*9* 定石の紐付け作戦で行こう。

 侯爵家からはひとまず社交界シーズンの終わるまでの依頼を受けていたものの、アウローラが私に慣れて警戒心を解くまではじっくりとことを進めたかった。


 社交界シーズンは通常四月から八月。エステルハージ領は若干王都から離れているので、三月の終わりに出立して四月の社交界シーズンに間に合わせる。父から手紙が届いた私が到着したのは五月の一週目。初顔合わせはその翌日だ。


 限られた時間で雇い主保護者と生徒の心を掴み、雇用口を得るのは前世も今世も変わらない。それにどのみち社交界シーズンが終わってから領地に戻るか否かは、私だけでは決められないのも事実だ。となれば、外堀を埋めるという手が後々効いてくると信じて布石を打つのも無駄ではないはず。


 そこで顔合わせに一回目。

 好きな科目を聞き出すのに二回目。

 嫌いな科目を聞き出すのに三回目。

 いつか挑戦したいことを聞き出すのに四回目。

 趣旨を変えて私への質問を受け付けるのに五回目。


 ――というように距離を縮め、六回目の今日はついに二回目の顔合わせから毎日深夜まで作った教材のお披露目の日だ。


「先生、これは……?」


 この五日間で再び得られた“先生”の称号に、一瞬前世で最後に見たバッドエンド場面がちらつく。しかし今は優しげなダークブラウンの垂れ目が、テーブルの上に積まれた教本を見て僅かに見開かれているところだ。


 うんうん、この思ってもない量の課題を持ってこられて不安そうな顔をする生徒を見るのは、前世も今世も良いものである。徹夜の苦労も報われるね。


「日数が足りなかったので数は少ないのですが、アウローラ様がお好きだと仰っていたものを元に、いくつかご用意致しました」


「でも……数学と外国語は、嫌いだと言ったわ」


「ええ、存じ上げております。けれど中を見て頂ければ分かるかと思うのですが、それぞれの頁の文章を読んでみて下さいませ。アウローラ様ならば、すぐに隠されたそれらが分かると思いますわ」


 滞在期間の残り時間が足りないので、市販の教材にちょっと手を加えた。この国で唯一のアウローラ専用問題集である。教科書の隙間に彼女の好きな歴史の人物の豆知識や、そのとき取った政治的な行動などに解答が関係するようにした、いわば即席のゲームブックのようなもの。


 ちょっと小狡いやり方だけれど、実際これだけでも教科書の文字を読む際に視線が滑るのを抑止する効果が期待できるのだ。教育は好きと嫌いの抱き合わせ商法が大切である。


「問題に正解したら、国外のそういった逸話をお話して差し上げますわ。この国どころか近隣諸国でも訳されていないものを。一度に全部お話しては勉強が進みませんので、小分けにしてですけれどね」


「本当? 本当にそんなお話があるの?」


「はい。このベルタ、アウローラ様に嘘は申しません。最初は……そうですね、遠い遠い東の国のお話か、同じくらい遠い砂漠の国のお話、草原の騎馬民族のお話などは如何でしょう?」


「どれも……聞いてみたいわ」


「ではそちらの教本を開いて、分からないところがあれば質問して下さい。取り敢えず三頁できれば、十五分ずつお話を聞かせて差し上げますね」


「さ、三頁で十五分は……短いわ」


「近隣諸国のどこにも出回っておりませんから。稀少価値の問題です。さ、ペンをお取りになって下さい」


 唇を不満げに尖らせる教え子を見て苦笑しつつ、隣に立って教本の表紙を開くまだ穢れを知らない小さな手を見つめていた。


 何度もペンを止めて、戸惑いがちにこちらを見上げ、か細い声で質問をされ、手がかりを与えて答えに導き、そこに隠されていた数字を見つけ、どの本の何章を下敷きにしたかを発見したとき、教え子の顔が達成感に輝く。


 何度も何度もそんな小さな喜びを感じさせ続けると、子供は放っておいてものめり込む。こうなると大人よりも集中力を発揮させるのは子供の強みだ。要所要所に散りばめたほんの少し難しい問題も、手こずりながら何とか解こうとする姿は領地の子供達と同様に可愛らしい。


 子供に限らず人に何かを教えるときに立ちはだかる壁。それを乗り越えられない際に【憶えが悪い】と他者は言う。それは間違いではないのかもしれないが、正しくはない。単に【興味がない】のだ。


 何が面白いのか分からないことなど永遠に謎のままでも問題ない。勉強とは本来その人にとって【面白い】ことを探すためにある。好き嫌いを直す方法だってそうだ。苦手な野菜を食べさせるときに、細かく刻んでやるように密やかに混ぜ込み、食べられたあとに種明かしをして達成感を味あわせるのと同じである。


 好きか、嫌いか。

 合うか、合わないか。

 面白いか、つまらないか。


 この解だけはいつだって簡単に見つけられる。それもまぁ、自分が自分を大切にしていればの話だけれど。


 ――いつしか質問が減り、静かな室内にアウローラが走らせるペンの音だけが響くようになる。


 時折コーゼル家のメイドが紅茶を淹れ直してくれるので、手をつけないのも忍びない。そのたびに少量ずつ飲んでお腹が少々重たく感じるようになった頃「できたわ!」と、出逢ってからこの方一番大きな声で教え子が教本を叩いた。


 興奮状態の教え子の手許にある教本を覗き込めば、結構な計算と綴りの間違いが見て取れたものの、ここは一旦目を瞑ろうか。


「では答え合わせはあとにして、先にご褒美のお話にしましょうか。何が聞きたいか決めて下さいね」


 そんな私の言葉に大きく頷いて真剣に悩み始めた教え子を眺め、小さな手応えを感じながら紙のよれた教本の頁を撫でる。積み木のように少しずつ。今度は急かさず形にしよう。

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