大学編

十九歳 その1

 夜中の十二時を回った。


 寒い。店を出てからずっと、その感情だけで頭が埋め尽くされていた。

 当たり前だ。逆に十二月も末の仙台が、寒くないはずはない。


 葉月の体感温度はまだアルコールで誤魔化され、体の内側が火照っていた。


 しかしそれにしても今の強風には、彼の残った体温を全て吹き飛ばそうとするような勢いがあった。


「おい大丈夫かよ能勢ちゃん」

「顔色?全然問題ないっすよ、全然」

 と言いつつ、葉月は隣を歩く先輩に寄りかかっていった。

「おいおいおい」と言いながら、サークルの先輩——清瀬拓也きよせたくやは渋い顔をした。


「だから焼酎はよしとけって——」

「美味しかったっすよ、あれ」

「美味いは美味いけどさあ」

 葉月の足取りはおぼつかない。一歩たりともまっすぐ歩けないのは、何とも不思議だった。


「僕の家がたまたま同じ方向だったから良いけどさ——どうしちゃったの」

 そう聞かれても困った。葉月自身、こんな体験は初めてだった。

「能勢ちゃんってそんなキャラだった?」

 ここで大きくよろける。清瀬先輩は見た目の細さとは裏腹に、しっかりした力で葉月を支えた。

 申し訳ない気持ちはあった。しかしなかなか姿勢が戻せないのだ。


「こんなキャラっすよ、元々」

「いや、飲み会行ったってさ、お前いつも介抱する側だったよ。確かにたくさん酒飲んではいたけど、こんな悪酔いするやつじゃ——」

「こんなことだってね——あるっすよ」

 相手の言うことが、二割くらい分からなくなっている。確かに今日の酔い方は何か変だ。


 また風が吹いた。

 身を刺すような、とはこういうことを言うのか。確かにツララの気体バージョンみたいな鋭いものが、スースーと薄っぺらなコートを突き抜けていく感覚がある。

 寒いというかもう冷たい。末端なんてとっくに冷え切っている。


「僕は隅っこの方にいたから分かんないけどさ——なんか嫌なことでもあったの?」

 ——嫌なこと?

 葉月はさっきまでのおぼろげな記憶の糸を、手探りで辿った。


 何かあっただろうか。こっちが聞きたいくらいである。


 そんなことより、震えすぎて肩が疲れている。息もなぜか苦しい。首にめちゃくちゃに巻いたマフラーが、今は邪魔だ。


 そこで葉月は唐突に、たった三時間くらい前のある場面を思い出した。

 狭苦しいカラオケの部屋と、充満した暖房の空気と、やかましくスピーカーから飛んでくる、聞いたこともない誰かの歌と、眩しく色のきつい、非現実的な照明。


 味のしない飲み物。


 ああ、

 何だか、思い出せる気がする。

 葉月の目の前には再び、あのカラオケボックスの一室が現れた。

 あの時は、そうだ、ウーロンハイを飲んでいた。


 まだそこまで酒の回っていない三杯目で、ウーロンハイの味は微妙だった。

 大学に入ってすぐ、葉月は「酒の飲める後輩」として重宝された。


 彼が入った東北を代表する大学は、偏差値的には国内トップクラスで、特に化学の分野ではノーベル賞受賞者も輩出している名門校だった。


 新入生歓迎の時期、葉月はバンドサークルに誘われた。音楽は大学でもやりたいと思っていたので、あっさり入部は決定した。パートは基本的にエレキギターとキーボードを担当した。


 誘われたらその都度バンドを結成し、文化祭などで披露した後は解散するもよし、同じバンドを続けるもよしというゆるい方針のサークルだった。そのゆるさも気に入った。


 飲み会は、ことあるごとに開かれた。文化祭の打ち上げは全部員でやったし、部内でのライブ後はバンド単位でそれぞれのお疲れ会があった。


 今回は「クリスマスイブ・イブの会」だった。つまり十二月二十三日、イブや当日は帰省やら何やらで集まれない人に限って、この日に集まってしまおうという企画だ。


 例年この会は、クリスマスやイブの会より参加者が多いことで有名である。理由は二つ。


 第一に、このサークルにはなぜか毎年、地元の人が少ないこと。帰省でクリスマスイブや当日に仙台を離れる人は、確かに結構多い。


 しかしそれより大きな要因は二つ目。

 それは、イブとクリスマス本番の二日間に、“別の予定”がある人が多いことだ。


 全く羨ましい。バンドマンというのはなぜ、こうも無条件にモテるのだろう。時期を問わず、葉月の所属しているサークルではいわゆる部内恋愛的なことが頻繁に起きている。


 だから「そういう」やつらは、二十三日の「イブ・イブの会」にこぞって来るわけだ。「本ちゃん」の二日間にその人たちが何して過ごしているかは、想像に難くない。


 葉月は、そちら側の人間ではなかった。

 帰省だって別に早くすれば良かったのだが、特に理由もなくタイミングを逃した。


 そういうわけで、彼は「イブ・イブの会」に出席するほかなくなった。いやもちろん「本ちゃん」の二日間に参加することも物理的にはできたが、行けば何かに負ける気がした。


「あれ、お酒減ってないじゃん」

 ふいに隣から、距離に対して大きすぎる声が聞こえてきた。

「減ってますよ、減ってます」

 カラオケボックスの一室にしては、見たこともないほど広い部屋だった。一段上がったステージもあったし、モニターも二つあるパーティールームというやつだ。


 にもかかわらず、人口密度はかなり高かった。一つの長椅子に十人以上座っているせいで、どう頑張っても隣の人と肘をぶつけたり、くっついたりしながら座らなくてはならなかった。


「何飲んでるの?」

 いつの間にか右隣にいたのは、一個上の先輩ボーカリスト・宮城那奈みやぎななだ。

 サークルの中でもだいぶ飛び抜けた歌唱力の持ち主で、実力はあの石神翔太に勝るとも劣らないと思う。だからなのか、複数のバンドに引っ張りだこのイメージがある。


 彼女といえば、いつもショートの髪型、真っ白な肌、よほど暑い日以外は大体着ているライダースのジャケットなど、トレードマークの多い人でもある。

「もしやウーロン茶?」

 ぐいと真正面から見られて、つい顔を背けてしまった。


 近くで見ても、顔の整った人だった。ここまでショートの似合う人がいるだろうか?

 歌声だけでなく容姿にも恵まれた逸材。「神は二物を与えず」なんて嘘だったんだ、と初めて彼女を見た時に思った。


「ウーロンハイですよ、すごい薄いです」

「ちょっと飲ましてよ」

 もうそこそこ酔っているようだ。ナナ先輩のアルコール好きは、部内では有名である。

 すでに真っ赤な顔を寄せ、迷いなく葉月のジョッキを横取りした。


「あちょっと」

「あー、確かに薄い。これじゃ足りないよねぇ」

 しかし飲みっぷりはやけに良くて、激薄のウーロンハイも美味しそうに見えてしまう。

 まるで女優だ。テレビのCMに出て歌っているナナ先輩の姿は、なぜか容易に想像できた。

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