二十一歳 その6
「イケメンシェフいなかったなあーー!」
「そう簡単にはいかないよね」
外は来た時より寒くなって、ビルの間を吹きすさぶ風は乾燥していた。並木のカサカサ揺れる音は、空気の冷たさを強調するようだった。
しかしそんなことなど忘れさせる景色が、可奈子たちを待ち受けていた。
クリスマスの時期に丸の内に来るのは初めてだ。まさかこのオフィス街に、こうも鮮やかな飾り付けがされているなんて思わなかった。
店を出ると正面に、早速LEDを綺麗に纏った街路樹があった。
「でもここは途中だからね、もっと端っこに行こう」
ワクワクを抑えきれず、可奈子たちはほとんど走って移動した。東京駅の方面に、人にぶつからない程度にまっすぐ進んだ。
見上げても先の見えない高い木々が、今は金色に輝きながら流れていく。
写真を撮る人、ベンチに腰掛けて周りを眺める人、すれ違う人々はみんなクリスマスの特別な雰囲気に包まれて楽しそうだった。
自分は今どうだろう。嬉しそうな顔をしているだろうか。
ガラスのショーケースに映る自分の姿は、どうもよく見えない。ただ電飾が眩いばかりに反射して飛んで行くだけだ。
そのうち、イルミネーションの密度が高くなってきた。何かの中心地に向かっているような気配がある。
「おー、だいぶ良い感じよ!」
ミカが突然振り返りながら言った。可奈子も来た道を振り返る。
店から見た時の何倍もの木々が、ずっと奥までずらりと並んでいた。遠近法のお手本みたいに規則的に配置された並木には、圧倒的な形式美、みたいなものを感じた。
「うわ——綺麗」
自然と口をついて出た、ほとんど溜め息みたいな感想だ。
「これ見たいがために丸の内にしたみたいなとこあるよね」
ミカは誇らしげに言った。
「やっぱすごい、人間本当にすごいものを目の前にすると、何も言えなくなるわ」
「うん、ずっと見てたくなっちゃう」
可奈子はうっとりした声で言った。
一日の締めとしては最高の眺めだった。誰かとここまで豪華なイルミネーションを見ることは、東京に来てからはなかった気がする。
「——ねえ、可奈子」
突然左から声がした。
改まって名前を呼んでくるだけでも違和感満載だったが、それ以上に彼女の声が緊張していたのが気になった。
驚いて顔を見ると、表情はいつも通りのミカだった。
「何?」
「私たちもうさ、ぼちぼち七、八年の付き合いじゃない」
「もうそんなになるのか」
「だからね、何となく分かるわけよ」
ミカは横目でちらりと、可奈子の方向を見た。目は合わなかったが、なぜか視線は感じた。
「わ、分かるって?」
今度こそ彼女の顔は真横を向いた。視界の隅に、うっすらした笑顔が見える。
「——すっとぼけてるの?」
可奈子も目を細めて、首は動かさずにミカを見据えた。
じっと、目の周りに力を込めて。
「えっと——それは睨んでるつもり?」
ミカは眉間にしわを寄せた。
「そうですが」
「できてないね」
「睨んでるつもりが伝わっただけ成長したかな」
可奈子はふふ、と満足げに笑って一息ついた。
ミカは珍しく、優しい声で言った。
「嘘ついてるんじゃないの、可奈子」
「嘘?何のこと?」
「もしかして、自覚ない?」
ミカは可奈子の目の前に移動し、正面から顔をまじまじと見てきた。思わず反射的に目をそらした。
「ああ、もう無意識なのかな?重症だね」
冗談でも言い出したかと思ったが、点滅し始めたイルミネーションに照らされるミカの表情は、真剣そのものだった。
「ど、どういうこと?」
「それは本当のトーンだね。いや私だって直感でしかないんだけどさ——」
当たってたら結構大事なことだからあえて言うよ、などと前置きをして、ミカは囁くように言った。
「未練を感じるっていうか」
「未練?」
思ってもみない単語だった。
「美味しいもの食べる、綺麗な景色を見る、そういうことする度に、何か感じるのよ。これあの人がいたらどんなだろうなあ、みたいな雰囲気?」
