⑩悪夢と進退と
信介は泰彦に押し切られて、夢の内容を説明した。意外にも、といっていいだろうか、泰彦は真剣に聞いている。いや、少し、というか、かなりドン引きしているようだった。話を聞き終った時には、すっかり青ざめている。
「いや、それ、思ったよりアレだな。ヤバいアレじゃないか」
何かを理解したようだが、思い切り腰が引けているようだ。何かを恐れている。
それに対し、「何かわかったんなら、言え」と信介が声を荒げた。渋々、泰彦は説明を始めようとする。
「なんていうか、それさあ……」
そこまで言いかけて、泰彦は周囲の様子を見渡した。信介と実隆がテントの片づけをしているだけだ。
「誰もいねぇよ」と信介がしびれを切らす。
「それ、クトゥルーだよ。絶対。緑色の石で組み上げられた都市はルルイエだ。ルルイエの家だよ。
信介、お前、その辺の知識、全然ないんだよな。それで、そんな詳細に語られるってことは、この土地は本当にクトゥルーの影響があるのか……。
えぇー、だって丹沢だぜ」
クトゥルー。その名前はミスカトニック大学と関わるようになってから何度も聞いていた。
以前、房総で遭遇した得体の知れない声の正体がクトゥルーであるかもしれないということも知っている。
だが、その姿は知らなかった。いや、夢で何度か見て知ってはいたのだが、泰彦に言語化されて初めてそれが結びついた。悪夢の漠然とした恐怖感と、実際に遭遇した怪異が同一化されたことで、より具体的な恐怖感が沸き起こる。
「泰彦もビビッちまってるし、雪も積もってる。もうこの山行は終わりだ。引き返すしかねえな」
その言葉に泰彦は頷くが、実隆が疑問を呈した。
「引き返すっていうけどさ、昨日の象人間が退路を崩しているぞ。これは戻るより、先へ進む方が良さそうだ」
実隆は落ち着いた物言いだったが、信介と泰彦の顔は青くなる。幻のようなチャウグナー=フォーンと遭遇しただけの実隆に対して、信介と泰彦は怪異に対する知識と経験が多く、そのためにより強い恐れを抱いていたのだ。
信介は引き返す道を確認する。周辺の木が複雑に折れ曲がっており、土砂崩れのような箇所がたびたびある。それは昨日通った道を覆っており、同じルートは使えそうにない。
「確かに、これは無理か。なら、新しいルートを考えないとな」
信介が地図に目をやると、実隆が背後に近寄り、新たなルートを指でなぞっていく。
それは当初の目的地であった祠の一つを通りつつ、最短で本来の登山コースへと戻ることができるものだった。
「これなら、泰彦を連れていても戻れるんじゃないか」
確かに無理のないルートだった。
今回の登山ルートを信介が提案した時から、実隆はいくつもの脱出ルートを考えていたのだろう。
だが、それでも問題はある。
「この雪をどう踏破する? 一応、俺はお守り代わりに軽アイゼンは持ってきてはいるが」
信介が二人に尋ねる。
雪山を歩くには、坂道において、いかに雪での滑りを止めるかが重要になる。アイゼンは靴底に爪を装着する登山具であり、ほかにチェーンスパイクなどを付けることもある。
「俺も持っているよ。やっぱり軽アイゼンだけど」
実隆ももしものための用心はしていたようだ。
それに対し、泰彦がおずおずと発言する。
「俺は何も持っていない」
それに対し、信介はわざとらしくため息を吐く。
「そんなことだろうと思ったぜ。
泰彦、俺の軽アイゼンはお前が使え。俺はなくても雪山を歩けるからな」
そう言って、泰彦の靴に軽アイゼンを装着した。しばらく、近くで雪原の歩き方をレクチャーする。
そして、再び彼らは出発した。
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