匣庭の野良犬
倉園みつこ
零
酒の匂いと、男の怒号と女の悲鳴。
産まれた時から聞いてきたそれらは、やはり今でも慣れない。邪魔だからと物置小屋へ追いやられた私は、ひたすら目を閉じ耳をふさいでいた。何度もここから逃げようと考えた。でもそんなのは無理に決まっている。この街、いやこの地域というべきか。どこへ逃げたって同じような光景が広がっている。ただ建物が綺麗か汚いか。女が着飾っているか、ぼろ布をまとっているか。それくらいの違いしかなかった。他の地区へ逃げようとも考えなかった。だってこの地域で産まれた人は、ここで生涯を終えるしか道はないと誰もが言っているから。だから私はここでうずくまる。早く死にたいと願いながら。
ろくでなしだから、ロク。
大好きだった母親にそう名付けられた私は、ただ黙って父親とその仲間の言うとおりにしていた。酒を持ってこいと言われたら、店から奪ってきてでも酒を持っていく。殴らせろと言われれば、何も言わずにただ殴られる。特になにも感じなかった。
私の家は身売り屋をやっていた。各地区の貧しい家の娘がここに来て、どこかの娼館へ売り飛ばされる。ここにいて幸せそうな娘など、見たこともない。みんな泣いているか、怒っているか。そのどちらかだ。でもあの子は違った。
「ねぇ、こっち来て!月が見えるよ!」
部屋とは名ばかりの檻の中から、あの子─月子─は声を掛ける。その顔はとても輝いて見えた。月子はいつも笑っていた。最初は馬鹿だと思った。でも話を聞いていくうちに、馬鹿ではなく、とても聡明な少女だと知った。聡明で自分の置かれた状況がわかるからこそ、笑っていたのだ。私は月子がうらやましかった。月子のように強くなりたいと思った。
「私のことを守ってくれるロクは、私以上に強いよ。」
月子にそう言われた。すごく嬉しかった。嬉しかったから、泣いた。その涙を月子の白い手がぬぐってくれたことも、その手が暖かかったことも、鮮明に覚えている。
月子と一緒に、どこかへ逃げて二人で幸せになろうと計画した。計画の段階で、とても楽しかった。これから月子と幸せになれるんだ。幸せになったら何をしようかとずっと考えていた。
「計画実行は満月の日ね。」
いつもの笑顔でそう言った月子の顔は、とても美しかった。
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