五、

07.かつて抱いた感情が消えてゆく

 葉の先から落ちる雫に爪先を洗われて、ゆりはぼんやりと細い雨を眺めた。久し振りの雨に、コンクリートは急激に冷やされて、むっとした湿気が淀んでいる。

 あたしは一体誰なんだ、今のあたしは――

 花壇の縁に置いたままのMDを見下ろす。電池は二日前に切れたままだが、持ってきたCDもMDも、皆聴き飽きてしまった。ライブに熱狂したのが、つい一週間前とは思えないほど今は何も感じない。

(あの二人を、オニにするんじゃなかったな)

 普通の人ならば、こんなふうに終わってしまうこともなかったろうと、思い返す。

「ねえ、夜響やきょうと一緒にいた子だよねえ?」

 ライブ終了直後の雑踏の中、未だ冷めやらぬ熱気と耳鳴りの向こうから、二人連れの少女に声をかけられた。リメイク風のTシャツに缶バッジをたくさんつけ、黒のプリーツスカートの下に、レース生地のスパッツを履いている。ゆりが小さくうなずくと、彼女とその連れは、わっと沸いた。夜響は近頃、ちょっとしたブームを起こしている。一緒にテレビに映ったゆりを、彼女は覚えていたのだろう。だが夜響を思いだしたせいで、胸の中からわき出た不快の芽には、気付くはずもない。

「ねえ、どうやってオニと知り合ったの」

 最初の少女がせき込み尋ねると同時に、

「あなたもオニなの?」

 と、長身の少女が畳みかける。すらりとした体躯と涼しげな雰囲気、黒で統一した服装は、遥に似ていなくもないが、大胆に切り込んだスリットに、安全ピンを並べて止めたロングスカートなど、遥は絶対に履かないだろう。ゆりが出会ってからの遥は、いつもTシャツにジーパンスタイルだ。

「おなかすいてない? どっかで落ち着いて話したいな」

 小さい方の少女――みゆきの提案に従って、ゆりは辺りをくるくる見回しながら、二人のあとについていった。どんな店につれてゆかれるのだろう、とわくわくしていたら、日本全国どこにでもあるファーストフード店で、安堵と落胆がごちゃ混ぜになった。

 フライドポテトをつまみながら、ゆりの話を聞いていたみゆきは聞き終わるや否や、

「あたしもオニになってみたい!」

 と身を乗り出した。

「どんな感じ」

「楽しいよ」

 真由まゆと名乗ったもうひとりの少女に尋ねられて、ゆりは答える。「あたしは一度死んだんだ。復讐を夢見ながらも、そんな力はなかったから。怒りは生きる力だったけれど、それも足りないほど、毎日は地獄だったの。あまりに真っ暗で『死』以外の逃げ道なんて見えなかったんだ」

「じゃあ、オニになったら、生きる力が湧いてきた?」

「新興宗教の勧誘みたいだね」

 真由がにやりとする。

「生きる力をくれたのはアイちゃんだ。夜響は恐れぬ力をくれた」

「怖いものがなくなったら、楽しいよねえ」

 みゆきに相槌を求められて、真由も、ね、と声をそろえた。

「ライブすごかったね」

 ゆりは話を変える。今までずっと、同じ趣味を持つ人と語り合いたかった。「震えちゃったよ。全てこのまんまでいい、ありのまま叫んでいいって認められた感じ。あたしの呼吸できる世界もあったんだって気がする」

 真由がうなずいた。

「ようやく出会えたって思うんだよね。物心ついたときから抱えてるのに、ずっといけないと思って消そうとしてきた染みが、魅惑的なものになってBraking Jamの中にあるんだよ」

「あたし、ああなりたい」

 夢心地のまま、ゆりは呟いた。瞼の裏には、未だまぶしい残像がはりつき、耳の奥では歓声と轟音が入り乱れている。「きっと気持ちいいよ」

「ね」

 と声をそろえながらも、あきらめの笑みを浮かべる二人に、ゆりはひそかに舌打ちした。だがすぐに、そうだ、と、目を輝かせ、

「今、ここで、オニにしてあげる」

「出来るの?」

「夜響に出来ることが、あたしに出来ない道理はない」

 宣言して、みゆきの額に指を当て、指先に神経を集中させた。

(そうしてあたしは二人をオニにしたんだ)

 記憶は今や、苦い悔恨に染まっている。オニにすることが出来るなら、その邪気を吸い取る方もあろうが、ゆりはまだそれを知らない。知るのは、ゆり自身がオニでなくなるときだろう。例え夜響に力を吸い取られなくとも、ゆりをオニにした夜響が力を失えば、同時にゆりも人に戻ってしまう。

「これで二人とも夜響の仲間入り。もうさっきまでとは違うんだよ」

 どこも変わったふうのなかった二人が、ゆりの言葉を聞いた途端、その目にぎらぎらとした輝きを見せた。

「変化を望めばいくらでも進める。なんだって出来るようになったんだ」

 ゆりの言葉は確信に満ちていたから。

「ねえ真由、もう一度やってみたら? 今度はそんなふうにはなんないよ」

 みゆきが唐突に真由を誘い、彼女はゆっくりとうなずいた。「問題は向こうにあったんだもんな。もうバンド組まないなんて宣言すんの馬鹿らしいよな」

 結局詳細は聞かず仕舞いになってしまったが、音楽の問題、創作の問題が、人間関係の問題に発展して、彼女が大切なものを失い、それが間接的に高校をやめるきっかけにつながっていることを、ゆりはやがて知った。

