夢幻宵祭り
綾森れん@精霊王の末裔👑第7章連載中
一章、嘘 ――Drug Trip――
一、
01.春の夜の出会い
〈薄汚れたバニードール 路地裏に転がってる
捨てられ忘れ去られて 猫さえも寄りつかない〉
BGMをぼんやり聞き流しながら、
夏の
〈今のまんまじゃただのゴミだから
こんなとこに転がってんのはもうご免なの
こんなアタシじゃ 猫も喰わない……〉
さんざん逡巡した挙げ句、遥はようやく夕飯の献立を決め、レジへ向かう。
「ありがとうございました」
若い店員の無機質な声に追い立てられて、自動ドアの前に立ったとき、また歌が耳元をかすめた。
〈ああ 楽しいわ 嬉しいわ
本当はなんにもない街だけど なんにもないアタシだけど〉
なんとなく足を止める。
〈空虚を飾り立てて
表現するものなんか何もなくても〉
店をあとに、閉まりかけたドアの向こうで、少女の声が歌っている。
「あたしの世界にいきたいの、か」
ぼんやりと繰り返した。行きたいなのか、生きたいなのか、分からない。
「行けたら、いいね」無意識のうちに呟く。「そんな世界がどこかにあったなら」
苦し紛れに自嘲気味な笑み。
(現実のあたしが行かなくちゃいけないのは、またもや足の遠のいてるサークルなんだけど)
責め立てる強迫観念に、どっと疲れが噴き出す。なぜ足も気も重いのか分からない。「楽しい大学生活」を送りたいのは、他でもないこの自分なのに。
(もうほんと、逃げ出したくなる)
闇の中から見知らぬ誰かが現れて、異世界に連れて行ってくれたらとか、大好きな江戸時代にタイムスリップ出来たらとか、夢想ばかりが広がる。梅雨も明け、じっとりとした熱気が手足にまとわりつく。アパートの螺旋階段は際限なく続くよう、重い荷物を肩にぐるぐると四階までのぼる。
鍵を開けるとき、真っ暗な部屋の天井にはりついた、楽しいお化けを想像した。
(あたしをどこか遠くに連れ出してくれたらいいのに)
疲れた脳は、壊れたレコードのように繰り返す。
あけた扉から正面に見える窓は、鍵をかけて出たはずが
「見えないはずのものが見える」
遥はぽつんと呟いた。
「みたいだね」
「聞こえないはずのものまで聞こえる」
「よっぽど疲れてるんだろう」
そう、とうなずいた。疲弊した意識に、起きていながら無意識が夢を見せる、脳の自然な仕組みによる「覚醒夢」だ。そう思えば何も恐れることはない。夢と分かっている夢ならば、思う存分楽しめばいい。
「あたしをどこか遠くへ連れてって。ずっと遠く、見たこともない世界へ」
白い霧に酔ったように両手を伸ばす。
「おやすいご用さ。けどその代わり、その弁当をちぃと
と、目で示すは遥の
「なんの?」
「オニになれる。自分に呪いをかけられる」
「呪い――」
「呪いをかければオニになれる、するとなぁぁんも悩まなくなる。なんでそんなちっぽけなこと考えてたんだか、分かんなくなっちまう。他人の迷惑、後先、可能不可能、ぜ~んぶ無視して、やりたい! ってだけで駆け抜けられる」
にやーっと歯を見せ笑った夜響に、思わず後ずさる。赤い瞳に映るものは、大火に呑まれ、逃げまどう人々か、洪水に襲われる家々か。毒々しい笑みには、そんな光景が似合う。
「ああ、そんなふうに怖がんないで」
だが笑みを消すと、夜響は哀しんでいるようにも見えた。「夜響はなんもしないさ。食べるもんさえくれりゃあ」
遥はちょっと
「当たり!」
夜響が叫んだ瞬間、遥の体がふっと軽くなった。見れば夜響の白い指が腕を掴んでいる。遥は慌てて頭を下げた。窓枠にすれすれ、ぶつかりそうになりながら、体は広い空の下へ抜け出した。途端、夏の風に包み込まれ、遥の髪は空気を含んで大きく広がった。
浮かんでいる。
足の下に屋根が連なる、車が走る、人が行く。向こうには
「夢と現実が逆さまになっちゃえばいいのに」
「なるよ」
夜響が笑った。夜響は笑うと不気味だ。それでも遥は言った、これを夢と信じながらも。「夜響、あんたずっとうちにいてよ。食事はあげるから」
「夜響は――」
空中で急に、遥は抱き寄せられる。
「愛も欲しい」
「へ?」
