19.毎日飲み続ける日常という名の毒
ゆりが初めて夜響を見たのは、先週の金曜日、通勤ラッシュで混みあう朝の乗換駅だった。一斉にホームへ吐き出される人混みの中に、ゆりもいた。人波に押されてエスカレーターに乗る。
〈三番線に大宮行きが到着します。白線の内側まで下がってお待ち下さい〉
向かいのホームに入る電車を振り返り、ゆりは帰りたい、と思う。後ろ髪を引かれる思いとは関係なく、エスカレーターは下りてゆくはずだった。だが急に、がたんと大きな音を立てて止まり、後ろへ上りだしたのだ。ホームは大混乱、輝くゆりの目に映るのは、宙に浮くオニの姿、テレビで見た通りの白い
エスカレーター止めるべく、駆けつける駅員も、朝一番のラッシュ時に加えて、オニ騒ぎに騒然となる人々に遮られ、そうそう近付けない。さっきまで登りだった横のエスカレーターも、今はなんの不思議もなく下りに変じている。ゆりは人波に逆らわずそちらに乗り換えるが、再びがたんと揺れて、元通りの上りに戻ってしまった。
益々大笑いする
ああつまり、どこでもあたしはつまんない人間なのね、と卑屈になるのを引き上げようにも、怒りが頭を噛み潰す。憎いのはあいつらなのに、あたしが悪いの? と、世界と自分の命を天秤に乗せる。――破壊すべきはどちらかしら―― あたしは黒衣の天使、この杖の一突きで、どちらかを無に
単元の最初は分かるのに、数学の授業は次第に暗号化する。同じ教室で同じように授業を受けているのに、と焦燥の棘が背中を引っ掻く。一目見て解けない問題を、馬鹿を悟られぬために考える振りをする。皆が当たり前に出来ることを、自分だけが出来ない。勉強だけじゃない、学校で測られる全能力に於いて、失格の烙印を押されている。勉強の苦手な子はいるけれど、走るのが早かったり、人目を引くほどかわいかったり、一歩進んだファッションを取り入れていたり、目立たない子でも、クラスの皆から慕われていたりする。だが自分には、それら全てが欠けている。様々な尺度が用意されているのに、その全てに失格するなど、人としての価値を、全人格を否定されたようだ。
行き場がない。唯一心が安まるのは、四十分の通学時間、だが移動する車内は「居場所」にはなってくれない。行き場がみつからないのは、あたしが必要ない人間だからなんだ、そんな思いを抱えて、その日も高校へ通った。オニはしかめつらした駅員に追い立てられ、くすくす笑いながら朝の空に消えていった。
だが一度心に棲みついた小さな虫は、芽生えたうずうずの種みたいに、暗い衝動でゆりを突き動かした。あの、オニの姿が頭から離れない。自由に空を飛び、街に
話に花を咲かせる級友たちは、横を通るとすっと黙り、すり抜けると後ろから忍び笑い、気付かない振りをして、教科書を脇に抱えて地学室へ急ぐ。こんな日は今日で終わらせたい。何も今すぐ自宅の前から飛び降りようと言うんじゃない。
(彼女だってそこまで要求しやしない)
虚しさと悔しさを引き剥がそうと、小声で歌を口ずさむ。
〈いつまでこんなこと続けるつもりって
心臓の壁 誰かが内側から叩いてる
たった一度きりの人生君はどうすごす なんて
分かってるけどね 言われなくても〉
大好きなBraking Jamの「
〈誰にもみつからないように
体の中にこっそり飼ってる小さな虫
夜中だけそっと 手のひらに出してあげる
大きな耳に小さな牙をのぞかせて 幼い少女の姿をしているの〉
ささやくピアノ伴奏に、アイの静かな声が響く。それが、中盤から入るドラムの音と共に、調子を変え――
〈今日も彼女は叫ぶ
のどがかわいた のどがかわいた
分かってるよ
アタシだって苦しい〉
背中に大きな蜘蛛をはりつかせ、その上から杭を打ち付けられ、針の道を裸足で歩くアイを映した、ジャケット写真を思い出す。
頭の中で、アイはなおも叫ぶ。
〈「しちゃいけない 頑張らなくちゃ」
アタシの大切な虫が また悲鳴あげる
人の期待に
面倒起こさぬため
アタシは日々努力を重ねる
多大な努力を以て毒を飲み続ける〉
アイは、いつものあの射るような――だけど、ゆりにとってはとても魅惑的な視線で、振り返っている。きゅっと結んだ口元にだけ、幼さが漂う。暗いバックにほかのメンバーが、狂おしい咆吼を響かせ、闇に埋もれるように写っていた。
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