彼は栄養失調を起こしかけていた。一ヶ月ぐらい、ろくに物を口にしていなかったらしい。お金がないというのは本当で、わたしたちはいやがる彼に、無理矢理カンパ金を押しつけた。そして、自然な流れから、わたしが当分のあいだ、彼のお目付役をするということになった。彼の様子を確かめ逐次みんなに報告する。 


 わたしは、会社の帰りや週末に彼のアパートを訪ねた。

 なにがあったの? とわたしが訊くと、彼はあの懐かしい笑みを見せ、ぼさぼさの頭をいた。

「ヨーロッパから帰ってっきて、すぐに出版社に就職したんだ。そんとき、何度も連絡入れようとしたんだよ?」

 ごめん、とわたしは言った。

「けっこう引っ越し繰り返していたから、わたし自身いっとき行方不明状態みたいになってたの。みんなと会うようになったのも、つい最近ことなのよ」

 ふうん、と彼は言った。

「まあ、それでさ、その会社はすぐに辞めてしまったんだ。どうにも杓子定規しゃくしじょうぎで、前世紀の価値観が―――いや、前々世紀だな―――まだ、まかり通ってるんだ。オレの大嫌いな男根主義だよ。みんなきっちり二本の刀下げて出勤してくるんだな。かんかんになって頭の良さをひけらかすんだよ。それで、まあ……」

「そのあとは?」

 いろいろ、と彼は言った。

「半端仕事で食いつないでた。なんだけど、あるとき、清掃の仕事してて、急に息苦しくなってさ」

「心臓?」

 全然違う、と彼は言った。

「多分、洗剤にやられたんだと思う。強烈な業務用を使っていたからね。オレはそういうのに過敏にできてたらしい。そこからかな、なんだか、身体の調子がなにもかもおかしくなり始めたのは」

「病院には?」

「行ってない。病気じゃないし。それに、食わないっていうのは、オレなりの治療法だったんだよ。人間極限まで追い詰めりゃ、どこかに隠されてる非常用のスイッチがオンになりそうなもんだろ? それを待ってたんだ」

 だめよ、とわたしは言った。

「その前に死んでしまうわ。あのときだってそうだったじゃない? ちゃんと食べて」

「由佳がさじで口に運んでくれるなら」

 だから、とわたしは言った。

「わたしはもうやめたの。わたしは普通に生きたいのよ。雅司まさしのそばにいると疲れちゃうの。持って生まれたエネルギーが違うのよ。少し距離を置いたところから見ているのが一番いいの」

 近付き過ぎると、とわたしは言った。

「まぶしさに、目がくらんでしまうの」

 ひとをハロンゲンランプみたいに言うんだな、と彼はぼやいた。

「まあ、なんにせよ、いまじゃこのざまだよ。豆電球ぐらいの光しか出せない」

 そうね、とわたしは言った。

「だから、あたなが治るまでは一緒にいてあげる。でも、それだけよ。わたしは雅司のケースワーカーなんだから」

 なんて他人行儀な、と彼は言った。

「それでもありがたいよ。由佳の顔を拝めるだけでも、オレは幸福もんだ」

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