なまぬるいまどろみのなかで
夏秋郁仁
これは俺の日常だった
いつも通りのはずだった。
死んだ女の子がいた。ジャングルジムのてっぺんに。
「こんばんは」
ひどく暑い夜なのに、彼女は冬服のセーラーに真っ白いマフラー姿で、ゆらゆらと足を揺らしていた。
「……こんばんは」
狭く感じる空間に、俺の独り言が響いた。
***
濃密な緑の匂い。やかましいセミ。微笑んでいるような三日月。座っているだけでも汗がにじむ、湿度の高いべたつくような夜。それでも頭上を照らす太陽が無いだけ、いくぶんかマシだった。
――彼女が、いる。いるはずがないのに。
理解できない。寝不足で頭が回らない。ぼんやりと隣を見る。やっぱりいる。白い足を揺らす、去年の冬に死んだ岩藤ナギサが。
彼女の整った横顔が楽しそうな笑みをかたちづくっている。俺の知る、いつもの顔。胸がきりきりと締め付けられる。
ここにいないはずのナギサが言う。
「君と会うのは、久しぶりだね」
何度も脳内で再生した声がそのまま聞こえて、冗談じゃなく身体が震えた。
「久し、ぶり」
「最近どう? 私は、朝起きるのが辛いなー」
「あ、俺も。最近寝坊してばっかで」
くすくす、とナギサが笑う。顔が熱くなった。恥ずかしくて、赤くなっているであろう頬を手の甲で押さえる。
その手の動きにつられたのだろうか。ふとナギサは
「目の下の隈は、どうしたの?」
とたずねた。
「あぁ、これは――」
――ナギサが死んでから眠れなくなっただけだよ。
「……つい、夜更かししちゃって。もうくっきり残ってるよな」
こびりついている黒を、俺は強く擦った。
「夜眠れてないから、最近はいつだって眠いんだ。日中はずっとウトウトしてるし、授業中はもちろん寝てる。ずっと寝てるからか、今が現実か夢か一瞬分からないことだってあるんだよ」
いたずらっぽく言うと、ナギサは楽しそうに笑った。
「うわっ」
突然の声に、びくりと肩が上がった。驚いたような、小さな声。音のした方向を向くと、公園の外からジョギング中らしいおじさんがこちらを見ている。目が合ったので会釈すると、彼は顔をしかめた後、得体の知れないものを見たかのように足早に走り去った。
……なんだ。失礼なおじさんだな。
口元がゆがむ。急に、自分が地に足が着いていない、不安定な場所にいることを思い出して、不安に襲われた。
「ところで」
鈴の音のような声に意識を引き戻す。彼女の存在を一瞬忘れていた。慌ててナギサの方を向き
「うん」
と返す。
「今日は疲れたねー」
「ああ、そうだね。今日は体育があったし、課題もあるから」
最近夜は毎日散歩をしているからいつも眠たくて仕方ない。身体は重いし頭は痛い。だからなんでもない一日だって異様なほど疲れてる。今だって寝てしまいたい。けれど、それ以上にこのままナギサと話していたいから、俺は閉じてしまいそうなまぶたを開ける。この夢のように幸せな時間を見続けたい。
話していないと寝てしまいそうなので、出会った時の話を話すことにした。
「……そういえばさ、こういう日に会ったんだったな」
「ああ、そうだったね。君と、初めて会ったね」
あの時は学校で、昼間だったけれど、汗のにじむ日であるのは変わらなかった。
楽しげに笑う、あの笑顔を見た瞬間から好きになった。それからは、転げ落ちるようだった。彼女が視界に入るたびに胸を高鳴らせる。彼女の笑顔を見た時は緊張で動けなくなる。救いようがないと思いながらも、好きになることを止めることはできなかった。
――そして、ぐずぐずになるほど、どうしようもないほど好きだったから、彼女が死んだ時は怒って泣いて笑ってわめいて、何度も忘れようと思った。
なのに、この恋情は枯れなかった。
姿を思い出してまた好きになる。声を思い出して更に好きになる。笑顔を思い出してもっと好きになる。死を嘆くと同時に彼女が恋しくて、世界を侵食するほど好きになる。忘却したいほど好きなのに、彼女の記憶を消すことは叶わない。恋しくて頭がおかしくなりそうだった。
そんな日々が永遠に感じるほど続いて、マトモな生活ができなくなるほど彼女のことを考えて――そして、ナギサに出会った。
ナギサは死ぬ前と変わらない。姿も、声も、笑顔も。全部が俺の恋した彼女のままだ。
この心の底から湧き上がる感情は、純粋なものだけでできている。だって、俺はこんなにも彼女が好きで――
「あのね、私の彼氏がね」
は?
