6




 そんな茶会から数日後。


 何とも釈然としない気持ちが晴れないまま、アロイスは空き教室の窓際でぼんやりと物思いにふけっていた。

 やはり気になるものは気になるのだ。アロイスは生来、人より好奇心旺盛な自覚があった。


 それに、一人で物思いに耽ることが出来る時間というのが、第一王子という身分の彼にとっては稀なのだ。アロイスはこの、一人で考え込んでいられる時間を楽しんでさえいた。


 なぜなら、通常傍らに控えているはずの幼馴染兼、護衛役である近侍の青年が、今はいないのだ。彼は夏季休暇中の鍛錬で怪我をしてしまい新学期には間に合わなかった。


 アロイスは彼を嫌いなわけでは決してないが、彼はアロイス至上主義で熱血漢のきらいがあるため、四六時中そばに張り付かれては辟易する時もあるのだ。彼が戻って来るまでは、一人の時間を満喫したい。


 それに、ジークハルトに想い人と二人きりになれる時間を作ってやろうという気遣いもあって、アロイスは珍しく放課後に親友の元へも行かなかった。




 ジークハルトの周りで起こる不可思議な現象は何なのか、彼女がどうやって解決しているのか、どうすれば教えてもらえるのか。考え事のテーマとしては丁度いい。


 そんなことを考えつつ窓枠に肘を置き、何とはなしにぼんやりと中庭を見下ろしていれば「あ、」と意図せず声が洩れる。



 アロイスは昔から、数年おきに妙な何かを視界に見止めて目をすがめることがあった。

 ぼんやりと滲むような、ベールが掛かったような不明瞭な何か。

 分からないままでいるのは好奇心旺盛なアロイスの性分に合わないのだが、どれだけ目を凝らしてもそれに焦点が合うことはなく、その輪郭すら茫洋ぼうようとして、はっきりしないのだ。

 分からないからどうしようもなく、いつも気付けば忘れてしまっている何か。


 それは、視界の一点。中庭の木の下がインクを水に垂らしたように滲む。いつもと同じで、注視しても焦点は定まらない──はずだった。


「え?」

 今までであれば不明瞭なままであったはずのソレに、今日は何故か焦点が合ってしまう。ぼんやりと曖昧だった輪郭がじんわりと定まっていく。

 アロイスの心臓がドッと跳ねた。冷や汗が吹き出る。


 アレがこちらに気付く前に、目を逸らさなければ。こちらに気付かれたら。そう本能と直感が最適解を叩き出す。

 それなのに、何故か目を逸らすことが出来ないのだ。


 それどころか、まるで足が床に根を張ってしまったかのように、脳と身体が繋がっていないかのように、四肢の末端に至るまでピクリとも動かない。

 ぞくぞくと走る悪寒で震えだしてしまいそうなのに、指の先まで石にでもなったような気分だった。


 ガンガンガンと頭の中でけたたましく警鐘が鳴る。だが、頭では分かっていても身体の自由は微塵も利かない。


 ソレはじっくりと時間をかけて、じわじわと不気味に揺れ始め、次第に激しさを増していって───ある時前触れもなくぴたりと止まった。

 止まったことで、その輪郭がもはや完全にはっきりくっきりと定まっていることに気付く。


「あ…………」


 ただ動きが止まっただけ、それなのに直感で不味いと分かる。

 冷や汗と共に全身が総毛立って、訳も分からず漠然と死を覚悟した時だった。


 どこからともなく目の前に、先日知り合ったばかりの令嬢が現れたのだ。

 「来た」のではなく「出現した」と表現するのが一番しっくりくるような現れ方で、ふわりと彼女は視界の中に押し入って来た。


「──駄目ですよ殿下。さわりがありますから」


 するりとアロイスの耳に滑り込んでくる抑揚のない声。

 ニコラが伸ばした手に目元をすっぽりと覆われて、視界は真っ暗になる。


 異常なまでに冷えた彼女の手から伝わる、かすかな体温。

 それでも僅かなりとも滲む温かさに、感触が末端から少しずつ戻って来る。


 肩の強張りが溶けていくのを感じたのだろう。ニコラは目を覆っている手とは逆の手でアロイスの手首を掴み、ぐいっと無理やり反転させて窓から離れさせる。

 先程までピクリとも動かなかったはずの身体は、何故かされるがままに動き出した。

 

