ヒラエス

詠三日 海座

『ヒラエス』

 深夜0時の時報の音を聞いて、アマネはふと目を開けた。ゆっくりと夜空を揺蕩う車の中、再び静かに流れ出すラジオが心地よくて、アマネはまた睡魔に誘われようとしていた。


「アマネぇ、寝るなぁ、仕事中だぞ」


 野太くて単調な声とともに、身体が揺すられた。アマネはきまりが悪そうに眉根を寄せて、むくりと身を起こした。


「夜勤って分かってんだから、しっかり寝とけよな」


「すみません、マホロさんの運転気持ちよくて」


 マホロは、おもむろにハンドルから手を離して、煙草に火をつけた。アマネは眼鏡をかけ直すと、助手席の窓を開けて、外の景色を窺った。


「そろそろ街ですね」


「だから起こしたんだろが」


 夜の森の、その上空をぽつんと浮かぶ一台の収集車。誰の肉眼に映ることも無く、ただ夜が更けると、音もなく人々の住む場所を巡る。

 街に近づくにつれ、家の屋根やビルの屋上から、煙のような白いもやがいくつも登っているのが見えた。靄は空高く立ち込め、収集車の人間だけにそれは映る。


「夜中だってのに街は明るいねぇ」


「ヒラエスが見えにくいですね」


 空を浮く収集車が毎夜街に赴いて回収しているのは、人々の身体から煙るこの靄である。靄は壁や屋根を突き抜け、夜空のずっと上を伸びる。

 靄の正体はヒラエスと呼ばれている。人々が失ってしまったもの。帰ることのできない場所。もう二度と取り戻すことのできない時間、思い出、かけがえのないのに形に残らず、いつかその人の中から抜け出ていく忘却の産物である。その人の思い出であるに関わらず、その人が忘れ、失い、行き場をなくしてしまったヒラエスを回収するのが、アマネたちの乗る、収集車の役割である。


「あれから行きましょう、手前の赤い屋根」


「はいよ」


 運転手のマホロが緩やかにハンドルを切り始めた。収集車は森を抜け、未だネオンやLEDの明かりが残る街へ入った。屋根を突き抜けて登る靄のそばへ車を停め、マホロが頷くとアマネが屋根の上へ降りた。アマネが白い靄に手を触れると、アマネの全く見たことのない光景が、アマネの脳裏を駆け巡った。


「……わぁ」


公園、小さい男の子、女の子、また男の子、友達だろう。ダンボールばかりの部屋、引越しのトラック、手を振る少年たち、もう二度と帰れない家、戻れない公園、会えない友達、人々。


 アマネは我に返って、靄を掴んだまま、収集車の後ろまで引っ張った。なんと靄は途切れることなく、柔らかな糸のようにアマネの握る拳に連れられていった。収集車は風を取り込んで、ふわふわと浮かぶヒラエスの靄を吸い込んだ。こうして収集車の中には、多くの人の様々な記憶が詰まっているのだ。

 ヒラエスは、持つ人のかけがえのない遺産である。二度と戻れない哀しみの象徴であり、その人にとってのヒラエスは、失って取り戻せない愛おしいものなのだ。ヒラエスの中には、その人が失った失望感や、もう訪れられない場所の記憶が眠っている。ヒラエスの靄を持つ人は、亡失の虚しさに傷ついた人々なのだ。


「アマネ、行けるかぁ?」


「はい、乗ります」


 ヒラエスを回収することによって、人々の失って憂い悔やむ気持ちが晴れるのかどうかは、アマネたちには分からない。彼らはあくまで主人が忘失して彷徨う記憶を、貰い受けるのが仕事なのである。


「次はあれ行くぞ、あのビルのやつ」


 マホロが顎で、ちょい、と指す先には、ほかの建物よりも頭一つ飛び抜けて高い高層ビルだった。いくつもの階層を突き抜けて、屋上から伸びる靄が3つも窺えた。


「憂い悲しむ人がこんなにもいるってのは、よっぽど世知辛ぇ世の中なんだろうなぁ」


 マホロがぽつりと独りごちた。


「僕らがヒラエスを貰ったら、あの人達ってどうなるんでしょうね」


「どうって?」


「失って辛いことも、綺麗さっぱり忘れられるんでしょうか」


「さぁ? 聞いてみれば?」


「冷たいなぁ」


 アマネは呆れたようにマホロを見やって、狭い車内で器用に伸びをすると、少しラジオの音量を上げた。


「到着だ、それ行ってこい」


 マホロは全く意味のないハザードランプを点灯させた。不意にスピーカーのスイッチを入れると、マイクを左手に、ひとつ咳払いをした。


「こちらは〜ヒラエス回収者で〜す。離別、退去、忘れたもの、失くしたもの、どんなものでも〜回収いたします〜」


 マホロが調子に乗り始めたのをよそに、アマネは屋上に降り立ち、靄のもとへと歩み寄った。1つ目の靄に手が触れた。


レストラン、海遊館、花畑、男性、ベンチ、笑顔、笑顔、手、背中、髪、遠くなっていく、遠くなっていく、歪む視界、さよならの言葉、もう会うことのできない人、愛しい人、いつだってその記憶が着いてまわる様々な場所


