終章
お見舞い ~浮上~
信介は家に戻る前に、同じように入院している二人のお見舞いを申請した。それは受理される。
実隆の病室に向かっていた。背後から急に肩を叩かれる。
「よう、信介」
その声は
「治ったのか。ミシファイカイリーに
その反応に実隆は「くくく」と笑う。
「これは義眼さ。ミスカトニック大学の技術はすごいぜ。義眼にもかかわらず、視力もあるんだ。
裸眼だとさすがに違和感があるんで、眼鏡をかけて誤魔化しているんだけどな」
そう言うと、眼鏡を外す。確かに、よく見ると、目というには潤いがなく、硬質的なものに見えた。
実隆はその義眼に直接手で触れる。ジジジと
「こうやれば、視界の範囲を調整できるのさ。結構、便利だぜ」
そう言って実隆は笑う。だが、信介は虚勢を張っているように感じた。
片目を失っているのだ。緊急事態が続いた山行の途中ならともかく、落ち着いた今ではその事実が彼を悩ましているはずだった。それにも関わらず、虚勢を張って笑っている。
信介の胸には彼を巻き込んだという罪悪感がチクチクと針を指すような痛みを感じざるを得ない。
「出歩いて大丈夫なのか?」
罪悪感を紛らわすように、信介はどうでもいい質問をした。
それに対し、実隆は親指で背後を指す。そこにあったのは便所だった。
「ちょっと腹が痛くてな」
その言葉を聞いて、信介は深々とため息を吐く。
「相変わらずかよ」
実隆の病室でしばらく話をしたのち、信介は病室を後にする。
元気そうだった。いいことだ。喜ばしい。
しかし、それでも信介の胸にはチクリと痛むものを感じる。実隆は信介と同行した登山で、片目を失ったのだ。強い責任と後悔が幾度となく押し寄せていた。
泰彦は病室のベッドに座ってぼんやりと空を眺めていた。ベッドの上にはテーブルが出されたままになっており、その上には昼食であろう料理が丸々と残っている。
山行中も食い意地の張っていた泰彦にしては意外なことだった。
「よぉ、飯はまだなのかい」
信介が声をかけると、泰彦は振り返り、いつものようにニコニコとした笑顔を見せる。笑ったまま泰彦は答える。
「丹沢から帰ってから、ほとんど食欲がなくてね。どうしても、食べようとする気になれないんだ」
笑顔は変わらないが、どこか自嘲気味なものに見えてならない。
「いや、丹沢というよりは、地球周回軌道から、と言った方がいいかもしれないな」
泰彦は自身の体感で、何十年もの間、地球周回軌道を周り続けたという。それを錯覚だ、妄想だということはたやすい。だが、信介も実隆も時間を超越する経験をしたのだ。そのことを考えると、あながち否定することもできないように思えた。
その間、彼は呼吸もせず食事もせずに生き永らえている。帰ってきた今となっても、そこで適応した肉体が戻ることができず、省エネルギーの暮らしを余儀なくされているようだ。
「いわば俺は宇宙人になったのさ。ハハハ」
笑い声を漏らすが、どうにも力がない。
泰彦は知っていたのだ。イタカによって大気圏外に連れ去られ、そこで適応したものは、例え地上に戻ったとしても、もはや長くはないということを。
食事も呼吸も必要とせず、極寒の地で生きられるものにとって、温かく生命力に溢れた地上はそれだけで猛毒なのだ。
「とはいえ、このままだと不便だよ。カレーだって食べれないんじゃねぇ。
ミスカトニックの知人に頼んで、イタカに関する文献を集めてるんだ。そのうち、解決策も見つかるさ」
信介は泰彦とその後も少し話をして、その場を離れる。
泰彦も変わっていた。そのことに信介の心はヒリヒリと痛む。結局、誰一人守り切ることはできなかったのだ。
またしても、信介だけがほとんど負傷をせずに帰ってきていた。そのことに、どこか罪悪感のようなものを抱いている。
病院を後にして、信介は自然と海辺へと足が向かっていた。
砂浜をとぼとぼと歩く。太平洋の向う側に目を向けた。
当然のことではあるが、ルルイエの家が見えることはない。
信介はラジオをつけた。ここ最近のニュースといえば、ルルイエの浮上である。
結局、丹沢は崩れ去った。それに呼応するように起きたのはルルイエの浮上である。突如として現れた、人類以外の文明の痕跡に世界中の人々は色めきだった。だが、いまだクトゥルーは沈黙している。
ただ、ルルイエの浮上だけが事実として存在する。
丹沢に行かなければ。ショゴスを刺激して、緑色のブロックを壊さなければ。
こんなことにはならなかったのだろうか。
何度となく自問自答したその答えを、信介は太平洋の向こうに求めていた。
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