19.毎日飲み続ける日常という名の毒

 ゆりが初めて夜響を見たのは、先週の金曜日、通勤ラッシュで混みあう朝の乗換駅だった。一斉にホームへ吐き出される人混みの中に、ゆりもいた。人波に押されてエスカレーターに乗る。

〈三番線に大宮行きが到着します。白線の内側まで下がってお待ち下さい〉

 向かいのホームに入る電車を振り返り、ゆりは帰りたい、と思う。後ろ髪を引かれる思いとは関係なく、エスカレーターは下りてゆくはずだった。だが急に、がたんと大きな音を立てて止まり、後ろへ上りだしたのだ。ホームは大混乱、輝くゆりの目に映るのは、宙に浮くオニの姿、テレビで見た通りの白い単衣ひとえに、今日は目にも鮮やかな緋色の帯を、前で大きく蝶々結び、扇子で口元隠し、腰を折ってけらけら笑う意地悪にひきかえ、裾からのぞく紅い鼻緒は小花のよう。

 エスカレーター止めるべく、駆けつける駅員も、朝一番のラッシュ時に加えて、オニ騒ぎに騒然となる人々に遮られ、そうそう近付けない。さっきまで登りだった横のエスカレーターも、今はなんの不思議もなく下りに変じている。ゆりは人波に逆らわずそちらに乗り換えるが、再びがたんと揺れて、元通りの上りに戻ってしまった。

 益々大笑いする夜響やきょう、腹を抱えてさもおかしそうに、足をぱたぱた振りながら白い髪を振り乱す。憤慨する人々の熱気に包まれ、ゆりは一人、震える横隔膜を必死で押さえる。おかしくってたまらない。学校へなんか辿り着きたくないし、家へも一生帰らなくったっていい。学校には、あからさまに無視したり、さりげなく侮蔑したり、趣味の悪いからかいを楽しむ人々がいて、家には、数学は大丈夫? 塾の宿題はやっている? と勉強の話ばかりする母がいる。時には、高校は楽しいの? と恐ろしいことを尋ねる。塾ではペアで授業を受けるその相手がよくしゃべるうるさい中学生で、若い講師は彼女とばかり親しげで自分には丁寧語を使うのだから、その冷たさに腹が立つ。ひとり置いてゆかれたくなくて、これ以上みじめになりたくなくて個別指導を選んだのに、結局「嫌な世界」がまたひとつ増えただけだった。

 ああつまり、どこでもあたしはつまんない人間なのね、と卑屈になるのを引き上げようにも、怒りが頭を噛み潰す。憎いのはあいつらなのに、あたしが悪いの? と、世界と自分の命を天秤に乗せる。――破壊すべきはどちらかしら―― あたしは黒衣の天使、この杖の一突きで、どちらかを無にせるの。

 単元の最初は分かるのに、数学の授業は次第に暗号化する。同じ教室で同じように授業を受けているのに、と焦燥の棘が背中を引っ掻く。一目見て解けない問題を、馬鹿を悟られぬために考える振りをする。皆が当たり前に出来ることを、自分だけが出来ない。勉強だけじゃない、学校で測られる全能力に於いて、失格の烙印を押されている。勉強の苦手な子はいるけれど、走るのが早かったり、人目を引くほどかわいかったり、一歩進んだファッションを取り入れていたり、目立たない子でも、クラスの皆から慕われていたりする。だが自分には、それら全てが欠けている。様々な尺度が用意されているのに、その全てに失格するなど、人としての価値を、全人格を否定されたようだ。

 行き場がない。唯一心が安まるのは、四十分の通学時間、だが移動する車内は「居場所」にはなってくれない。行き場がみつからないのは、あたしが必要ない人間だからなんだ、そんな思いを抱えて、その日も高校へ通った。オニはしかめつらした駅員に追い立てられ、くすくす笑いながら朝の空に消えていった。

 だが一度心に棲みついた小さな虫は、芽生えたうずうずの種みたいに、暗い衝動でゆりを突き動かした。あの、オニの姿が頭から離れない。自由に空を飛び、街に悪戯いたずらを振りまき、笑い転げる、全てから解放された姿がうらめしい。自由になりたくて繰り返す「死」の想像だけが安らぎをくれる。また「無」に戻るのだ。生まれた場所に帰るのなら、痛みも苦しみも怖くはない。

話に花を咲かせる級友たちは、横を通るとすっと黙り、すり抜けると後ろから忍び笑い、気付かない振りをして、教科書を脇に抱えて地学室へ急ぐ。こんな日は今日で終わらせたい。何も今すぐ自宅の前から飛び降りようと言うんじゃない。

(彼女だってそこまで要求しやしない)

 虚しさと悔しさを引き剥がそうと、小声で歌を口ずさむ。

〈いつまでこんなこと続けるつもりって

 心臓の壁 誰かが内側から叩いてる

 たった一度きりの人生君はどうすごす なんて 洒落しゃれたつもりの歌の文句

 分かってるけどね 言われなくても〉

 大好きなBraking Jamの「むし」という曲。

〈誰にもみつからないように

 体の中にこっそり飼ってる小さな虫

 夜中だけそっと 手のひらに出してあげる

 大きな耳に小さな牙をのぞかせて 幼い少女の姿をしているの〉

 ささやくピアノ伴奏に、アイの静かな声が響く。それが、中盤から入るドラムの音と共に、調子を変え――

〈今日も彼女は叫ぶ

 のどがかわいた のどがかわいた

 分かってるよ

 アタシだって苦しい〉

 背中に大きな蜘蛛をはりつかせ、その上から杭を打ち付けられ、針の道を裸足で歩くアイを映した、ジャケット写真を思い出す。

 頭の中で、アイはなおも叫ぶ。

〈「しちゃいけない 頑張らなくちゃ」

 アタシの大切な虫が また悲鳴あげる

 人の期待にこたえるため

 面倒起こさぬため

 アタシは日々努力を重ねる

 多大な努力を以て毒を飲み続ける〉

 アイは、いつものあの射るような――だけど、ゆりにとってはとても魅惑的な視線で、振り返っている。きゅっと結んだ口元にだけ、幼さが漂う。暗いバックにほかのメンバーが、狂おしい咆吼を響かせ、闇に埋もれるように写っていた。

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