21.目をつぶったまま闇の中、歩いてゆく

 結局――

 七里ななさとまで帰ってきてしまった。あとはもう、この小さな決意が揺らがぬうちに、自宅の玄関前から飛び降りるしかない。八階に住み、いつでも死ねるんだという安心感でここまで生きてきたが。電車の中で書き上げた遺書は、通学鞄の中に入っている。級友たちへの恨み辛みより、Braking《ブレイキング》 Jam《ジャム》の詩の引用のほうが長い。作文は昔から苦手だったから、自分の言葉ではうまく説明できないことが多すぎる。それをアイは、ぴったりと言い表してくれる。

 マンションの外廊下、手摺りをまたいで見下ろせば、くらりとする。ウォークマンは鞄の中、ここはもう夢の原宿ではないし、そんな気分づくりをしても、さっきは結局吹っ切れなかった。今はもう死ぬことだけが、最後の目標だ。

 ゆりは大きく息を吸い、倒れ込むように飛び降りる。足がコンクリートを離れ、宙に放り出された。体が風を切る――もなく、くいっと背中に引力を感じ、恐ろしい高さのまま宙吊りになった。夕方の風にあおられて、紐の先の五円玉みたいに揺れている。下を見ると目眩がして、手足が震えだした。冷や汗をかいた首筋を風が撫でる。

「おー、釣れた釣れた。大漁じゃあ!」

 調子っぱずれな聞き覚えある声に、恐る恐る振り返れば、制服の襟に金具がひょいと引っかかっているのみ、金具の先は今にも切れそうな紐で、屋上に座るオニの手元まで延びている。

「オニ、なんとかしてよこれ!」

 叫んでも、震えてかすれて声にならない。

「あれ。またあんたか。なんだってそんなところから飛び降りるんだよ。やっぱり自殺志望者?」

 と、含み笑い。

「違うってば! なんでもいいから助けてよ!」

 恐怖に泣き出すと、オニは釣り竿の手元をくるくると回して引き上げた。屋上に両手をついて、ゆりは肩で息をする。「死ぬかと思った。ほんと何すんだよ、オニ、馬鹿」

 涙をため、あえぐゆりの髪をつかみあげ、オニは無理矢理自分のほうへ顔を向かせた。

「オニと呼ぶな。夜響やきょうだ」

 と目を据える。

「知ってるよ、夜響」

 名を呼ばれて、ちょっと嬉しそうにする。「空でも飛ぼうと思ったのか?」

「うん。夕空へ身を躍らせれば、全ての価値観から解放されると思ったんだ」

 鼻をつき合わせたまま、ゆりは答える。夜響はつかんだままのゆりの髪をくい、と引っ張って、

「夜響が解放してあげる」

 もう一方の手で、ゆりの肩にそっと触れる。

「助けてくれるの?」

「あんたが夜響に恋する限り、ね」

「恋って―― あんた女の子でしょ」

「違う」

 言葉と同時に、ゆりは押し倒された。マンションの屋根は下り坂のうえ手摺てすりもない。頭は空に放り出され、長い黒髪が夕焼け空に揺れる。今の恐怖を思い出して再び震え出すゆりを、夜響はじっとのぞきこむ。「男も女もない。夜響はただ、夜響というだけだ。ねえ、自由って言葉の意味を知ってる?」

「――ハンディも性も美醜も乗り越えたなら、神にも悪魔にもなれる――」

 それはやはり、アイの歌った詩だ。

「合格」

 夜響はちょいとウインクした。「あんたをオニにしてやろう」

 なれるの、と勢い込んで起きあがるゆりの額に、夜響は指二本を当てる。「夜響を想っていてくれるか?」

 血のように赤い瞳が、不安そうにゆらいでいる。

(この人は、あたしと同じようにひとりぼっちだったんだ)

 人は誰でも一人きり自分と向き合うものだと分かっていても、居場所と呼べる何かが欲しかった。本当のあたしを認めてくれる価値観、というものが支配するどこかへ、行きたかった。学校の中でほとんどの生徒が、何らかの価値観に裏付けられているように。

「うん」

 ゆりはしっかりとうなずいた。夜響はちょっと笑ってうなずき返すと、そっとまぶたを閉じて、わずかに眉根を寄せた。心をひとつにまとめる。目を閉じると、まぶたの上にきつく引かれた紅いラインがあらわになる。

 ゆりも目を閉じた。額から頭が強い光を浴びたようにあつくなり、その熱情にも似た熱が、体全体にじわじわと浸透してゆく。手足の先から震えが走り、泣き出したいほどの衝撃が胸を突いた。体の底から、たくさんの叫び声がこみあげる。

