18.夜の名を持つ君と、その連れと、再び始まる奇妙な共同生活
四角い扉が並ぶ外廊下に、月が青い影を落としている。息を切らして登ってきた
「ハルカ、久し振り!」
「
言葉に詰まる。もう来てくれないと思ってた、とかわいいことを言うのも
「馬鹿、心配したんだぞ」
結局、拳で頭を叩いてしまう。いて、と夜響は片目をつぶって、
「ハルカ、髪切ったんだな」浮かんだまま顔を寄せ、鼻の先をくっつけだ。「
遥は目を閉じて、ちょっと背伸びする。そっと、唇が触れあった。ちょっとにらむようにしてくすっと笑うと、くすぐったそうな夜響は、一瞬目を見開いて、それから、サンキュ、と遥の肩に腕をまわした。
「今日からハルカのうちに泊まるよ」
過去のことなど忘れたような物言いに、ほっとする。謝る勇気などないのだから。
「どうぞ」
と突き放すと、
「もうひとりも泊めてやってくんない」
テレビで共に映っていた子だろうか。
「うち経済状態きついんだよ。二人なんて有り得ない」
振り返った遥は、目を見張る。
「夜響、あんた一週間前は、食べ物くれって言ったじゃない」
「オニの力が強まった」
「どうやって」
「思い出せば怒りはいくらでも湧くさ。夜響の力の源は呪いだからね」
それはつまり、過去の自分を――人だった頃の自分を憎み続けるってこと? 恐ろしくて訊けないのに、夜響はけろりとしている。
「彼女だ、アカネだっけ。洗面所の床でもいいから貸してやってよ」
遥は息を呑んだ。振り返った途端、一瞬前まで誰もいなかった手摺りに、長い黒髪の少女がちょんと座っている。壊れたフランス人形みたいに
(この子、既にオニだよね。あたしもこうなっていたかも知れない)
よくもあたしにオニの気を、と怒る前に、少女がふわりと手摺りから下りて、右手を差し出した。「ボク
怪訝な目で夜響を振り返ると、
「なに、なんだって? 今度は冴になったの? 最初に会った日はユイとか言ったじゃん、あんた」
夜響も混乱している。
(そういうこと)
なんとなく納得して、遥は少女の手を握り返す。「ボク」などと言っているが、声からして女の子であることに疑いはない。
(夜響がこの子に声をかけたってことは―― あたしこんな子と同類ってみなされてるわけ?)
思わずうんざりする。苦笑混じりに、
「なんて呼んだらいいのかな」
答える前に携帯が鳴り、少女は急いで電話に出る。「ごめんね、アキね、今電車の中なの、あとで電話する」
つれない返事をして早々に切ってしまった。その呼び出し音――着メロが気になって、遥は名のことなど忘れてしまう。
(そうだ、あの曲。『こんなあたしじゃ猫も喰わない』って歌う曲だ)
二人を従え部屋に入る。電気を
部屋を見回していた少女は、デッキから流れ出した歌舞伎の「だんまり」の曲に、さほど驚くでもない。壁に並ぶ北斎の絵のほうに、先に目を見開いていたからだ。新聞社から購読者全員に
「アカネ、この曲けなしちゃあ駄目だよ、
夜響はそんなことを言って遥をからかう。「この人は好きなもん悪く言われると、天地がひっくり返ったように怒るんだから。な」
にやにやしながら振り返る夜響を、遥は思いっきりにらみつける。少女は真面目な顔で、
「この曲、好きなの?」
「悪い?」
「好きなものけなされて、キレない奴はいないよ。夜響だって、どうしても守んなくちゃいけない大切なものってあるでしょ」
と真摯な口調。じっと見上げられ、夜響は無表情のままみつめ返す。
「夜響、人だった頃は何が好きだったの、どんなことに夢中になってたの」
ゆりの言葉に、困惑したように何も言わず、ふいと視線をそらす姿に遥は哀しくなる。
(この子は夢中になる物が一個もなくなっちゃうくらい、からっぽになってたんだ)
生きている今を感じられず、自分が誰なのか確かめるすべもなく、日々はただ無為に過ぎていった。
「ハルカさん、本当の名前は教えらんないけどね、あたしのことは、ユリって呼んでくれればいいです」少女は、急に親しげに微笑んだ。「今度の土曜日、夜響とライブ行くんだけど、ハルカさんも行かない? チケットは夜響が無料で空から取り出してくれるよ」
「土曜? 無理だ。あたし歌舞伎見に行くの」
思わず頬の肉がゆるんで、遥はにやーっとする。いそいそとちらしを出して、
「これなの、
「全く」
ゆりはあっさりと首を振り、夜響はベッドに仰向けになったまま、甘えた声を出した。
「夜響も行こうかな~。ハルカと一緒に出かけたいもん」
ゆりはちらしをためつすがめつしながら、
「十二時開演じゃん。ライブ夜ですよ、来られるんじゃん?」
「時間的には行けるけど、歌舞伎見た日はずっと
「あ。分かる。大切な時間の空気には、出来るだけ長く包まれてたいよね」
ベッドに寝そべった夜響は、うなずきあう二人に何だかつまらなそう。
「じゃあ夜響もライブ行くのやめようかな」
と気まぐれ言って、やだ、ちゃんと来てよ、とゆりに念を押された。
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