 ――あたしアイちゃんになりたい――

 ゆりのその一言から、Braking Jamのコピーバンドをやろう、という話になり、高校の軽音楽部でベースをやっているみゆきが、足りないメンバーは部活から引っ張ってくると言い、ゆりも歌と共にギターのコードを覚えることにした。きらびやかなメイクとファッションで、ギターを弾きながら歌うアイの姿は、憧れと青春の象徴だ。

 真由は、言葉はきついが世話好きの仕切り屋で、好意を喜んで受ける限り、非常に気前が良く、ゆりは高円寺のアパートに居候した。きらめく非日常は三日ほどしか続かなかったけれど。真由が週に数日、夕方六時頃から夜中まで働く店に、二時間ほど体験入店したり、貯金を全部下ろして三人で原宿へ行ったり、真由が自由に使いな、と言った化粧台で試し放題したり。鏡を覗き込み、ひとつひとつ色を重ねれば、ひとつひとつコンプレックスが消えてゆく。美しくなるのは、仮面をつけることじゃない、嘘で着飾ることじゃない、満足ゆく振る舞いが出来るため。自信が、恐れぬ心をくれる。

 だけど真夜中ふいに、胸を掻きむしる焦燥に襲われる。何も出来ないんじゃないか、何にもなれないんじゃないか、ならばいっそ、復讐のやいばに身を染めて、血と共に果てたほうがずっとマシ。ほら、立ち上がれよ。夢なんか叶わないよ。やいばを握るほうがず~っと楽さ。

 死をみつめてから、今生きている価値があるのか、常に自問するようになった。無いなら死ね、と命ずる声から逃れるには、復讐しかないのだろうか。

 隣で横になっている真由の寝息が遠ざかり、代わりに淀んだ教室の風景が浮かぶ。息が出来ない。窓際の席、ひとり空を見上げるあたしは、クラスメイトのひそひそ声に耳をそばだて、わっとあがる笑い声を嘲笑とおののく。机の横を人が通れば、ばい菌に触れぬよう避けたと思う。助けて、そんなこと考えたくないのに。誰も見ていなくても、突き刺さる百万の視線に引き裂かれる。あたしの背中には、醜い顔がついてるんだ。姿を消せる魔法が欲しい。今日は一日何も起こりませんように、そればかり祈っている、みじめな後ろ姿が、ありありと浮かんでいる。

「見たくもない」

 ゆりは呟く。低い声で。「もう今のあたしには関係ない。消えて」

 願った、強く願った。

 そして願いは、少しずつ叶っていった。自分を嫌悪するたび変わってく、どくんどくんと波打って。

 だけど消えていったものは、あまりに大きい。今はもう、Braking Jamに憧れもしない。だからもう、音楽やる必要もない、別のものになりたいとも、前に進まなくちゃとも、思わないから。

(これが、自分に満足するってこと?)

 ゆりはすぐに首を振る。(ライブ行った日だって、三人で買い物した日だって、百パーセント満足してた)

 それでも百二十パーセントを望んだ。みじめな記憶から抜け出すために。

 だが過去が、他人の記憶のように遠のいてしまった今、復讐も望まない代わりに、あの焦燥も消えた。どうしても見返してやんなきゃ、だから何かにならなけりゃ、なんてぇ論理の根底が消えて、全ての行動の理由が消滅したんだ。コンプレックスや、学校での屈辱と共に、夢と野望も消えちまった。

 あたしは一体誰だ? 今のあたしは一体……

 変わっていったのはゆりだけではない、みゆきが部活からギターの子など連れてくる前に、バンドは崩壊した。

 真由は自分の刻むリズムが、世界を支配すると信じた。ついてゆけずにゆりは、ついにマイクから手を離す。

「真由、またリズム違う。どんどん早くなってるんだってば」

 態度だけでそれを示すゆりの代わりに、みゆきが同じ注意を繰り返す。五、六回、同じ曲で同じことを言われて、真由はステッキを床に投げつけた。「リズムはドラムが作んだよ! お前らがもっと練習すればついて来られるんだ!」

 譜面のコピーと鞄をひっつかみ、ずんずんとドアに向かう。厚い防音扉を手荒に開けて、

「やってられっかよ、お前らなんかと」

 捨て台詞を残して、貸しスタジオの廊下の向こうへ消えた。

 みゆきは溜め息をついて哀しげに笑う。「あいつは、昔からああだったんだ。前のメンバーも言ってたよ。自信が実力に追いつかないってね」

 ゆりは何も答えなかった。ただ疲れきって、腕をだらんと下げて立ち尽くしていた。

 だが決して、みゆきがまともだったわけじゃあない。無邪気な笑顔のままで、学校爆破計画を打ち明けた。ゆりはいつも通り無口なまま、賛成も反対もしなかったけれど。

 ――オニになるための力は、もとから人の中に存在してる――

 夜響の言葉を思い出す。

 ――自分を憎む心、それが呪いになるんだよ――

 だから誰でも、オニになれる。なってしまう。街を行き交う人たち、楽しげな笑顔、だけど皆、心の奥に闇を抱えているんだ。

 あまりに自己中心的な真由に辟易へきえきして、ゆりは高円寺のアパートを飛び出し、今、表参道の花壇に腰掛け、雨をみつめている。夜響は無敵にも思えたけれど、真由を見てオニの弱点を知った。自信過剰――そのお陰で何物も恐れぬけれど、その本質はあまりにもろい。

(なんか楽しいことないかな)

 何もしたいと思わないのに刺激だけは欲しい。刺激と快楽と無意味な笑い声。

 最後に見たみゆきは、まるで別人のように派手な笑い声をあげていた。彼女の足もとには、猫の死体があった。

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