驚き半分、思わず拒絶の姿勢を取る遥に、
「落としちゃうよ」
夜響が突然、腰と腕を支える手を離した。
「うわあ、やめて!」
遥は悲鳴をあげ、夜響の着物の裾にしがみつく。だがそれ以上体は沈まず、裾に描かれた鞠が目に入った。鞠に桜の花びらが散りかかる、その図を哀しいと思ったのは、子供の頃に聞いた昔話を思い出したからだ。病で高熱を出し生死をさまよう女の子が、最期に食べたいと言う赤米を、祖父はひとつかみだけ盗んでくる。女の子は奇跡的に回復するが、祖父の罪は露見し、「ひとつかみの米」は「米一俵」とされ、
夜響はくすくす笑いながら手を差し出す。「空のうんと上の方はどうなってると思う」
「空気がどんどん薄くなるんじゃないの」
「月があんな近くに見えるのに?」
と、丸い月を仰ぎ見る。
「月はすっごい大きいから近くに見えるだけでしょ」
「本当に、そう思うか?」遥の冷めた目を、夜響はじっとみつめる。「月には兎が住んでるんだよ」
「住んでない住んでない」
だらんと下げた遥の手を、ぎゅっと握り、
「じゃあ確かめに行ってみよ!」
いたずらっぽく笑って、空へと舞い上がる。ぐんぐん近付く月は次第に大きく、遠のく町はどんどん小さくなってゆく。上を向いたまま、何て呼んだらいい、と問う夜響に、遥でいいよ、と返す。
随分のぼったところに月はあった。六畳間にすっぽり入るくらいの球体は、黄色い光のもやを発している。そのてっぺんに足を伸ばして、夜響は手招きする。真っ白い袖と髪が、黄色い光の中で揺れている。遥は息をするのも忘れて、月の上に立ち尽くす。静かな
「そんな驚くことじゃない。こんなにきれいに光ってる月が、乾いてクレーターだらけなんて考えるほうがおかしいんだ。遥だってガキの頃は知ってたでしょ、空を泳いで行けば、三日月に座ることも出来るって」
心の暗い淵を回って、遥は記憶の奥へと落ちてゆく。大量の情報を詰め込む前、他人の迷惑、後先、可能不可能考えず、望むままに動く子供がいる。進みたい望みと逃げ出したい恐れの狭間で、息が止まることなどない。
鎖で
(オニになるとはこういうこと?)
だが、なぜ己を呪わなねばならない、なぜ夜響は悪魔のような姿をしている。素晴らしい夢を見せてくれるだけなら、鬼と呼ばれるはずはない。
「嘘だ、こんなの」
「何が?」
「全部ウソなんでしょう、オニになるって、そんな素敵なことなわけない。きっとなんか罠がある」
ないよ、と言いかけた夜響を遮り、
「なんの代償もない自由なんて、手に入るわけないもの」
「代償? ハルカは代償が欲しいの?」
さも
それから、弁当くれ、と遥の手から袋を取り、パックされた食品と割り箸を膝に置く。「ハルカも座りねえ、そんなとこ突っ立ってないで」
「もう二度と、家族に会わないの?」
ゆっくりと問う。夢見た一人暮らしも、今はわびしさの連続だ。鍵を開けると暗く誰もいない部屋に、家族の幻が浮かぶ。
「見知らぬオニとしてなら会えるけど」
こちらを見もせず、つっけんどんな答え、だがじっと遠くをみつめる瞳は、思い詰めているのか、必死に耐えているのか。
鬼という言葉に、近世文学の時間に読んだ、「吉備津の釜」を思い出す。
明け方に起き夜遅くに寝、「常に
社会の望む理想像を演じていた磯良、演じることのうまい者ほど鬱積は大きく、死後鬼となってようやく、
「夜響もオニになる前は、社会の求める『型』を演じてたの?」
「忘れたよ、全部」
つんとあらぬ方を向く。
「忘れたら、消えちゃうよ。オニになるまでの日々はなんだったの?」
「全部偽りだった。それでいいじゃんか! ハルカも早くオニになっちまえよ。そしたらそんなことうだうだ考えなくなるぜ。今が楽しい、それだけで百パーセント満足だよ!」
夜響はくるんと後転する。裾が大きくまくれて、遥が思わず目をそらすのも構わず、端の方で歓声をあげた。「見てみなよ! 月ん中で兎が餅ついてる!」
そんな馬鹿なと思いつつ、ひょいとのぞけば、淡く光る黄色い膜の内側で、ぺったんぺったん、二匹の兎が餅をついている。
「こりゃあ夢だ」
頭がどうにかなりそうだ。遥は下を見ないように、弁当をかき込むことに専念した。
