむしゃと服の裾をかじり始めた。

それはもう凄惨なほど唾液まみれな彼女は、どこか背徳的な印象を与えるのだった。


――成仏してくれ。


「わー! 今絶対成仏してクレメンスとか思ったでしょー!! 助けて、夜宮くん!」


いや、そんなネットスラング用語で言ったりはしていないが、思考をそのまま読み取られたようで、気恥ずかしかった。

泣きそうな声で叫ばれるが、俺は鹿せんべいを綾香に全部預けている。

それをあげればいいだろうと思うが、パニックになっていて気づかないようだ。

なにか、ないか。


「お兄ちゃん、困ってるの?」


ふと見ると、中学生くらいの男の子が俺を見ていた。


「あ、ああ。実は、あそこにあや――俺の幼馴染の女の子が捕まってて」


我ながら説明が下手くそだが仕方ない。

俺は新たな鹿せんべいを買いに行くべく踵を返した。


「待って。おれの使えばいいよ! その人、お兄ちゃんの恋人なんでしょ?」

「え? いや、ちが――」


男の子の瞳があまりに期待にこもったものだったので口ごもり、状況的にも仕方ないと思う。


「――わないよ。俺があいつの彼氏だ」

「んー! かっこいい! はい、頑張ってね!」

「――ああ」


俺は鹿せんべいを持ちながら鹿たちの気をそいでいく。

最初は一匹ずつ、仲間の行動を見てつられる鹿も出てきた。

十分な数を引き付けたら、俺は鹿せんべいを遠くに投げる。


「綾香! 大丈夫か!?」

「う、うええ~! べとべとだよ……」


俺は手持ちのハンカチで拭おうとするも、それを綾香は大げさとも取れる態度で拒絶する。


「こ、これくらい何でもないから……!」

「このくらい照れなくたっていいだろ? そのままだと匂うぞ?」

「意地悪……。じゃあさ、少しだけ待ってて。お手洗いに行って洗ってくるから」

「ああ」


俺は先ほどの男の子にもう一度礼を言おうとしたのだが、すでに立ち去ってしまったようだ。

それにしても最近の俺はやたらと人の視線を受ける。

それもそうか。

綾香なんていう俺にはもったいないほどの幼馴染の女の子といるのだから。


「よし……! ここは俺も綾香が楽しめるように努力しないとな!」



♢♢♢



奈良の名所を半日かけて廻った後、京都に向かった。

「まだまだ見たいところあったのになあ……」と無念そうにする綾香に奈良名物の柿の葉寿司を鼻先にチラつかせると、とても嬉しそうに飛びつくのだった。

それからは清水寺や伏見稲荷大社を見て回った。

途中でこっそりと小物屋に寄ったことは綾香に気づかれなくてホッとした。


石段でつまずきそうになったのを誤魔化そうと焦る綾香。

清水の舞台で視界一面の紅葉を背景に笑う綾香。

食べ歩きできる料理やスイーツを頬張る綾香。


どれもこれもが綾香との思い出に彩られていく。


――きっと俺は、変わらなければならない。



♢♢♢



「あ、夜宮くん。わたしは後から行くね! 旅館の人にも伝えて、わたしの名前も書いといて!」


一日中、奈良と京都の観光を楽しんだ俺たちは旅館の正面で別れた。

ちなみに旅館の夕食は頼んでいない。

色々な名物を食い漁ることで合意した俺と綾香は金額を浮かせるために夕食を外したからだ。


「了解。あんまり遅くなるなよ」

「ふふふ、夜宮くんがわたしの心配してる。夜もいっぱい遊ぶから、覚悟しておいてよね!」

「昔っからお前は夜が遊びの時間だと思ってたもんな。一晩で何冊の絵本を読まされたっけ」

「『寝ない子連れてくよ』『マフラーを買いに』『お月様パン』とかだったよね。今でも大切にあの時の本は取っといてあるよ!」


自信満々にドヤ顔を決める幼馴染に微笑ましい気持ちになる。

こうして無邪気に関わっていると昔に戻ったみたいで温かい。


「まめな奴だな。じゃ、気を付けて行って来いよ」

「うん!」


こうして俺と綾香は別行動をすることになった。

俺は旅館に入ると簡易なチェックを済ませ、言われたとおりに綾香の名前も記入する。

これで受付を素通りして綾香は入ってこれるはずだ。


「ご予約の二名様ですね。夜宮様と桜瀬様。お部屋の番号は――」


部屋鍵を渡され、簡易な旅館案内をされる。

予約したこの旅館には広い露天風呂に加えて、すべてが天然の温泉らしい。

風呂マニアではない俺にしても、期待はせざるを得ない。



♢♢♢



「ただいまー!」

