六、
16.遥がみつけた宝物
時は
(ここに帰ってくる理由なんてないんだ……。オニに夢を見せて欲しい人は、ごまんといる)
どこかのビルの上、くるくる回る光の輪に浮かび上がる少女の波打つ髪は、肩に腰に絡みつき、黒いレースの胸元で骸骨のネックレスが
(夜響の居場所はたくさんあったんだね。あたしにはここから逃げ出す勇気も、逃げ出すほどの理由もみつからないけれど)
このままでは皆の噂を認めることになると、自尊心に突き動かされてサークルへ顔を出しても、頭の片隅には常に夜響のこと、
(このまま何もしない癖がついてしまうのはいけない。今ここで負けたら、一生動けないままになる)
こんな自分が悔しい。足の裏からじめじめした根っこを生やしたまま、この先何十年も生き続けるのか――
(嫌だ)遥は強く思う。(なんとかしなくちゃ、なんとか)
瞬間、体の中が
(何?)
波が砂をさらうように、血がひいてゆく。夏の風が、汗ばんだ背中に冷たい。
(夜響、あたしに何をしたの)
違う誰かになって己を忘れ、狂気の舞を舞うなんて嫌だ。疲れ果て、変わり果てた自分を消したくなるか、幻の中に昇華されて己を失うばかりだ。
無理矢理自分を変えようとすることと、どう違う、と夜響の残像が嗤う。
(違う、違うよ、多分)
あえぐように逆らい、花壇に腰掛け手鏡をのぞき込む。白紙に鉛筆で書いたような、平らな顔。いつもと何も変わらない。
夜響は言った。オニになるってのは、自分に呪いをかけることなんだ。オニになれば夜響のような姿になるって? そんなことない。――
(自分を呪ったりなど、するものか。愚かしい)
なんで自分につらいこと
このまんまじゃあまりに虚しいから。ここにとどまっていては、
後ろに縛った前髪の、生え際を鏡に映して、美容院行かなきゃ、と溜息をつく。ちょっと痛い出費だが、黒い部分の幅が随分大きくなって、染めた部分と色の差が目立つ。個性のかけらもない栗色は、赤と金は男の子に好かれない、と雑誌で読んだから。ぱたんと鏡を閉じて、
(もう夜響のことなど考えるもんか)
とらわれ続けるのは
(あんたなんかいなくても、一人で変わってみせるから)
立ち上がり、一人きり文学棟まで歩き出す。一人は楽だ。高校の頃はいつも静かな友だちと二、三人で固まって、大勢で騒ぐほかのグループを、教室の隅からみつめていたが。
次の授業は一週間待ちに待った近世文学、鈴木先生の熱弁を思い出せば、浮き世暮らしでくすんだ心も洗われる。だが文学棟の横で発声練習に精を出す演劇部の叫び声に、また焦る。せき立てる声から逃げ出したい。
何物にもとらわれず呼吸できたなら、どんなにか素晴らしいだろう。小舟でずっと川をゆく、霧の降りた
(夢のような世界なんて、夢の中にしか存在しない。桃源郷なんて、結局幻)
だけどそんなふうに、ずっと続いている重い気持ちも、ノートに向かい一心不乱に教授の言葉を書き留めていると忘れてしまう。ひたすら手を動かす遥の耳に、ドラムの音が小さく響く。サークル棟で、バンドサークルが練習を重ねているのだろう。
(ご苦労様だなあ。あたしは江戸の話聞いてるほうがずっと幸せだけど)
何の気なしに呟いて、はっとする。そう、今、一番満たされている。ほかの何をしているときよりも。一週間にたった九十分、何物にも代え難い貴重な時間だ。こんな幸せがすぐ近くにありながら、なぜ今まで自分を追い立ててきたのだろう。
(あたしって、馬鹿じゃないの…… 幸せの形が人それぞれ違うことくらい、ずっと昔から知ってたはずなのに)
誰の言葉に惑わされたわけでもない、誰にも何も言われぬうちから、
今ようやく
(あたしずっと勉強し続けたい。死ぬまで、探求したい)
その瞬間唐突に、あまりに単純で突飛な願いが飛び出した。
(研究者になるってのはどうだろう。そうしたらずっとずっと、大学にいられるんじゃないか)
そうだ、目指せばいい、とうなずくと、背中から体中がかっと熱くなった。オニの気なんてもんじゃない、もっとずっと大きくて、くらくらさせる興奮が、全身を心地よく包み込んでいる。
好きなことを頑張ろう、目指すものへとひた走ろう。二十二歳になったとき、誰よりも有意義な四年間であったこと、胸を張って誇れるように。
(大学ってのは、興味あることに打ち込める得難い時間だから。あたしはもうそれをみつけたんだから)
誇らしい気持ちで顔を上げる。オールラウンド系のサークルで、ただ
(授業、早いってば……)
教授が雑談――今月国立劇場にかかる芝居の話をしているうちに、遥は慌てて教科書をめくる。
「同じ
一限さぼって電話して、花道近くの席がとれたことを思い出し、遥は胸を躍らせた。楽しいことが、たくさんあたしを待っている。
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