二、

03.こんなあたしじゃ猫も喰わない

 夏の風が二人の間をすり抜けて、ハルカはまたぎこちない笑い声をあげた。

 学食棟の裏は、昼食時間にも関わらず人影もまばらで、やわらかい芝生に腰を下ろせば、建物が影を落として涼しかった。遠くから風に乗って、アフガン難民がどうこうと、ハンディスピーカーで力説を続ける学生の声が聞こえる。

 ひとりの青年を前にして、遥の全身はぴんと張った弦のようだ。メールを打っているだけで、携帯電話を握る手が汗ばむというのに、今はその相手と二人きり、話したいことがあるとはメールで伝えたし、ごめんね、わざわざ呼び出して、とも言ってしまった。もう、用件はひとつしかない。鼓動は耳の中で高く響き、呼吸は浅い。笑みを絶やさぬ長身の彼を、ほんの一時いっときみつめた。

幸田こうださん、好きなんです、わたしとつきあってもらえませんか」

 言葉にすると一瞬だった。こんなに強く大切な気持ちが、あまりに短い。紋切り型の文句に恥ずかしくなる。次の言葉が続かず、逃げ出したくなる前に、幸田弘康こうだひろやすはデパートの受付係みたいに、すらすらと答えた。

「ありがとう、でもまだ俺ハルさんのことあんまり深くは知らないよね。だからまずは友だちとして、いろんな話をしたいからさ、この返事はもう少し待ってもらっていいかな」

「はい」

 頭が真っ白になって、それだけ答えるのが精一杯だった。

「ハルさん、いつも結構早く来るんだから、もっと真ん中のほうに座っちゃいなよ。はじっこじゃ声も届かないし」

 たまり場での席順の話だ。各サークルは昼食時間には学食棟の決まった場所に集まり、そこをたまり場と呼んでいる。

 いつの間にかアフガン難民の話は終わって、ハンディスピーカーは調子の外れた歌を、大音量に拡張している。その歌の主がいきなり呼びかけた。〈ハルカさんハルカさん、至急学食前までいらして下さい〉

 言葉を失う遥に幸田は、

「あれ夜響やきょうちゃん?」

〈夜響さまが来いとおっしゃってます〉

「やっぱり」と笑って立ち上がる。「行こうか」

(もう終わりなの?)

 遥の心臓は冷たくなり、焦った唇は、待って、と動きかけた。この一ヶ月、悩んで考え抜いてようやく起こした事件が、あっけなく幕を閉じようとしている。

(あたしの一大決心はなんだったの)

 全ての力は空気と芝生に吸い込まれてゆくのに、足だけはふらふらと長身の幸田を追う。きいんという音にはばまれて何も聞こえないのに、幸田は話し続ける。毎日百回でも千回でも、うなずくばかりだったから、今も幸田は不思議に思わない。

 学食棟の影から出ると、七月の陽射ひざしが額をさした。太陽光を浴びると溶けて死んでしまうと決めて、光から逃げ回って遊んだ小学校の校庭を思い出す。

「みっけたー、ハルカー!」

 学食の前から、夜響がハンディスピーカー片手に走ってくる。借りた遥のTシャツは、ちょっと大きすぎる。後ろから「アラファトさん万歳」という怪しい垂れ幕なびかせ追いかける、数人の学生たちにスピーカー放り投げ、

「やぁ、幸田さん」

 と手を上げて、抜け殻になった遥の額を指ではじく。「ふらふらすんなよ、探しちまったろ」

 怒る気力もないのに、夜響ははしゃいでいる。「ねえねえ今日飲みやるんだって? ハルカも行くでしょ」

「俺もハルさんも行くよ、ねえ」

 と振り返る幸田に、遥は曖昧にうなずく。

「夜響も行っていいでしょ」

「うん勿論、夜響ちゃんお酒飲める?」

「分かんない」

「じゃあ特別千円で招待しちゃおう」

 楽しげな二人の声を聞きながら、遥は眩しすぎる陽射しに顔をしかめて歩いた。隣で夜響が、ぱっと手のひらを空に向ける。

「はい、会費」

 幸田に向けた手の中には、ちゃんと夏目漱石のすかし入りのお札が握られている。

「えっ、何したの」

(夢だ夢だ。あたしはまだ夢を見てるんだ)

 意に介さない遥に、

「今の見たよね、ハルさんも」

 幸田は目を丸くしている。

「勿論です」

 ついまた抑揚のない声を出して、失敗した、と溜め息をつく。

〈ねえ

 黒いコートと黒いマントをちょうだい

 悪魔になって世界の底まで堕ちてみたいの〉

 学食前の広場に作ったステージで、うまくもないバンドを従え、女の子が熱唱している。

〈今のまんまじゃただのゴミだから

 こんなとこに転がってんのはもうご免なの〉

 学食棟の扉に吸い込まれてゆく二人の背中を追っていた遥は、足を止めた。

(あの曲だ。流行はやってんのかなあ)

「こんなあたしじゃ 猫も喰わない……」

 歌詞の覚えは相当悪いはずなのに、気が付いたら口ずさんでいた。

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