「アレは視ちゃ駄目なモノです」


 彼女そっと目の覆いを外す。視界に入るのは、二人の他には誰もいない空き教室だ。

 ヒュと無様に喉が鳴って、初めて自分が息を止めていたことに気付く。


 ニコラはアロイスの手首を掴んだまま、ぐいぐいと引っ張って歩き出した。

 目的地は決まっているようで、その足取りには迷いがない。


「ねぇ、さっきのアレは何だい?」

「ニコラ嬢?」

「どこに向かっているのかな」

「ねぇ」

「ニコラ嬢ってば!」


 だが、彼女は全くこちらの声が聞こえていないかのように、アロイスに答えるどころか振り返ることもなく突き進んでいく。


 これは本当に先日会った子爵令嬢なのかと今更ながらに焦るも、掴まれた手は振りほどこうとしても離れず、導かれるままにアロイスは裏庭に出る。


 そこは、何かと人目を集めがちなアロイスとジークハルトが見つけた、知る人ぞ知る人気のほとんどない穴場なのだが、アロイスは見慣れた裏庭へ出た瞬間に、間抜けにもあんぐりと口を開けてしまった。


「え、あれ? ニ、コラ、嬢……?」


 木陰にはニコラが座っているのだ。

 芝生に寝転ぶジークハルトの膝枕を半ば死んだ目で甘んじて受け入れていたニコラは、ゆっくりと顔を上げた。


「御機嫌よう。危ないところでしたね。だから忘れろと言ったのに」


 数日前とは違い、アロイスが相手でもあからさまに不機嫌を隠しもしないニコラが、何故か座ったままに彼を見上げているのだ。


 では、今もなおアロイスの手首を掴んだままの人物は一体誰だというのか。

 恐る恐る隣を見れば、やはり隣に立っているのもまた無表情のニコラで。


「ニコラ嬢が、ふたり、いる……?」


 だが、ジークハルトに膝枕をしている方のニコラがパチンと指を鳴らすと、アロイスを迎えに来た方のニコラは人型の紙になり、ぺらりと重力に従って力なく芝生に落ちた。


「は、?」


 目の前で起こった現象が信じられず、唖然とする。

 地に落ちた人型の紙を拾い上げれば、そこには赤黒く掠れたインクで目と口のような絵が描いてあった。

 目を疑うような現象を前に、アロイスはニコラと紙の人型を何度も見比べる。


 だが、ニコラはそんなアロイスを完全に無視して、膝の上のジークハルトの額をぴしゃりとはたいて言った。


「ジークハルト様、用事が出来ました。邪魔です」


 そうして彼女は渋々身を起こしたジークハルトに中庭へ出る最短ルートを尋ねると、棒立ちのアロイスを放置したまま去って行こうとする。アロイスは慌ててニコラの手を掴んだ。


「待って欲しいな。説明を、お願いしても?」


 でなければ離すつもりはないという意志を込めて、掴む手に力を込めて見つめる。

 力加減を間違えてしまえば、ポッキリと折れてしまいそうな小枝のような手首だ。


 無言の攻防の末、アロイスの譲らない様子に観念したのか、ニコラは嘆息した。


「………………では、明日の放課後で」

「分かった、明日だね。待ってるから」


 アロイスが手を離せば、今度こそニコラは二人に背を向ける。

 その背にジークハルトが投げかけた。


「ニコラ、大丈夫なんだね?」

「えぇ。問題ありません」

「そう。行ってらっしゃい。気を付けてね」


 ニコラは後ろ手にひらひらと手を振って去って行く。

 彼女はこれから、あの恐ろしい何かの元へ行くのだろうか。


 分からない事は知りたい。それが面白そうなことであれば尚更。それがアロイスの行動の指針だ。

 だが、もう一度アレを見たいのかと問われれば、間違いなくノーと答えるだろう。



「……ジークは、彼女を一人で行かせて良かったの?」

「私が行っても、残念ながら何も出来ることはないからね」


 才色兼備、文武両道を謳われ、周囲には出来ないことなど何もないとさえ噂されるにも関わらず、ジークハルトは憂いを帯びた目を伏せて自嘲した。


「ニコラの領分で、ニコラが大丈夫って言うのなら、私は信じて待つしかないんだ。困ったことにね」

「そう、……」





 もう今となっては命を握られているような恐怖感も圧迫感もない。

 だが、滲んだ汗が風で冷え、今度は別の意味で背筋が粟立つ。

 制服がぴたりと肌に貼りつく不快さは、いつまでも消えることはなかった。




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