記憶を売った男

 男は金がなかった。

 人並みの学歴もなければ、勤勉な訳でもなかったその男は、日雇いの労働で稼ぐ僅かな収入に反して浪費癖が酷く、ついには生活をすることすら困難となってしまった。


 これは困ったと、今すぐに働ける仕事を探しに街に出た男は、ふと視界に映ったとある文字に目を引かれた。


「記憶、買い取ります」


 ずっと前からそこにあったことを感じさせる、少し地震でも起これば今にも崩れてしまいそうな鉄筋コンクリート造のアパート。その二階から提げられた看板であった。


「記憶…ねえ」


 これまでそう価値のある人生を歩んだとは思えなかった男だが、気が付けばその脚はギシギシと軋む階段を登っていた。


「いらっしゃいませ」


 薄暗い玄関の奥から出てきたのは、一人の老婆であった。

 どうやらこの場所で生活しているらしく、よく見ると奥の部屋には炬燵やテレビが置かれている。


「あの、看板を見たんですが」


 客がここへ来た訳を態々聞く必要もないようで、老婆は慣れた様子で男を奥の部屋へと案内する。


「ああ、そうでしたか。ではどうぞこちらへ」



 電気は付いておらず、カーテンは開かれてはいるが立地の都合からか差し込む明かりは少なく、鬱々とした空気が充満している。


「記憶といっても、値段は色々あってね。価値のあるものでは一時間で五万円以上の値が付くこともあるのさ」


 すごい話だ。

 だが、それほどまでに充実した人生を送っている人間が一体どれだけいるのだろうか。

 この男に相応しいのは、その逆の場合についてだった。


「もう一方で、価値のないような記憶に関しては、一時間で百円にも満たない買取になるから、売る記憶は気を付けて選ぶことだね」


 一時間で百円、十分の価値ではないか。

 どうせ覚えていても意味が無い記憶なのだ。


「では、適当に三十万円分ほど見繕って買い取ってください。どうせどれも要らない記憶なので」


「本当にいいのかい?過ぎ去った人生というのは、記憶という形でしか残らないんだよ」


「ええ、いいんです。もう終わったことより、これからの人生を楽しみたいですから」


 老婆は少し考えたあと、納得したような顔をして、男を布団に寝かせ、その顔に布を乗せた。


「では、暫くの間お待ちください」



────


 それから小一時間が経った。


「さ、どうです。気分の方は」


 老婆は男の顔に乗せた布を剥がしながら聞く。



「あの、看板を見たんですが」

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