「
「お餅分けてもらっちゃった」
ぴょこんと、夜響が月の上に姿を現した。つきたてのやわらかい餅で両手をべたべたにして、満面の笑みを浮かべている。
「夜響は、その容貌を恥じたりしないもんね」
「突き落としちゃうぞ」
目を据えて、夜響がずいと迫った。ちょっと怖いけど、やはり笑っているときの方が迫力ある。
「でもあたしは、内向的な自分を恥じてるのかな」
「何の話?」指をくわえてきょとんとする。「夜響にみんな聞かせなよ。どうせ夢と思ってるんなら怖いことなんかないだろう」
(そうだ、これはあたしの作った夢、夜響はあたしの想像の中の人物なんだ)
誰かに相談なんかしない。小さい頃は、頭の中に住む架空の友だちに悩みを打ち明けたが、いつしかひとりきりで、紙とペンの助けを借りて頭を整理するようになった。でも不思議なことに、今また夜響という、いないはずの人が現れた。
「あたし、前に進むのが苦しくってたまらないの。見知らぬ世界に飛び込んだり、取り巻く環境ががらりと変わるのが、怖いのかも知れない」
言葉にしてみて、そうじゃない、と思う。
「怖いんじゃないな、面倒なの。親しくない人と話すのも、時間を拘束されるのも、色々考えるのも」
(違う、やっぱり怖いんだ)
胸の中にあるはずの心が、霞んで次々に形を変え、頭を混乱させる。時候の挨拶しかしない間に、言葉の並べ方まで忘れたのか。
(忘れたんじゃない、あたしは一度も本当の言葉など、喋ったことはないんだ)
笑い話を笑えれば、友達の顔くらい出来た。
「今の場所が心地いいんなら、わざわざほかへゆくことないじゃん。なんで自分につらいこと
「違うよ、あたし大学入ったら、こうしよう、こうなろう、って色々考えてたの。それなのに、新しいことからどんどん逃げて、毎日大学とアパートの往復じゃあ、理想から遠ざかってゆくばかり。先週だってほとんどサークル顔出さなかった。行けば楽しくても、体が重くて足が向かなくて、ついつい図書館に立ち寄って時間つぶして、帰りもまっすぐ駅に向かっちゃうの」
「ふ~ん」
物珍しそうに眺めている。
(オニにはこんな気持ち分からないかな)
過去の自分を失っているなら。
「なんも考えないで、やりたいことやりたいんでしょ」
要約しないでほしい。
「オニにしてやろーか」
手についた餅をあらかたなめ尽くし、にやりとして覗き込む。
「いい。そんな顔になったら、今以上にモテなくなるから」
「ええー、何言ってんだよ。ハルカ夜響に惚れてるじゃん!」
まじめな遥は返す言葉を失って、まじまじ夜響をみつめ、それからふいに視線を落とした。「オニになるって納得いかないよ。今日までの自分を断ち切るなんて、したくない」
「ハルカ、オニになるってのは、自分に呪いをかけることなんだ。オニになれば夜響のような姿になるって? そんなことない。夜響は変えたかった、人だった頃の面影なんか、
夜響は唇に指を添え、上目遣いに遥を誘った。「全ては望んでやったのさ」
「どうしてあたしをオニにしたいの?」
「だってぇ」
口をとがらせる姿は駄々をこねる子供だ。「ひとりぼっちじゃ淋しいもん」
「な~んだ」と、いじわるな目。「オニになっても弱虫は治んないんじゃない」
「違うよ! ハルカが変な質問するからだよ! それに――」
唇をすうっと笑みの形に歪めた。「変わりたいって望めば望むだけ、変われるんだよ。失った時や人を懐かしく思うことも、ひとりを淋しがることも、なくせるんだ」
遥はぞっとした。そんなの、心が消えたも同然だ。欲望や恨みだけで、人の命までいとも簡単に奪う「鬼」になる。
「夜響」
箸を置き、硬い声で呼びかけた。「あたしはあんたがどうなろうと知ったこっちゃないけど、忠告しとくよ。それ以上、自分に呪いをかけるのはやめたほうがいいと思う」
夜響は何も言わず、首だけをこちらに向けた。遥にはまだ、怒ったときと笑ったときくらいしか、夜響の表情が分からない。ただ物言わぬ夜響は、どこか哀しげに見えた。
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