静かに佇む
中村ハル
第1話
一体の人形が、ショーウインドウに飾られていた。何を商っているのかよくわからない古びた店の扉を開け、木製のカウンターに座っていた店主に尋ねてみたが、決して売らぬという。
そうか、とその日は諦めた。何故、人形など欲しいと思ったのか。首を傾げながら帰宅して、ネクタイを解くうちに、やはり思い起こされる。
薄闇に包まれた狭い路地。人通りの少ないその一角に、突如と現れた柔らかな光に首を巡らせば、薄黄色の灯りを零すのは、硝子のショーウインドウ。その中の、小さな古びた木の椅子に腰かけた人形と、目が合った。
私には姉妹も奥方も子供もいなかったから、人形に触れる機会は極端に少なかったし、今まで特に興味を抱いたこともない。それなのに。
通りすがりにちかりと視界の隅に光ったものに、何とはなしに首を巡らせた先に、彼は座っていたのだった。黒い半ズボンとジャケットに、白いシャツ、襟元には紺色のリボンを結んで、きちんと膝を揃えて腰かけている。どうやら先刻煌めいたのは、彼の深い藍色の目玉らしい。じじっと揺らめいた黄色い明かりを撥ねて、またちかりと瞳が揺れた。
私は立ち止まり、あまつさえ爪先をショーウインドウに向け、硝子の向こうの人形をじっと見下ろした。その時、どんな気持ちだったのかと言われれば、覚えていない。何やらぼうっとしていたようにも、驚いていたようにも思う。
ただじっと、彼の硝子玉の瞳を見つめて、買わねばと当たり前のようにそう思っただけだ。
半ば当然というかの如く、私は店の扉を開け、店主にあれは幾らかと問うた。店主はゆったりと私の指先をたどり、それから鳶色の瞳で私を見上げて、そっと首を振った。
「あれは売り物ではない。譲れぬのです」
さも当然と、主は厳かに口にして、手にしていた本に視線を戻した。しんとした室内で、主の頭上にぶら下がった裸電球が、じじっと鳴った。
「そうですか。いえ、ならばよいのです」
口の中でもごもごと云い淀み、私は店を出た。困惑していたのは断られたからではない。何故自分が人形など求めようとしていたのかが分からなかったからだ。
それなのに。
飯を食いながら、頭の中は人形のことが浮かんでは消えていく。ラジオを点けてみたが同じであった。言葉の端々、流れる音楽の中から、関連したイメージが彼の像を浮かび上がらせる。これはいけないと、風呂で冷たい水で顔を洗って、漸く我に返った。
自分が何かにこれほど執着する質だったとは、意外であった。ここしばらく、綺麗なものなど目にしていなかったから、明るい光に浮かび上がった人形が、さも良いものに見えたのであろう。そう一人合点して、その日は早々に眠ってしまった。
だが、路地を通る度に、どうしても足が止まってしまう。しまいには、用もないのにわざわざその道を通って帰るようになってしまった。
人形は変わらずに静かに座っていて、店主はときどき私にその人形のことを言葉少なに話したが、求めれば頑なに売らぬと繰り返した。
人形になど、興味はない筈なのに。
どうしても欲しい。どうしても。
幾度も幾度も通って頼み込み、金を積み上げても態度は変わらない。断られる度に思いが募り、寝ても覚めても脳裏に浮かび、夢にも見る。
絶対に欲しい。何が何でも。何を犠牲にしたとして。
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