桜の木の下には

三村小稲

第1話

 結局のところ、私達は二人で一つの完全だった。


 無論、それぞれ手足も内臓も等し並みであり、思考も感情もすべて各自のものだったけれど、それでも私達は二人揃って初めてようやく完全体と言えた。その発想は私達の持つ不安や劣等感、または近親憎悪によるものではなく百科事典から得たもので、その記述は私達を少なからず絶望的な気持ちにさせた。


 辞典には「双生児には一卵性と二卵性の二種があり、一卵性は一個の受精卵が発生の途上で二個に分裂したものである」と明記されていた。即ち分裂した後に受精卵はそれぞれ一人前に成長していく、と。だから例え私達のような「一卵性」の双子で、五体満足で生まれたにしても元々「一個」であったと思うと、どうしたって何かが欠落しているような気がしてならなかった。


 双子を「姉」と「妹」というポジションに分けるのは分娩の順だから、戸籍上「姉」の立場に立っているのは私ということになっているが、私達姉妹は物心ついた時からそのような関係性を一切持たずに育てられた。便宜上の姉や妹という立場はもとより、姉妹という概念さえ無視して。従って私達は自分たちが「姉妹」であるというより、むしろ自分の不足を補う血であり肉であるような感覚を持っていた。それも遺伝学的に「同一の個体」であるという根拠において。


 私達の父親はかつて大学で英文学を教えた研究者であり、すでに高齢だったが、その割にはがっちりとした体躯をして、さすがに髪は白かったけれど、めがねの奥の目も衰えることなく知性の光を宿していた。


 母親は私達が三歳の時に心臓発作で死んだ。写真の中で父と並んだ母は信じがたいほど若く、はかなげで、ずいぶんと美しい人だった。


 親子ほども年の離れた彼らがどういった経緯で結婚したのかは、知らない。これといった親戚付き合いもないし、それ自体が禁忌なのか誰の口からも語られたことがないので、私達にとって母親は物語の中にしか存在しないようなファンタジーめいたものだった。


 母の死後、私達を実際に育てたのは父ではなく家政婦の岡田さんだった。


 岡田さんは独身でひどく痩せていて、表情に乏しい陰気な人だった。


 彼女は自分の立場をわきまえ、無口で従順で、父の命令にそのやり方に逆らうことのない言うなれば非常に古いタイプのお手伝いさんで、父からの信頼を得て母の死後は住み込みとなった。


 岡田さんがどういう経緯でこのうちのお手伝いとなり、生涯のほとんどをこの家で過ごすことになったのかは明確な理由は分からないけれど、岡田さんの陰気さと「住み込みのお手伝い」「生涯独身」「痩せギスの妙齢の婦人」といった時代錯誤な存在そのものがこの家には必要不可欠だった。


 実際、このうちには岡田さんは本当に必要な存在で、恐らくは彼女がいなければ私達三人はあっと言う間に飢え死にするか、家はゴミ屋敷となるか、でなければアイデンティティを失って人格が崩壊しているだろう。


 家事をし、温かみは感じないが何くれとなく世話をしてくれる岡田さんがいないと生活が成り立たないし、父に関して言えば岡田さんがいないとヒエラルキーの頂点に立つことができない。父にとって岡田さんはまさに封建時代の「使用人」で、その使用人がいるからこその君主制だった。


 父はイギリス趣味の勝った紳士然とした人だが、家での気質はひどく冷淡で、まず岡田さんに私達双子を、まだたった三歳の子供を「ちゃん」づけで呼ぶことを禁じ、どちらの事も滅多なことでは「抱いて」はならないこと、勿論打ってもいけないこと、常に「一定の距離」を持って接することなどを申し渡していた。


 この「一定の距離」というのは岡田さんと私達の立場の差を明確にするもので、だから岡田さんは母親同然に私達双子を世話したのに、あくまでもそのポジションは「使用人」であり、私「聡明」を「ソウさん」、片割れの「優美」を「ユウさん」と呼び、「雇用主の娘」の域を越えることは決してなく、父もまたそれを許すことはなかった。


 そんな父が私達に施した教育は甚だ奇妙なものだった。


 まず父は私達双子を「分ける」ことから始め、五歳になるとユウビはピアノを、私はヴァイオリンを習わされ、その後も私は学習塾、ユウビには家庭教師。私には弓道、ユウビにはバレエといった具合にまるで二人を引き離さんが如く別々な行動をとらせた。