「い、いやいや、そんなこと考えてないよ」
可奈子は両手を振って否定した。本当にそんなつもりはなかった。
「それはハズレだよ。ミカの考えすぎだね」
「そうかなあ」
「だって未練とか全然ないもん。その話今回しなかったけど、元彼はそもそも、私から別れようって言ったんだよ」
予想に反してミカは、少しも意外そうな顔をせず頷いた。
「うん、それはそんなとこだろうと思った。でも私はね、問題はもうちょい前なんじゃないかと思うよ」
「もうちょい前——?」
イルミネーションの不規則な点滅は、相変わらずミカの表情を片側から映して消していく。
可奈子は胸の奥の漠然とした不安のようなものが、じりじりと動き出すのを感じた。
奏音がこんなに速く歩くのを見たことはなかった。
もし手を握っていなかったら、どこではぐれていたかも分からない。彼女は何かのために急いでいるように見えた。
ケヤキ並木も、当然次々と視界を流れて行った。遠くにあると思っていた木は、すぐ頭上に移動していた。
「ねえ奏音、何か速くない?」
「そう?」
こちらを向かないから、ほとんど声が聞こえない。でも彼女は多分、まともには答えなかった。
どこに急いでいるのかは分からないまま、かなりの距離を歩いた。後ろをちらりと見れば、相当な数のイルミネーションがずらりと並んでいた。合わせ鏡でも見ているみたいに規則的に配置された木々の様子には、どこか様式美的なものを感じる。
「うーわ、めっちゃ綺麗だぞ」
すると奏音のペースが少しずつ下がった。前を見ると、並木の途切れる地点が見えた。
「この辺で止まろう」
そして葉月は、手を繋いだまま奏音と並んだ。邪魔にならないよう道路寄りの歩道の隅で立ち止まり、ようやく葉月たちはイルミネーションを見上げた。
「そろそろだと思うんだ」
奏音のはっきりした声が久しぶりに聞こえた。
「そろそろ?」
どんな顔をしているだろうと彼女の方を見ると、数秒だけウキウキを懸命に抑えるような、子供みたいな笑顔がやんわりした光で浮かび上がって見えた。
それが、次の瞬間には消えた。
周りが暗闇に包まれた。並木の電飾の光が全て、一斉に消えたのだ。
何かのアクシデントではないことは、辺りの空気を見れば分かった。
これは、と息を飲む。
「来るよ」
奏音はすっと、葉月の腕を少しだけ自分のそばに寄せた。
緊張が指から伝わってきた。伝染しそうになる。何の緊張なのかは分からなかった。
そして、消えた時と同じように、一斉にイルミネーションが点灯した。
全く同時に、金色に輝くケヤキ並木がずっと奥まで出現したのだ。
「おおおー!」
葉月は思わず感激の声を上げ、顔の前で手を叩いた。
奏音も目を丸くして、葉月に倣って拍手していた。
「すごい、一気に点くと感動的に綺麗だな」
「これ『スターライトトウィンクル』って言うんだって」
「ちょっと絶妙にダサい所がいい!」
周りの歓声やどよめきも、このイルミネーションを盛り上げる演出になった。
この雰囲気、何かに似ている。みんなが同じものを見上げて、光の鮮やかさを楽しむイベントって——。
花火大会だ。
あっちはすぐに光が消えるが、目の前の電飾はずっと点いている。違いはそれくらいなんじゃないか。
「いやー、これ見てみたかったんだよ、来れて良かった」
奏音は満足そうな溜め息をついた。葉月はただ頷いた。同感だった。
道を行き交う人だけが動いていて、葉月たちの時間は止まっているように思えた。視界にはいっぱいの電球の光があるだけで、あとは背景のようだった。
「ところでね」
突然右から声がした。
彼女の声はやっぱり緊張していた。さっき指先で感じたのよりも、明らかな声の震えだった。
「私最近ずっとしたかった話があるんだけど」
葉月は目に映る景色から視線を逸さなかった。
奏音を直に見るのがなぜか、どこか怖かったのかもしれない。
