愛徳稲荷社

「『愛徳稲荷社あいとくいなりしゃ』とな。そなたこのやしろの娘であったか。どうりで見事な所作であったことよ」


 アイキノミコトはこじんまりとした鎮守の森とその奥にひっそりと佇む古びた本殿を感慨深げに眺めた。千穂はそんなことはお構いなしに境内にある古民家風の建物に向かった。入り口には『珈琲処』の文字と、ドアの横に『占いします』の立て看板がある。


 アイキノミコトがふと首を傾げた。


「千穂よ、本殿に神々がおられぬようだが、どういうわけじゃ」


 千穂は黙ってドアを開け、アイキノミコトを店内に招き入れた。


「ただいま」


「おかえり〜」


 千穂の挨拶に、中から賑やかな返事があった。その声の主を見てアイキノミコトは腰を抜かした。


「オ、オオモノヌシ殿? ウカノミタマ殿に、コノハナサクヤヒメ殿まで! なんじゃここは!」


 昭和レトロな店内は、思い思いに寛ぐ神々と眷属でごった返していた。彼らは千穂の後ろにアイキノミコトの姿を認めると、一斉に探るような視線を注いだ。千穂はそんな様子は気にも留めず、さっさとカウンターの向こう側に行ってエプロンを掛けた。


「アイキ様、フレンチトーストでいいですか」


 途端に店内がザワザワと騒がしくなった。あちこちから彼の名を囁く声が聞こえ、眷属たちの視線が鋭くなった。中には中腰になって身構える者までいる。アイキノミコトはいたたまれず回れ右をして目を閉じ耳を塞いだ。


 その時、入り口のドアが開いてひとりの男が現れ、アイキノミコトの肩を掴みくるりと反転させて店内に押しやった。


「いらっしゃいませ。カウンターへどうぞ」


 あれよあれよと言う間にアイキノミコトはカウンターの椅子に座らされた。目の前では千穂がパンを切り分けている。


「お父さんも食べる?」


 アイキノミコトの隣に座った男に千穂が声を掛けた。年の頃は四十前後。一見華奢な身体を白いセーターとジーンズで包み、肩まである豊かな髪をオールバックに流している。意志の強そうな眉と黒目がちな瞳が千穂とよく似ているとアイキノミコトは思った。


「いや、俺はいい。代わりにコーヒー頼む」


「てかさ、お父さん知ってたんじゃないの? 先に言っといてよ」


「すまん。昨夜グループメッセが来てたんだが、まさかこんなに早くウチに来ると思わなかったから」


「あのお……」


 ふたりの会話にアイキノミコトが割って入った。


「ああ、失礼しました。私は糺叡智ただすあきら、この神社の宮司をしています」


 叡智は腿に手を置き、礼儀正しく頭を下げた。


「アイキ様のことは承知しております」


「ああ、そうか。どうせ悪い噂であろうが、ワシのしたことを思えば無理もないな。中つ国の神々にも既に伝わっておるようじゃ」


 アイキノミコトはそっと背後の様子を窺い、小さく首を振った。


「なかなかの武勇伝ですからねえ」


「兄上の話を知っておるか? スサノオじゃ。うたことはないのだが昔から憧れの存在での、ほんの少し真似をしてみただけなんじゃよ」


「アマテラス様が岩戸にお隠れにならなくて良かった」


「そう、それそれ! その話は知らなんだから、アメノウズメに聞かされた時は肝を冷やしたぞ。そこでやっと事の重大さに気がついたのだ。何とか挽回して、高天原に戻りたいものじゃ」


 千穂は、天岩戸伝説あまのいわとでんせつを知らない天津神あまつかみとかマジあり得ないと思ったが、この神様ならしょうがないかもと妙に納得した。


「良かったらウチに逗留してください。衣食住のお世話はさせていただきますので」


 叡智の提案に背後から不満の声が上がった。尤も、文句を言っているのは眷属たちで神様方はだんまりを決め込んでいる。評判は悪くても天津神には遠慮があるようだ。千穂もまた苦り切った顔になる。結局、世話をするのは自分だと知っているから。


「それはありがたい。何せ百もの願いを叶えねばならぬのだ。いったいどれ程の時がかかるのか見当もつかぬ」


「それでしたら私どもがサポート致しますので大丈夫ですよ。ただし、あくまでもアイキ様自身が努力なさってください」


「さもなくば願いを叶えたことにはならぬと姉上からもきつく言われたわ。ただ、高天原を出る際に神としての能力は殆ど封じられてしまっての、どうしたものかと途方に暮れておるのだ」


「それはお気の毒に」


「ひとつだけ残して良いといわれたのでの、姿を消せる力を選んだのじゃ。ほれ、どうじゃ、もう見えぬであろう?」


 そう言うと、アイキノミコトはすうっと姿を消してみせた。


「この力があれば人間界でも動きやすいと思っての。どうじゃ、良い判断であろう?」


 満足気に姿を現したアイキノミコトだったが、親子の気の毒そうな表情に気づくと不安げな顔になった。


「何か問題でも……」


「問題というかなんというか……非常に言いづらいのですが、そもそも普通の人間には神や眷属の姿は見えないのですよ」


「な、何を言う。そなたたちにはワシが見えているではないか」


「私達特殊なんです」


 千穂が横合いから割り込んだ。アイキノミコトの顔が驚きから絶望へと移り変わってゆく。


「アマテラス様ったらこうなることわかってたくせに……」


 千穂はこらえきれずプッと吹き出した。叡智も顔を背けて肩を小刻みに揺らしている。


「姉上……」


 アイキノミコトは天を仰いで深いため息をついた。アマテラスの高笑いが聞こえる気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る