二十一歳 その4

「スイーツの店って——ホテルの中なの?」

「あれ、言ってなかったっけ?」

「言ってなかったです」

「それじゃサプライズだねっ!」

 ミカは一切の動揺も見せず両手を広げた。


 丸の内ビルやブランドの服を見ながら渡り歩いているうちに、予約の時間が近づいてきた。

 辺りはもう薄暗い。陽が沈みかけている。


 ミカの案内で可奈子が連れられて来たのは、三十階以上はあるであろう相当立派なホテルだった。

 どっしりした、シンメトリーを意識したデザインのエントランスは装飾が凝っていて、可奈子たちのような学生には近寄りがたい風格がある。


「急に現れたね、ホテルの名前何て読むのかな」

「それは私にも分かんない。重要なのは中のお店ですから。入ろっ!」

 ぐっと可奈子の腕を掴み、ミカは迷いなく回転ドアに突っ込んで行った。

「ちょ、ちょっと不安だな」

「大丈夫だよ、私がついてるし」


 そこがさらに不安なのだ。

 エントランスを抜けると、別世界が広がっていた。


 まず暖かい空気。そして広々とした大理石調のフロアだったりシャンデリアだったり、キラキラピカピカしたものが目につく。それから正面奥のフロントデスク、左側の長い廊下を経て、ようやく立て看板を見つけた。


『クリスマス・スイーツビュッフェ 開催中』

 美味しそうなケーキやチョコレートフォンデュの写真がコラージュされている。


「ああ、あれだね」

 ミカは大股で看板の方に歩いていく。次第にお店の全貌が見えてきた。

 ちょっとした段差と観葉植物のパーテーションで分けられた広い空間は、甘い香りと落ち着いた照明の暖かい光で満たされていた。丸テーブルがいくつも置いてあり、フカフカそうなソファや木製の椅子はどれもブラウン系で統一されている。


 良い雰囲気だ。ミカはどうやってこんな所を見つけたのだろう。

「ここね、リンコちゃんに教わったんだ」

 可奈子の頭の中を読んだような発言だった。でもそれ以上に懐かしい名前に反応する。


「リンコちゃんって——」

「そうそう、中三の時クラスメイトだったじゃん?」

 成人式や同窓会では会わなかったが、記憶にはしっかり残っていた。例えば、体育祭の時に日焼け止めを借りた覚えがある。


「今ね、私と同じ大学に通ってるんだ」

「え、あの子東京にいるの?」

「うん、この前キャンパスでばったり会って、それからちょいちょい連絡とってるんだ。で、ここのスイーツビュッフェ教えてくれたわけ」


 リンコちゃん、普段どんな生活してるんだろう。急に長年会っていなかった元クラスメイトの近況が気になってくる。


「いつもはランチとディナーやってるらしいんだけど、クリスマスシーズンの日曜限定でこれになるんだってさ!しかもね」

 ここからは最重要事項よ、という風にミカはトーンを下げる。


「リンコによると、ここにはスーパーイケメンシェフがいるらしい」

「おい、ミカさん」

「え?ただ眺めさせてもらおうってだけよ、何か変な誤解してない?」

「ミカなら逆ナンとかやりかねないよね」

「心外だな、私会話すらするつもりないから。そのシェフはリンコちゃんの運命の人だからね」

「——リンコちゃんの?」

「一目惚れしたらしい。で、何回も通ってるらしい。気にならない?あのリンコちゃんをそこまで魅了するイケメン」


 気にならないと言えば、嘘になるかもしれない。少なくともあの頃の彼女のイメージとは一致しない行動である。

「それは——よほどなんだろうね」

「今日もいると良いなあ」

「どうする?ミカも一目惚れしちゃったら」

「それはない!十中八九ありえないね。一目惚れってのはそう簡単には起こりません」


 なぜか前振りにしか聞こえない。それを表情から読み取ったのか、ミカは補足し始めた。

「あの子ね、なかなか可愛いところあるんだよ。そのシェフを初めて見たタイミングで、本当に一目で惹かれちゃったんだって。その人マスクしてたのにだよ、それって結構すごくない?」