「ああ、お帰り」


部屋に入ってきた綾香はそそと俺の近くによると、後ろから抱き着いてきた。

俺はただ、動くことのできない石像になっていた。


「なんかさ、こうしてると本当に付き合ってるみたいだよね? ううん、むしろ――」


その先は言わせまい。


「冗談だろ。馬鹿なこと言ってないでくつろぐのをお勧めする! ほら、見ろよ。この部屋! そして下に見える和風庭園!」

「ん、まあいっか。そうだね、確かに綺麗だね!」


部屋のガラス越しからは美しくカットされた植物が植えられ、小さな池が存在していた。

それになんといっても石灯籠だ。

そろそろ夜になるからなのか、明かりが灯っている。

しばらくそうしていたのだが、綾香がふと思い出したように提案をする。


「……そうだ。今晩、この近くで花火大会があるんだって! 一緒に見よ……?」

「いいな、それ。部屋から見るか?」

「ううん、どうせなら外で、それも見晴らしがいいところでみたいなー! 我儘を言うならわたしと夜宮くん以外誰もいないような素敵な場所!」


夢見るお姫様のようなことを言うもんだ。

そんな場所は穴場でもない限りないだろうな。


「それは厳しいんじゃないかな。ここら辺は俺のよく知る場所じゃないし……」

「そうだね……。じゃあ、この近くで見やすい場所を見つけないとね!」

「そうだな。時間はどれくらいだ?」

「えっと二十時から始まるってポスターに書いてあったよ。今が十八時ちょっとすぎだから、余裕はあるね」


俺は少し考える。

そう、俺は風呂に行きたいのだ。


「風呂に入ってから行くでも構わない?」

「あはは、いいよいいよ! でもそういうのは女の子が言うからこそドキドキするもんなんだよ~?」

「入りたいものは入りたいんだから仕方ないだろ!」

「おっしゃる通りでございます、殿」

「ふむ、苦しゅうない」


冗談めかしたやり取りが交わされるのだった。



♢♢♢



「ふー。すごく、気持ちいいな」


天然の温泉に浸かった俺は思わず弛緩した声を漏らす。

運がいいのか悪いのか、露天風呂には誰一人として客はいなかった。

秋の日は釣瓶落とし。

つまり、先ほどから少ししか経っていないというのに、見上げればすでに燦然と輝く星々の宴だ。


「綺麗、だ」


思えば俺が空を見上げるのはいつ以来だろう。

中学の時の俺にはそんな余裕などあろうはずがなく、ただ下を向いて生きてきたと思う。

前を、まして上を見ることなどとっくに忘れてると思っていたのに。


「綾香と時雨のおかげだ。あいつらがいてくれるから、俺は立ち直ることができるかもしれない」


独り言は真っ白な湯気にかき消える。

ゆったりと、でも着実に。

今頃は綾香も隣の女湯に浸かっているはずだ。

この感動すべき温泉と俺を気にかけてくれていることに感謝を伝えよう、そう思った。



♢♢♢



「あれ、綾香は出るの早いな」


俺が更衣室で着替え、共同スペースへとやってくると綾香は物陰からすっと歩いてきた。


「えへへ、少しだけのぼせちゃって……」


その割には顔も赤くないし、髪も濡れていないように見える。

そんなことは俺の気にすることじゃないな。


「体調は大丈夫か? 花火はやめておくか?」

「っ! ううん! 絶対、行く!」

「わ、わかった」


かなりの迫力で寄ってきたので思わず上体を反らす。


「と、そうだ。湯上りといえば牛乳だろ? 何が飲みたい?」

「わたしはさっき飲んじゃったからいいよ」

「先に……。俺が長風呂してたからだな。すまない」

「え……? ぜ、ぜんぜん夜宮くんのせいじゃないから気にしないで! わたしが待ってられなかったのが悪いんだし……」


申し訳なさそうに謝る彼女に俺の方が申し訳なく感じていた。

普段のボロアパートでは小さな湯船しかないため、あまりくつろげない。

だからこそ、長風呂になってしまったのだ。


「そんなことはないと思うぞ。少し待っていてくれ」


俺はコーヒー牛乳を買うとふたを開け一息に飲み干す。


「美味しい?」

「ああ、やっぱりうまいな」

「ふふふ、子供みたい」

「俺は子供さ。一応ね」


ぐびぐびと飲み下すと綾香がそういえばと朗報を持ってきた。


「ここから少し歩いた丘の上の森の中に幽霊が出るんだって……。そこなら高い位置にあるし、人も不気味がって寄り付かないんじゃないかな?」

