第199話「朝、七時前」
「月が出て明るくなるのを待ってお帰りなさい。山道には栗のいががたくさん落ちていますから」
朝、七時前。まだ日も昇らない時刻に家を出たとき、玄関でばったり会った母さんは僕に向かってそう言った。その口調は昨夜のそれとほとんど変わらない。僕は靴を履く手を止めて思わず振り返った。母は相変わらず台所に立って朝食の準備をしていた。僕は何も言わず黙ってドアを開けると、そっと音を立てないように気をつけて外に出た。朝一番の電車に乗るべく、駅へ向かって歩き出す。今日もいい天気になりそうだ。空を見上げれば澄んだ青が広がっていて雲ひとつない。空気が少しひんやりして気持ちいいくらいだ。もうすっかり秋になったのだなと思う。季節が移り変わっていくスピードは速い。一年のうちたった三ヶ月しかない冬があっという間にやって来て春が終わると同時にまたすぐに去って行く。僕はこの速さに追いつくことなんかできやしない。
駅のホームに辿り着くとちょうど電車が来たところだった。僕はそれに乗り込むとほっとして座席に腰掛けた。朝の早い時間なので車内はまだそれほど混んではいない。それでも座れないほどではなかったけれど、僕はつり革を掴むことにした。いつもと同じ電車に乗って同じ場所へ向かう。そんな日々がこれからもずっと続くのだと思っていた。それがいつの間にか当たり前になっていた。
あれは去年の十月の終わり頃のことだっただろうか。僕たちは三人揃って大学の講義を受けていた。講義といっても、出席さえすれば単位が取れてしまうような内容で、学生の大半は真面目に出席していなかったようだ。僕たちだってもちろんそのうちの一人で、いつものように教室の後ろの方に座って教授が来るまでの間おしゃべりをして過ごしていた。
「ねえ、今日の夕飯何にする?」
向かい側に座っていた彼女はそう言って僕の顔を覗き込んできた。
「そうだね……カレーとかどう? ほら、この間テレビで見たじゃん。ジャガイモごろごろ入った辛口のやつ」
「ああ、いいわね! じゃあ私作るよ!」
「えー、いいよ別に俺が作っても。お前の方が料理うまいし」
「だめだめ、私が作りたいの。せっかくだからさ、今日は二人でカレー作ろうよ。そして明日はみんなで食べよう」
「そうだなぁ……」
僕はちらりと彼女の横顔を見た。ショートカットにした髪がさらさら揺れている。彼女もこっちを向いていた。目が合うと微笑みかけてくる。僕は慌てて目をそらした。心臓の鼓動が速くなっていく。どうしてこんなに落ち着かない気分になるのか自分でもよくわからない。ただなんとなく恥ずかしくてまともに見つめ返すことができなかった。
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