反射的に腕を突き出した。かれし? ナギサにそんなものいるはずがない。そんなことを言うのはナギサじゃない。俺のナギサは、岩藤ナギサじゃない。わけのわからないことを言うものは、なくさないと。はやく、はやく、いますぐに。
パニックになっていた。そんなことをしたらどうなるのかまで頭が回っていなかった。ジャングルジムの上で押されたら落ちるなんて、当たり前のことなのに。
俺はうつむいていた。腕を突き出したまま、固く目をつむっていた。彼女を見たくなかったから。やってしまった、と思っていたから。
急激に全身が冷える。俺は、なんてことをしたんだ。いくら聞いていたくなかったからって、突き落とすのはやりすぎだ。
寒いくらいなのに、一滴の汗が頬を伝った。鳴いていたはずセミの声は聞こえない。どこか遠くの世界のことのようだ。
どうしよう、という言葉だけが脳を空回りする。どうしようどうしようどうしよ――
「大丈夫?」
彼女の声が響いた。聞き間違えるわけがない。ずっと聞いていた声だ。恐怖に震えながらそっと彼女をうかがう。
「なんで」
彼女は変わらず笑っていた。
は? どういうことだ? 今、突き飛ばしたはずなのに、なんで落ちてない? なんで、なんで、なんで?
「な、ナギサ」
「うん。どうしたの?」
横顔の彼女は笑う。赤い唇はなんでもないように弧を描いている。穏やかに、美しく。
この異常さに、ようやく俺は思い至った。
ぐらりと世界が傾く。気味の悪い浮遊感を味わう。地面に思い切り叩きつけられる。そんな感覚を持って、俺は真実を理解した。
……ひどく呆気なく、俺はナギサが幻覚だと思い出した。
「あは」
つい、乾いた笑いが漏れた。奇妙に笑えてくる。ぐにゃりと世界がゆがみ、視界が揺れる。世界は明瞭さを失うくせに、彼女とその背後にある月だけは気味悪いほど鮮明だった。大きく欠けた三日月も、笑顔の彼女も、まるで俺を嘲笑っているように見えた。
曖昧になる頭をかき回す。そうだ、そうだった。最近眠れていないのも、彼女に会いに出かけているからだ。
異様なものを見る目つきだった通行人も。どこか噛み合わない会話も。ずっと横顔で笑っているのも。
ぜんぶ俺の妄想だったからだ。
隣のクラスの岩藤ナギサ。ただ笑う横顔を見ただけなのに、会話をしたことすらないのに、俺は彼女に惚れてしまった。毎日毎日眺めるだけでどんどん思いを募らせた。好きで好きでしょうがなかった。けれど、遠くから見てるだけでよかった。俺なんかと彼女は、釣り合わないから。
そんな、綺麗な感情だったんだ。あの日までは。
『私、彼氏ができたんだー!』
たまたま耳にした嬉しそうな声に、俺は壊れた。ぱっきりと割れた。
ああ、死んだんだな、と思った。その瞬間、岩藤ナギサは死んだ。俺のなかで、岩藤ナギサは死んだんだ。
……でもたぶん、何より不幸だったのは、それでも俺は彼女が好きだったことだ。どうしようもなく。足掻きようがなく。
だから、ナギサが現れた。俺が好きなままの彼女。
だから、ナギサに彼氏はいない。俺の好きになった人には、そんなものいない。
――だから。つまり、なら、彼女に恋人ができたということこそが、気のせいで幻で夢だったんじゃないか?
本当の彼女と目の前にいる彼女。どちらが俺にとって真実かと問われれば、当然後者に決まっている。じゃあ、ナギサは気のせいでも幻でも夢でもないってことだ。俺にとっては。
ちらりと隣を見る。ナギサは笑っている。俺の隣で、何も変わらず。
なら、いいんじゃないか。問題なんて一つも無い。それに、ナギサは俺の全てなんだ。これくらい許してくれたっていいだろう?
「話すの、楽しいね」
ほら、ナギサだってこう言っている。
――忘れよう。
そう思った。その結論は当たり前のことで、この世の真理で、欠けの無い完璧な名案だった。
そうしよう。こんな愚かで狂った真実は忘れてしまおう。何もかも知らなかったことにして、気付かなかったことにして、明日からもナギサに逢おう。
「っ、は!」
吐き捨てるように嗤う。虚しくて馬鹿らしくてたまらない。これは、何度目の逢瀬なんだろうな?
頭ががんがん痛む。世界がぐらぐら揺れる。全身が沸騰してるみたいに熱い。けれど、恋しいひとに逢える世界だ。なら、することなんてたった一つだろう?
濃密な緑の匂い。やかましいセミ。微笑んでいるような三日月。座っているだけでも汗がにじむ、湿度の高いべたつくような夜。それでも頭上を照らす太陽が無いだけ、いくぶんかマシだった。
――俺は何もなかったように口を開く。
「じゃあ、今日学校であった話でもしようか、ナギサ」
「そうだね、シミズくん」
彼女はいつもの顔で笑う――思わず、吹き出すように笑ってしまった。岩藤ナギサに名前を呼んでもらったことなんて、一度もないから。
それでも胸を高鳴らせた自分が愉快で滑稽だ。何度やり直したって、自分のものになることなんてないのに。自嘲が浮かぶ。愚かしい。馬鹿馬鹿しい。呪わしい……なのに、彼女が愛おしい。
俺は理解する。明日もまた俺は夜を歩くことを。べたりと張り付くこの空気を彷徨うことを。
――なまぬるいまどろみのなかで、もろくうつくしい、ただのゆめにあうために。
おわり
なまぬるいまどろみのなかで 夏秋郁仁 @natuaki01
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