「どんな?」
「葉月、他に好きな人できたんじゃないかなって」
数秒前からの嫌な予感は的中した。周りの音や景色は途端にシャットアウトされる。
あまりにも唐突な話題だった。奏音の目を見て、葉月は返答に困った。
「な、そんなわけないじゃん。どうしてそんなこと言うの」
「何かね——そんな気がするんだ。服を見てても美味しいもの食べてても、微妙に心ここにあらずっていうか——」
「それはないって、オレはずっと変わんないよ」
いきなり何を言い出すんだ、と言いたかったが、彼女は隙なく次のセリフを投げてきた。
「そう?私の勘が外れてるだけかな?」
「そうだよ、勘で判断されたらたまんないし」
全て本音だった。この一年半、奏音以外の人を恋愛対象として見たことなどなかった。
「私も——何か面倒臭い人みたいになるの嫌だし、あんまりこういう話したくない、だけど——ここ数週間とかの話じゃなくて。もちろん葉月はそういうことする人じゃないって思ってるし、信頼してるんだけどね——何かどうも、違和感があるんだ」
本当にいきなりすぎる。脳の処理が追いついていない。
「それは気のせいだよ」
「何かね——見えてくるんだよ、もう一人の誰かが」
「……もう一人?」
何より葉月の背筋を凍らせたのは、奏音に一切、彼を責めようとする意思が感じられなかったことだ。それはまるで起こってしまった事故を残念に思うような、諦めのニュアンスさえ伝わってくる口調だった。
もし正面から怒りに任せて責めてくれたなら、その勢いで否定し切ることができるだろう。しかしこれでは言い返すこともできない。
「葉月の中にはもう別の誰かがいて、私は何しても行けないところで、ずっと葉月に影響与えてる感じがする。それが過去の中にいたら何も問題ないんだけど——」
奏音はわずかに首を傾げた。ショートの髪がはらりと揺れる。
「そうではないんじゃないかな。葉月、葉月にはもっと、ピッタリくる人がいる気がしちゃうんだよ。私は毎回、合わない部分の余白を見ちゃう」
葉月には理解できない言葉の連続だった。これまであんなに上手くやってきたはずなのに、彼女が同じように感じていなかったことがショックでしかなかった。
「——心当たり、ない?」
あまりにも真っ直ぐな質問だった。その力の強さに葉月はたじろいだ。
何とか彼女に分かってもらえる説明を用意しようとした。言葉を選んで、いきなりの動揺にも耐え、この会話を繋ごうとした。
しかし考えすぎた。時間がかかりすぎた。奏音はまぶたを閉じる。
「ない、全然心当たりない」
焦ったように言っても意味はなかった。目を開けた彼女は今度瞬きもせず、納得した声で言った。
「葉月がそう言うなら本当だね」
風で揺れるイルミネーションの光は今、奏音の頬をまだらに照らしていた。
ちらちらと見えたり見えなかったりする顔からは、ほとんど感情が読み取れなかった。
駄目だ、この流れは絶対に。
「でも、その方が罪深い、かも」
奏音は初めて俯いた。語尾は周囲の人々の声に紛れてほとんど消えていた。
ここで何か言わなければ取り返しがつかなくなると、直感で分かっていた。分かっていながら葉月は、かけるべき言葉を最後まで思いつくことができなかった。
「誰も悪くないと思う。だけど」
彼女はゆっくりと深呼吸をする。少しだけ、何か挟む言葉を考える時間が与えられた。
しかし、葉月の頭は全く働かなかった。
「別れよう」
体中が痺れて動かなかった。
彼女の中では既に、何もかも終わっていたのかもしれない。一度壊したら取り返しのつかないものを、葉月はとうの昔に粉々にしていたのかもしれない。
しかし、こんなことが起こりうるだろうか。何の前兆もなく。
奏音はゆっくり顔を上げた。
彼女は、理解できないほど清々しい表情をしていた。
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