「幽霊って……お前はそういうの苦手だろ?」


俺は幽霊が本当にいるとは思っていない。

夜、洗濯物のしまい忘れが幽霊に見えたり、人影を化け物だと勘違いする例は古今東西よくあることだ。

きっと、この噂も偽だろうが、幽霊を信じている綾香にとっては苦痛以外の何物でもないはずだ。


「もしも、幽霊がいたってわたしは平気だよ……? ――だって、夜宮くんがいるんだからさ」


全幅の信頼をおいたその言動に胸が温かくなる。

そんな期待を寄せられるほど、綾香に対して立派な姿を見せたことはないはずだ。

むしろ、情けない姿ばかりをさらし続けている。

それでも、翳りのない信頼が向けられていることに色々な感情が混ざり合った俺は――。


「……」

「あ、その顔! わたしをからかってる顔だ! 絶対に置いていかないでよね!」

「……」

「……え?」

「冗談に決まってるだろ。俺が傍にいるよ」

「あ、焦ったあ……!」


小学生の頃の俺がよくやっていた意地悪をするときの表情で誤魔化すのだった。

飲み終えた空瓶が照明の光を受けてきらりと反射する。



♢♢♢



「わあ~! 世界観が変わるね! この場所からこんなに綺麗な花火が見れるなんて!」

「俺も驚いたな……。絶景ポイントじゃないか……」


俺たちがたどり着いたのは、参道から外れてしばらく獣道を歩いた場所だ。

偶然の産物ともいうべきか、小さな公園ならすっぽり収まるくらいの野原に出た。

下草は伸びすぎることはなく、むしろクッションになるくらい柔らかい植物が所狭しと自生している。

そして黄色の女郎花おみなえしが散りばめた宝石のように風に揺られていた。

そんな地上から見上げる夜空。


「時間ぴったりだったみたいだね……!」

「ああ」


そこには色鮮やかに咲き誇る光の幻想があった。

打ち上がるごとに俺と綾香をあでやかに染め上げる。

しばらくは黙々と秋夜空に咲き誇る大輪の花を楽しんでいた。

だが、その雰囲気から普段は面と向かって言えないことですら、人は本音を漏らしてしまうものだ。


「綾香……」

「ん~?」

「俺、お前が来てくれて本当に嬉しかったんだ」


父さんが失踪して、朝露事件の加害者にされて、独りぼっちで。

どこにいても上手くやっていくことができなかった。


――一人、独り。


どこへ行っても灰色の孤独だけが道を彩った。

でも、綾香が会いに来てくれて、今もこうして隣にいてくれて。


自然に涙がこぼれてしまった。


周りはどんどんと変わっていくのに、変わらず俺を覚えていてくれた。

一人にしないでくれる、心の支えなんだ。


「その気持ちはわたしも同じだよ。わたしだって夜宮くんに会えて嬉しかった。だからね、思うんだ」


視線は上に固定したまま言い放つ。


「これは奇跡なんじゃないかなって」

「それはどういう?」

「全部だよ。わたしが夜宮くんの幼馴染だったこと、離れ離れになったこと、再会できたこと。わたしという一人の人間がいて、夜宮くんという一人の人間がいること。それも全部奇跡だと思うんだ」

「確かに、な。俺と綾香が出会う確率なんてきっと限りなくゼロだったはずだ。でもこうして俺とお前は出会った。それはもう、奇跡と呼んでもいいよな」

「ふふふ。あのさ――」


一際大きな花火が上がり、大音響と共に彼女の言葉を聞き取ることができなかった。


「あらら~……。花火さんは意地悪だなあ」


何事もなかったかのように、空の花火に視線を戻す彼女に俺はひどく狼狽する。

何か今大切なことを言おうとしたような、そんな気配を感じたのだ。

感情が高ぶっているのか、俺は胸の奥底から湧き上がってくる熱い何かに流されそうになる。


「っ……」

「何でもないよ。あ、ほら! そろそろフィナーレだよ!」


綾香の言う通り、今まで以上に花火の数と色彩のバリエーション、そして大きさが派手になっていた。


「綾香、ありがとう」


温かいこの気持ちを五文字に一片も残さず込めた。

だから、他に言葉はいらないはずだ。

俺に、もう一度本気で絵に取り組むように言ってくれたこと。

そのために支えてくれると言ってくれたこと。

あの時は逆行していたが、今はどれも温かい感情で優しく包まれるようだ。

綾香はただ口元に微笑みを浮かべていた。


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