一人の男性、微笑み、結婚式場、指輪、生まれたばかりの赤ん坊、鳴き声、癌、病気、疾患、死、別れ、肌の色、鳴き声、が、聞こえない、愛おしい命、出会ったばかりの愛おしい命、もっと長く続くと思っていた時間の喪失、命の喪失


レストランの厨房、ひときわ背の低い年配のシェフの姿、名札、永田、金のバッジ、店のオーナーだった、常にシェフの隣、いつも、何時でも、隣でサポートを、コック服じゃない、私服の永田さん、渡される金のバッジ、コック帽、後ろ姿、譲られる名誉と偉大だったもの、行き場を失った尊敬


「――ネ、アマネぇ」


 マホロがスピーカーで、車内から声をかけていた。アマネは、3本の糸のようにくねくねと曲がる靄を握りながら突っ立っていた。


「大丈夫かぁ?」


「はい、もう慣れてますから」


 アマネは息をつくと、ヒラエスを収集車の後ろへ導いた。マホロは心配そうに窓から半身を乗り出して、その様子を見届けた。


「つってもお前、ぼーっとしてたぜ」


「ちょっと大物ばかりだったので、びっくりしてました」


 マホロは、アマネがよくするにへらっとした作り笑いをまじまじと見つめていた。同じ仕事でも、運転手と作業員で所属が異なるのだ。マホロは、靄を手に取る作業員は皆、アマネのような無理した作り笑いをするのだろうと思っていた。


「お前みたいのがいっぱいいて溜まるかよ」


 マホロは向き直るとスピーカーの電源を切って、ぽつりとぼやいた。ハザードランプを消して、アマネが乗り込んですぐに車を発車させた。


「大変な仕事だろうがよ、無理するんじゃねぇぞ、気分悪ぃから」


 マホロはぶすっと前を見たまま、横手に缶コーヒーを投げた。アマネは案の定取り損ねて、投げないでくださいよぉ、と足元に身を屈めた。


「別に辛くはないんですよ、僕」


 アマネは身を起こして、歪んだ眼鏡をかけ直した。マホロはちらりとアマネの表情を見る。


「僕らって、ここの人達の失くしたものをいっぱい見てきてますけど、失ってしまうようなものがあるってこととか、それがなくて淋しい、悔しい、哀しいって思えるほど大好きなものって、僕らにはあんまりないなぁって。羨ましくなっちゃうんですよ」


「あぁ〜、それは俺も思うなぁ」


「そりゃたまにきつい記憶もありますけど、そんなに大事だったんだなぁって。そんな貴重なものを貰い受けるこの仕事を、僕は誇りに思ってます」


「けへへへへへっ!」


 マホロは笑いだした。大笑いのあまり、車体がぐにゃぐにゃと進路を逸れる。


「誇りか? ヒラエス回収だぜぇ? 大事だと思ってても忘れちまうものとか、忘れようとしてるもの片付けをするだけだぜぇ? まんまゴミ回収みてぇなもんだ」


「ゴミなんかじゃないですよぉ。マホロさんも記憶を一度見れば分かりますよ」


「御免だねぇ」


 収集車はゆっくりと高度を下げて、今度は小さな民家の屋根へ向かい始めた。


「俺がお前に毎日奢ってるその缶コーヒーも、やらなくなったらヒラエスになるのかも知れねぇな」


 マホロが両手を離して煙草に火をつけた。


「僕にとっては至福の1杯ですからね」


 マホロは、けけっと歯を見せた。


「着いたぞ。ちまちま飲んでねぇで、早く行け」


 冬の夜空に浮かぶ月は高く、見上げるとヒラエスの靄が、月に向かって一直線に月に伸びているようにも見えた。

 いつかこの靄を全部取り尽くしてしまえば、この世界に住まう人々が見ているように、まっさらな常闇に、ただ紅一点と輝く月の姿が眺められるのだろうか。アマネはそんなことを考えながら、おもむろに眼鏡に手をやって、歪んでもないフレームをかけ直した。

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ヒラエス 詠三日 海座 @Suirigu-u

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