 しばらくして、ゆりは辺りが静かなことに気が付いた。そっと目を開けると、夜響は病気の母を見守る幼子おさなごのような瞳でのぞき込んでいる。まじまじと見下ろした両手は、夜響のように青白くもなく、何も変わっていない。

「姿は変わらないの?」

「別に。望まなきゃそのままさ」

「夜響は望んだ?」

「こんな姿のしゅはいない」

 にやりとして、ゆりの頬から顎へ指をすべらせた。「あんたは今のままでかわいいぜ。その姿のまま、夜響に恋をしてるところが見たい」

 ゆりはぷっと吹き出して、わくわくしながら夜響に寄りかかってみる。

「あんたも星を釣りな。今日の夕飯だ」

 口ほどにもなくシャイなのか、無表情を作ってそっけなく釣り竿を手渡した。

「星を?」

 頓狂な声を上げるゆりに、自分の竿を振り上げ、

「そう、こんなふうに」

 竿の先の金具が夜空に高く跳ね上がり、その瞬間頭上で何かがきらめいた。

「ほうらかかった」

 手元をくるくる回せば紐に引き寄せられて、金具の先には絵に描いたような五芒星、ぺかぺかと金色に輝いている。

「それ食べられるの?」

「勿論!」

 景気よく返事して、また釣り竿を放りあげる。

「毎日こうやって暮らすの?」

「泊まる家はあったけど――」

 言い淀み、思い詰めたように竿の先をみつめる。目に浮かぶのは鉄の扉、家を追われた夜響の前に、無情に立ちはだかった。

 不思議そうに眺めるゆりに気付いて振り返り、「こんなふうに過ごすのは嫌か?」

 ゆりは首を振る。「大好きな曲と夜響がいれば、怖いものなんてない」あ、と手を叩いて、「荷物取りに戻っていい? 音楽がないと、あたし生きてゆけないんだ。それに――」

 置きっぱなしの鞄に入れたままの遺書を見たら、母はどう思うだろう。

「そんなこと全て、今に考えなくなるさ」

「え、親のこと?」

「だけじゃなく」

 はっとしてゆりは、吊り竿をみつめる表情のない横顔をにらみつけた。「あたしはずうっと、Braking Jamのファンだよ!」

 夜響は何も言わず、空を見上げる。漆黒の夜空の所々に、灰色の雲が浮かび出した。

「曇ってきやがった、折角の夜に。闇がくすんじまう」

 舌打ちして引いた竿の先には灰色の雲、むっとして片目を細める。「ま、ちょうどいいか。こいつに乗っていきな」

 ゆりは瞠目する。もくもくと表情変える雲へ、恐る恐る足を伸ばせば、それはやさしく足の裏を受け止めた。雲は沈み込むように降下し、ゆりは八階の手摺りに飛び移った。通学鞄は思い詰めていたさっきのまま、足下あしもとに転がっている。もう家に戻らぬならあれもこれも持ち出そうと、一旦部屋に戻った。

 むっとした空気が立ちこめる見慣れたダイニングキッチンは、既に懐かしい。去年の夏から出しっぱなしの扇風機も、年末に商店街でもらった壁のカレンダーも、冷蔵庫の扉に所狭しとくっついたマグネットも。部屋の電気をつけて、テーブルの上に置かれた一枚の紙に気がついた。一歩あとずさり、それから慌てて手に取った。やはり、母の置き手紙だった。

〈百合子、おかえりなさい。

 今日は仕事で遅くなります。先にお風呂に入って、冷蔵庫にあじの開きがあるので焼いて食べててね。

 あなたのこと、とても心配しましたよ。けれどどうしても仕事が休めなくて。ごめんなさいね。なるべく早く帰ります。母より〉

 どうしよう、とゆりは立ちすくむ。胸の奥に、ずんと痛みが走る。

(お母さんは毎日、あたしが帰ってきたらって考えて、手紙を書いていたのかな)

 母が恋しい一方で、十六年間いましめてきた鎖から解き放たれたい。

 それを断ち切るのは自分しかない。

 その声は、本当にゆりの心から聞こえたものだったろうか。屋上で待つ夜響の陰が、ゆりの頭を占領してゆく。

(オニになるってこういうこと?)

