05.はじまりの記憶

 ハルカの押し開いた扉から、夜響やきょうは尻を蹴られるように転がり出た。最後の一言も聞いてもらえず、後ろでばたんと扉は閉まる。無常に響く施錠の音。夜響は冷たいコンクリートにしりもちついて、鍵穴を見上げていた。開けるすべはあっても、開ける気にはなれない。きっと遥はまたベッドに寝転んで、ひとりきり音楽を聴いているんだ。何もせずに、何も始めずに、ずっとずっと。

 夜響は立ち上がる。着物の汚れをはたいて、

「夜響はオニになったんだ。淋しくなんかないよ」

 外廊下の手すりに軽々と飛び移る。そのまますべるように、宙に浮いた。

「どこへゆこうかな。夜は長いんだ。夜響は自由なんだ」

 黄色い月を見上げると、初めて会った夜のことが思い出されて、胸はきりきり痛んだ。

 確かにね、ハルカ、オニにならなきゃあんなことは言えなかったし言わなかった。だけどそれでハルカと仲良くできたって、幸田さんたちと変わらないんでしょ? ハルカの心に触れることは出来なくって、本当に怒ってもらうことも、本当に喜んでもらうことも出来ないんでしょ。本当の夜響なんて知ってもらえないし、ハルカは表面しか見せてくれない。そんなの、嘘だよ。

 ゆったりのったり進むモノレールの上に、夜響は寝そべって、夜の風を思う存分食べた。左右は橙色の光の道、その中をすべってゆくと、心地よくて眠くなる。

 駅に着くと、モノレールの上の夜響を見上げて、人々がわっと湧く。駅員さんが走り寄る。注目を集めるのも、皆に気にかけてもらうのも、夜響は大好きだ。

 ハルカだって本当は、みんなに見てもらいたいくせに。でも分かんないよ、それならなんで、実在しない「普通」なんて基準に、必死で自分を合わせようとしてるのか。

「ああ、そうだ」

 夜響は急に頭を抱えた。

「あたしも、そうだったんだ」

 思い出せない、思い出したくない、嫌だやめて、夜響はうめいてなんとか顔を上げる。そうしなければ引きずり込まれる、あの少女が目を覚ます。動き出したモノレールの行く手に、立川の街の明かりが滲んで見えた。心を隠す、芸者の化粧のような白い頬に、理由も分からず涙はこぼれる。

「知らないもん、夜響は何も覚えてないもん」

 繰り返す夜響の目から、ネオンサインが消えてゆく。夜の街が薄らいで、照りつける日差しに色褪せた町が、陽炎かげろうのように浮かび上がる。ふさいだ耳の間で、踏切の鐘がこだまする。モノレールの静かな振動が消え、足下あしもとから轟音が揺さぶった。視界を埋め尽くすのは、矢のように飛び過ぎる車体だ。建て込んだ家々は、ふれあう肩を震わせる。

 遮断機が上がれば静けさの中、褪せた街が熱気の中に佇んでいる。

 ――踏切を越えるとそこは何もなかった。あたしは誰でもなかった。

 呟くのは、地味なセーラー服姿の少女、線路を越え、骨董品屋の硝子戸ガラスどを引いた。くもった硝子の向こうで、じいさんは新聞を広げたままうたた寝している。

 薄暗い店内は四方を本棚に囲まれ、中央には年代も様々な壺や鉢、店の隅には戦時中の玩具や古い看板も積まれている。少女はあてもなく、適当な一冊を手に取った。表紙の和紙は毛羽立ち、黄ばんだ題簽だいせんには「もう両記りょうき」と読める。見下ろす瞳はうつろなもの、幼い横顔にはあきらめの影、だがページをめくる細い指が、途中で止まった。黒い瞳は一輪挿しの絵に吸い込まれている。

 同じ一輪挿しが店内にあるのを、彼女は知っていた。表面を古びた護符に埋め尽くされ、陶器の肌はのぞくことも出来ない。少女の目が笑う。山積みの陶器に隠れ、そっと護符を剥がした。一枚、また一枚、剥がしては丸めてポケットに突っ込む。

「誰じゃ? そなたは何者じゃ」

 不意に女の声が降った。左右に視線を巡らせ、硝子戸ガラスどの表までのぞいたが、誰もいない。じいさんも相変わらず舟をこいでいる。少女の瞳は好奇心に輝き、更に護符を剥がす。

「なにゆえわしを起こすのじゃ」

「面白そうだから」

 と、少女は小声でささやいた。誰かが笑った気配がある。

「つまらぬかえ、この世は」

 あでやかでつやのある声だ。

「思い通り出来ないからね」

 少女は内緒話のように答えて、なおも護符を剥がす。

「好き放題出来るのなら楽しいのかえ」

「勿論」

「そなたはただの臆病者なんじゃろう? その臆病を治してやろうか」

 むっとしながらもうなずいた。

「よかろう。ではこの一輪挿しを割っておしまい」

 少女は慌てて首を振る。

「とても出来ぬかえ」女の声はからからと笑った。「そのような様子では、確かに日々みじめじゃろうなあ。お前のつまらぬ十何年間が、目に映るようじゃわい」

 少女はじっと、暗い瞳で一輪挿しを見下ろしている。

「変わりたい」低く呟く。「こんなの、もう嫌だ」

 祈るように、涙をこらえるように、強く瞼を閉じる。

「思い通り生きたい」

 両手を離した。一輪挿しが落下する、意外なほどゆっくりと。床に斜めに打ちつけられ、真っ二つに割れるその瞬間までが、コマ回しで見るフィルムのようだ。一切の音は消え、向こうで立ち上がったじいさんの姿も、その目には入らなかった。黒い瞳には、この世のものは映らない。

 彼女は夢の世界に飛ぼうとした。例えそれが、やがては悪夢となろうとも。

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