第154話「男と新聞記事」

戦争で首都は崩壊したが、自然の山河はもとどおりに存在し、町には春がめぐり、草木が深々と茂っている。混乱した時局に悲しみを誘われ、目を喜ばせるはずの美しい花を見てもはらはらと涙がこぼれ落ち、家族や友人との別離をうらめしく思う気持ちから、耳を楽しませるはずの鳥のさえずりを聞いてもはっと胸騒ぎがする。

その日、私は朝早く起きて、窓辺で煙草をふかしていた。空はまだ暗かった。だがもうじき夜明けだろうと思った。私の部屋からは、庭の木々の向こうに隣の家が見える。あの家の二階の一室に、私の恋人が住んでいた。私は彼女のことを思っていたのだ。

ふいに背後で物音がして振り向くと、階段の下に一人の男が立っていた。男は黒い外套を着ていて、顔は見えない。ただ、頭巾のついた長い帽子をかぶっていた。私はぎょっとして立ちあがった。しかし男は何も言わない。黙って突っ立っているだけだ。どうやらこの建物の下働きらしい。男の足許には、何枚かの紙が落ちている。私はそれを拾いあげて読んだ。それは新聞だった。日付を見ると二年前のものだ。そしてそこにはこう書かれていた。

「一月七日午前四時頃、東京警視庁本部ビル屋上において、謎の自殺者あり」

私は震えた。まさかと思った。だが確かにそう書いてある。その記事によると、その男は前日の午後六時に本部ビルの屋上に上がって行き、そこから飛び降りたらしい。なぜそんなことになったのか分からないが、ともかくその時刻に彼は死んだのだ。彼の死の原因について警察はいろいろ推測しているようだったが、それを読む気になれなかった。

私は急に恐ろしくなった。あの人は今頃どうしているだろうか? あれ以来一度も会っていないが、生きているのか死んでしまったのかも知らない。とにかく私は恋人の死を知って、ひどく動揺した。彼女はいったいどうしてあんな恐ろしい事件に巻き込まれたのだろう? 警察では、彼女を殺した犯人を捕まえるために懸命な捜査をしているようだ。だがまだ捕まらないらしい。私は不安になった。もし彼女が殺されたのだとしたら、自分もいつ殺されるかもしれない。

ふと私は男を見ると、男はじっとこちらを見つめていた。私は怖くなって逃げ出した。そして自分の部屋に駆け込み、鍵をかけて寝台の中に潜り込んだ。外界から遮断されたことで、ようやく安心することができた。私は恐怖から逃れようと必死になって眠ろうとしたが、なかなか寝つけなかった。

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