 そのくせ父は私達に必ず「お揃い」の服を着せるよう岡田さんに指示し、靴下から下着に至るまでなにもかもが完璧に同じものを所有し、同じであるが故に所有権が明確ではなく、だから私達は「自分のもの」と呼べるものを何も持ってはいなかった。


 それに、同じ服装をすることによって誇張される「双子」の特徴は周囲から好奇の視線を集めるだけで決して愉快なものではなかった。


 そんな父が私達から遠ざけたがったのが「教師」だった。


 父は教師というものをまったく信用しておらず、家庭訪問で担任教師が訪れた際には愛想のいい顔で毒を盛るような嫌味を言い、普段から私達にも「教師のように低脳な人間の指図など聞く必要はない」と言っていた。


「義務教育だというから仕方なく学校に行かせているだけだ。学校などに一体なにを教えられるというのか。あそこは学びの場ではなく、滅びの場だ。その証拠に戦後何十年たっても何も変わらない。お前達はそんなくだらない人間に従う必要はないし、媚びることもしてはならない。お前達に必要な教師は私が選ぶ。だから誰のことも尊敬させられないように心を凛として臨みなさい」


 それを聞く度に私はいつもやりきれない気持ちになった。疑問や反論ではなく、なにかとても重苦しいものが胸を塞いでしまう。父はいつでも高圧的だった。


 学校で友人を作ることも禁じていた父はそうして私達を世界から隔離した。


 父はどういうわけだか私達を「特別」だと思いたがる傾向にあり、自分の娘達は他の誰とも違うと信じていた。だから父は他の子供と自分の娘が「付き合うに足る」とは思っておらず、ともすればあからさまに嫌な顔をすることもあった。


 そしてユウビにピアノやバレエなどの女の子らしい、ともすれば貴族的な芸事ばかり習わせ、その名の通り「優美」さを求め、私には知性と教養の「聡明」さを求めた。が、なによりも父が私達に強いたのは絶対的な服従だった。


 そんな風だったから、私達が父の希望に沿わないことはほとんど罪悪だった。


 私はいかなる場合でも一番の成績をとらなければならず、もしそうでない時は父から信じられないほど冷たい目で睨みおろされ、


「お前は普段あんなに勉強しているのに、一番になれないのか。それなら、お前は本当は馬鹿だということだな」


 と言われた。


 見るのも汚らわしいというように手元の答案用紙を握りつぶすと屑篭へ放りこみ、「お前の実力がこの程度だったとはな」と鼻先で笑われるのはひどい屈辱だった。


 私は悔しさのあまり唇を噛み締め、決して泣くまいと努めた。叱られるよりも侮蔑されるほうが子供心にもひどくこたえた。


 一方、父は私の片割れには優雅さと可憐さと、お嬢様然とした女らしさ、それから天才と呼ばれるほどのピアノの腕を要求していた。


 実際ユウビに才能があったのかというと私には分からないが、父はそれを信じているようではあった。ユウビはひたすらレッスンに取り組み、父の命によりさまざまなコンクールに送り込まれ、上位入賞または奨励賞や特別賞を獲得した。


 が、入賞できないとなると途端に父は、


「お前には才能があると思ったが、見込み違いだったな」


 と、私にするのと同様に凍るように冷たい視線と言葉を浴びせた。


 そんな時ユウビは私と違って、決まってめそめそと父の前で泣いた。


 ユウビが泣くと父は黙ってそれを見つめる。大きな目からぼろぼろと涙が零れる様を、じっと。父は私が泣くと忌々しげに舌打ちをしたが、ユウビの前では決してそんなことはしない。ただ見つめるだけだ。鑑賞といってもいい。そして充分涙を流させ、謝罪の言葉をあたかも音楽を聴くように堪能し、懇願する様子を眺めてから「もう、いい」と言った。言われるとユウビはすぐに泣きやんだ。父の教育のおかげでこの頃からすでにユウビは「女」で、涙の効能を知っていた。


 風変わりな父と無口な使用人。閉鎖的な暮らし。家の中は常に暗く冷たく、静かだった。そんな環境だから私達にはお互いしかいなかった。ただ話しをするにも、笑うにも泣くにも私達には他に相手はなかった。それは時々、鏡に向かって独り言を言っているような錯覚があり、同時に多くを語らずとも互いの気持ちが瞬時に理解できるだけのシンクロを生み出す。すべて双子であるがゆえに。


 子供時代の私達は孤独であることを認識するには幼すぎた。が、しかし、今なら言える。私達は孤独だったのだ。そして、それはおそらく今でも。

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