 思ったときには、不自然な高揚感が、浮かんだ涙を吹き消していた。

 ゆりはふいと自分の部屋に戻って着替え出す。遺書は破り捨てる。苺柄の大きな袋に、CDとMDとウォークマン、小遣いをはたいて買った大好きなブランド「B.B.Girlz」の服、お金と通帳、家にあったお菓子全部をつめこんで、一旦は家を出たものの、急げ急げと叫ぶ声になんとかあらがい、もう一度ダイニングに戻る。

〈私もなるべく早く帰ります。Yuri〉

 母の手紙の下に小さな字で書き足して、家の匂いを振り切って夏の夜空の下へと駆け出した。

 屋上では夜響が起こした火の周りに、棒に刺した星を並べていい匂いをさせている。香ばしくてこってりとしていて、甘みを含んだ実に食欲を誘う匂い。星はひとつひとつ味が違い、しかも雲から絞り出したジュースは、今までに飲んだことないすがすがしい香りとさわやかな甘み。

 夜響はゆりのウォークマンから無造作にイヤホンを抜き取ると、「再生」を押す。

「そんなことしても聴けないって」

 ゆりが言い終わらぬうちに、スピーカーもないのに「蟲」が流れ出す。

「うそ……」

 思わず竹串を取り落とすゆりに、

「夜響はオニだよ」

 と、いたずらっぽく笑う。

〈いつまでこんなこと続けるつもりって

 心臓の壁 誰かが内側から叩いてる〉

 今日何度も聞いたメロディーが流れ出す。

「続けても意味ないかな」

 夜響がぽつんと呟く。え、と聞き返しても答えない。

「ねえ夜響、夜響は何でも出来るの?」

「オニになれば、なんだって出来る。月にも飛べるし、星のバーベキューも食べられる。誰かの頭を攪乱かくらんすることも、みんなの心を自由に宇宙まで飛ばすことも。世界を救うも壊すも夜響の思いのままさ」

「じゃあ――」ゆりは膝を乗り出して、「Braking Jamのライブに行きたい! もうチケット売り切れちゃったんだけど。――出来る?」

 夜響は無言のまま、夜空に右手を突き上げた。何かをつかみ取るようにして、手の中のものをゆりに差し出す。「これでいいか?」

「うわぁ! すごい」

「せーっかくオニになったのに、この世界で遊ぶことないじゃんか」

「どうして? でも夜響も行くんでしょ」

 と、二枚のチケットをひらひらさせる。

「だって興味あるもん」

 ゆりは嬉しくなって、

「一緒に行こうねーっ」

 と、腕を絡めた。すぐ「一緒に」などというクラスの子たちをずっと軽蔑していたが、本当は言ってみたかった。

「ねえ夜響、本当は――」

 言いかけて口ごもるが、さっきと同じ種の高揚感が現れて、ゆりを大胆にした。

「本当は、あたしを助けるためにここまで来てくれたの?」

「まさか」

 ぶっきらぼうな声出して、夜響はごろんと横になり、ついとあらぬ方を向いてしまった。ゆりはぺろりと舌を出し、隣に寝そべり空を見上げる。屋根は丁度いい勾配で、頭の下に腕を組んでアイの歌声を聞いていると、心に初夏の風が舞い込むようだ。

〈何とかしなきゃ

 あの子が死んじゃう前に

 アタシがアタシでいられるうちに

 苦しめてるのも阻んでるのも このアタシ

 やめたいなら今 やめられるわ

 目をつぶったままでも 闇の中 歩いてゆく暗い情熱 

 確かにこの胸にある〉

「いい詞だな」

 夜響がぽつんと呟いた。「目をつぶったまま闇の中、歩いてゆく、か」

 ゆりの体がどくんと波立つ。そう、聞き慣れた言葉、でも今日は一度も耳に入らなかった。あんなに何回も、繰り返し聞きながら。

(あたし、アイちゃんの言葉も聞こえなくなってたんだ…… アイちゃんが伝えようとした意味も、分からぬままで)

 泣き出したくなる。

(ごめん、ごめんね、アイちゃん)

 曲の終わりまで静かに続く不安なギターの音が途絶えると、ゆりは起きあがって「一曲ワン繰り《リピ》返し《ート》」を解除した。調子を変えて、明るい曲が流れ出す。アイのキュートな歌声を聴いているだけで元気になれる。

 夜響は足の先で釣り竿をうまく扱い、小さな雲をふたつ引っ張ってきた。ひとつを頭の下に、もうひとつをゆりのほうへ押しやると、ぷわぷわ漂い、ゆりの鼻先に浮かんだ。ひょいと掴んで夜響のまねして枕にする。水の羽は空気より軽く、首と頭を涼やかに包み込んだ。

 音楽が終わる頃には、風も随分冷たくなっていた。並んだふたりは、夜響が空から出した馬鹿でかい掻巻かいまきをおなかにかけて、空を見上げていた。月と星と共に過ごす夕べほど、贅沢なものはない。

「きみは、誰なの」

 ささやくように、ゆりは問う。隣から答えはないけれど、構わない。鏡へ向かうように、言葉を紡ぐ。

「何を思っていたの――何を願ったの」

 心と対話するよう。夜響はもう、眠ってしまったのだろうか。

「――どこへ…… ゆくの――」

 そっと、まぶたをおろす。目を閉じれば、幾千幾万の星が舞い降りる。願いは、叶うのだ。夜のただ中で、そっと目を閉じれば――

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