十八歳 その2

 ——言ってしまった。

 ぽん、と口に出した後は、何も残らなかった。一秒前まで感じていた戸惑いも、変な緊張も、頭の中に渋滞していた文字も。


 一瞬シャットアウトされた五感の中で、最初に映像が戻ってきた。可奈子の目の前には変わらず葉月がいたし、自分の手にはなぜか苦いコーヒーがあった。

 キーンと耳鳴りがして、音声が聞こえてこない。いや、誰も何も言ってないのか。


 コーヒーを一口。やっぱり苦いのが、なぜか安心する。自分がここにいる感覚が戻ってくる。しかし彼はまだ、何も言わない。

 視線を動かすことさえ、可奈子にはできなかった。時間が止まっているような気がする。

「どう?」と念押ししたくてたまらなかったが、彼はずっと何か言いたそうに口を動かしている。声が出そうで出ない、という風に唇を震わせていた。


 急に強張った彼の顔は、筋肉一つ動かなくなった。マネキンを見ているようだった。

「それは——」

 やっと短く言うと、彼の中で何かが解けた様子があった。

「それはさ、ちょっとあれだろ。ちょっと——なあ、ねえ」


 もう、彼はいつもの笑顔に戻っていた。

「二人だと、さ、何かこう、違う気がしないか?」

 可奈子もいつもの笑顔を作った。

「やっぱりそう思う?私もそんな気がしたんだよね」

 体中の力が抜けた。


 現実感が戻ってきた。早く戻ろう。百パーセント、元に戻そう。

「それじゃあー今年の花火はなしか。いや残念だなあー、次回は四人で行けたらいいな。でも去年行っといて良かったよね、本当に」

「うん」

 葉月はそれ以上何も言わず、やはりにっこりと微笑んだ。

 目は可奈子を見ない。アイスティーの容器のフタに集中している。


「そ、そうだ」

 震えないように、低めの声を出した。多分上手くいったと思う。

「ん?」とようやく、彼は可奈子の方を向いた。

 可奈子はゴソゴソと、横に置いた自分の鞄を探った。今日はいつもより少し大きめな鞄だと、彼は気づいただろうか。


「もし花火いけなくなったらさ、渡そうと思ってたのがあって」

「何だそりゃあ」

 心底以外そうに、葉月は目を丸くした。

「行けなくなるかどうか、分かんなかったはずだろ」

「いやそうなんだけどね、何となく中止になるような気もしてたからさ」

「そうか?」

「はい、これ」

 昨日、文化祭の帰りにそのまま寄り道して、これを買った。多分今日渡すことになるだろう、と予感していたのは本当だ。


「な、何だよ急に」

 ライトグリーンのオシャレな包み紙にくるまった、両手で抱えるくらいの大きさのそれを、葉月はテーブル越しに受け取った。

「案外軽いな?」

 プレゼント、というにはちょっと変だ。だってこれは、きっと彼が今欲しているものじゃない。


「開けて良い?」

「ダメです」

「ダメなのかよ?」

「それは、家に帰ってから開けてください」

「え、じゃあ中身何入ってるの?」


 可奈子は一瞬躊躇った。言っても良いような気がする。

 いや、やっぱりよそう。

「それも、秘密です」

「はああ?」

「おうちに帰ってから確認してね」

「何でだよ——」

 と言いながら、可奈子の言うことを聞いてそれをしまってくれる。


 そういうところだ。

 葉月の、そういうところ。


 そういうところが好きだった。


 ずっと五年間以上見てきたけれど、彼は変わらない。細かいところは変わったかもしれないが、芯の部分はそのままだった。


 これからは受験勉強のため、クラスも志望校ごとに分かれていく。葉月と可奈子は、場所も偏差値も違う大学をそれぞれ目指していた。当然教室が違えば時間割も別々だ。

 あまり、というかほとんど、こうして彼と話すこともなくなってしまうのかもしれない。


 気づかないうちに、タイムリミットは迫っていたのだ。あと何日、あと何回、そんなことは意識すらしなかった。

 葉月と何ヶ月も会わなくなることなんて、想像ができなかった。


「強いて言えば——応援グッズかな」

「応援?」

「ほら、葉月さ、なかなかの大学目指してるじゃん」

「何で上から目線なんだよ」

「だから微力ながら?私も何か贈ろうと思いましてね」

「余計中身が気になるじゃんか」

「秘密は秘密だよ。後でのお楽しみ」

 ほーん、と自分がさっきそれをしまったリュックを見つめ、彼は何度かうなずいた。


「頑張ってよね、受験」

「あんなのはただのテストだろ?オレにはね、楽勝なんだよ。頑張るのはお前の方だから」

 人差し指で自分のこめかみをつつきながら、彼はスラスラとそんなことを言った。

 腹の立つ言い方だ。

 でも、これがもうすぐ聞けなくなる、のかもしれない。


「そりゃあどうも!余裕の優等生はやっぱり違うねえ」

「優等生で申し訳ないなあ。せいぜいベストを尽くせよ、可奈子も」

「やりますよ。私だって絶対受かるから」

 可奈子が目指す東京の大学は、世間的には難関の部類に入る。しかし勝負はこれからなのだ。この生意気上から発言男に負けるわけにはいかない。


 彼はまだ半分くらい残っていたアイスティーを、勢いで一気に吸い尽くした。

 カラカラと、ストローが「もうないです」の音を立てる。

「あれ、もうなくなったのか」

「ペース配分」

 可奈子はツッコミを入れながら、できるだけ自然に笑った。

 葉月はストローの位置をあちこち変えながら、楽しそうに笑った。

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