 あーあの子友達と行ったらしいんだけどね、と付け加えて続ける。

「食べ終わって店を出ようって時に、その人が料理の補充しに出てきたんだって、でその時たまたま目で追ってたら、なぜか視線が合っちゃったらしくて。その時に感じたらしいよ、運命」

「えっ——運命?」


「本人はそんな言い方しなかったけど、要するにそういうことだよ。リンコちゃんの言葉は確か——『これかなあって気がした』、らしい」

「言い回し全然違くない?」


 本人の言い方は結構ぼんやりしている。


「でもまあ意味はおんなじだよ!よく『雷に打たれる感じ』とか言う人いるけど、リンコちゃんの運命はもっと緩やかだっただけ。『これかなあ』みたいなのが正解の場合もあるってことよ」

「それどの目線から言ってるのよ?」

「これは横から目線ですね」

「上ではないのね」

「よし、じゃあそろそろ入ろう」


 ミカは急に体勢を変え、「いざ!」とズカズカ店内に入って行く。そうやって進むより、店員さんにまず気づいてもらうのが先なんじゃないのか。

 不安ではあったが、可奈子はとりあえずミカについて行くことを選んだ。




 ピアノの練習といえば、葉月の脳裏に蘇るのはいつも同じ光景、同じ場面だ。


 音楽室の鍵を回す。重いドアを開ける。

 小さな穴のたくさん空いた、防音仕様の壁。いつかと同じように夕日が射し始めている。


 葉月はため息を吐きながら、やはり妙に緊張感のある静かな部屋を一人で横切る。グランドピアノの所まで一直線に進む。


 手には楽譜。音楽の先生がお節介にも渡してきた練習曲。


 ピアノの側に振り子式のメトロノームが置いてある。時々重りが下がってきて勝手にテンポが上がってしまうポンコツだが、葉月が自由にできる備品はそれしかなかった。


 いや、これだけあれば充分。プロになる必要はない。ただ最終的に、合唱の曲が弾けるようにさえなれば良いのだ。


 椅子に座り、カバーを上げる。白と黒に光る鍵盤が顔を出す。


 譜面台に楽譜を置く。ペラペラなのでちょうど良い角度が必要だ。

 親指、人差し指、中指、それぞれの位置を確認して鍵盤に手を置いてみる。


 最初の音は何だったか。楽譜に目を凝らし、葉月はかつてオタマジャクシにしか見えなかった四分音符を見つめる——。


「——葉月?」

「——ん、何だ?」

 目の前に奏音がいた。煮え立っているトマトチーズ鍋の中を箸で指している。

「食べないの?」

 不思議そうに首を傾げていた。


 ついさっきボリュームたっぷりのパンケーキを食べたが、そんなことは関係ない。奏音は何でもいくらでも美味しそうに食べる人だ。

「食べる食べる、わーうまそう!」


 仙台は、平均気温が五度を切る寒い夜だ。何か温かい食べ物が良いから、と奏音はこの居酒屋を勧めてくれた。

 名物らしいトマトチーズ鍋は見るからに美味しそうだ。

「うわ、熱いな」


 具材を取ろうとして湯気の強さに驚いた葉月は、独り言っぽく呟いた。

 奏音は何も言わない。

 ふと湯気の向こうを見ると、彼女は固まっていた。


 特に驚いた顔でもなく、さっきと変わらず「どうしたの?」と言うように目を丸くして葉月を見ていた。

 その目がしっかり合った。それでも彼女はじっとしている。


「——奏音?」

 ワンテンポ遅れて、謎の呪いが解けた。彼女は何事もなかったかのように「気をつけて」と微笑んだ。

 葉月は火傷しないよう気を配りながら、菜箸を持った手を伸ばした。

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