第13話 焼失
地響きと部屋の揺れに態勢を崩していたら常茂が再度、赤子を奪いにきた。
綾は常茂を睨み、必死にどうやってここから逃げ出そうかと考えていた。
「その子は私と華子様の子供だ。一緒になれないのならこの世に未練もない」
「この子は貴方の子ではない!」
綾ははっきりと告げる。
あの赤子は正真正銘帝の子だ。それを誘拐しただけでも重罪だ。
何としても赤子を連れ帰らなくてはいけない。
常茂は綾の腕を引く。その目は憎しみを湛えている。
腕に抱く赤子が自分の子ではないとそれでも自分と華子様の子だと思い込みたかったのかもしれない。
もしかしたら安芸介を辞したときにでも挨拶に行ったのかもしれない。だが、帝の妃になった女性に簡単には会わせてもらえなくて断られたか、挨拶が出来ても御簾や几帳が幾重にもあり顔を見ることはおろか声すらも聞くことが出来なかったのかもしれない。
心の均等が壊れた常茂は自分と華子様が恋仲だという勝手な妄想に取りつかれてしまったのだろう。
常茂の行動は常軌を逸している。下手をしたら自ら手を下すかもしれないという恐怖の中、僅かな隙を探した。
「侍従に火をつけさせた。もうじきこの部屋も火に包まれるだろう」
ドーン、ドーンと先ほどから激しい音がする。
何が起こっているのか部屋を出て確認をしたいが、今は常茂から目を離すことは避けたい。この男と道連れなるなんてまっぴらごめんだ。
ドドーン。
更に大きな音がした。常茂が部屋の外に視線を移した。その瞬間、綾は常茂に体当たりした。常茂は反動で尻もちをつく。
綾は近くにあった脇息で常茂を何度か殴って、赤子を奪い返した。
常茂は額に手を当てて、その手を見た。額からは血が流れだしている。先ほど、脇息で殴ったときに怪我をしたのだ。手のひらにはべっとりと血がついていた。
綾は逃げ出そう立ち上がると今度は小袿の裾を掴まれた。
振り返るとニヤリと笑いながら、常茂が迫ってくる。
「お前も知りすぎたからな。ここで一緒に死ぬんだ」
綾は赤子を抱えたまま、必死に傍にあったものを手当たり次第に投げつける。
道具箱は常茂の脛に命中する。道具箱から硯や筆、文鎮などが飛び出て、常茂が立ち上がったときに文鎮を踏みつけてよろけた。座り込んだ常茂は立ち上がる様子はない。
その隙に綾は着ていた小袿を脱ぎ、片袖を引きちぎりそれで赤子を包み、更に几帳の布をいくつか引きちぎってそれで綾と赤子をしっかりと結ぶ。
「逃げられると思うのか。もうすぐここにも火が回ってくる」
のろのろと綾に迫ってくる常茂を睨みながら、綾は近くにあった几帳を常茂めがけて倒して走り出す。
バチバチという音が大きくなってきていた。
部屋を出て左を見るとすぐそばまで火の手が上がっていた。急いで右側の簀子縁を走る。
後ろから何か叫び声が聞こえてきたが無視して必死に走った。
残っていた侍女や下男たちもあちこちで火の手が上がっていることに気が付いて逃げ回っている。
すれ違う者たちとぶつかりながら、綾は顔を手拭いで隠して走り続けた。もう少しで建物から出られると言うところで、目の前にも火の手が上がった。炎が高く上がり、行く手を塞ぐ。
綾は後ろを振り返る。後ろの方はまだ火の手が迫っていない。急いで簀子縁に階がついているところまで戻り庭に出て庭の中央くらいまで走る。
建物から少し離れてから振り返った。炎が大きく立ち上がり、煙が屋敷内を充満しているのか転げ落ちるように下男や下女たちが屋敷から逃げ出してくるのが見えた。
貴族の屋敷は基本同じような造りだ。綾は冷静に建物を確認する。燃えて形が崩れかかっていたが、何とか分かった。
綾は門があるだろう方向へ走り出す。
何度か躓き、転びそうになりながらも必死に走る。
素足で走り続けているので、足を怪我しているようだが、すでに感覚がなくなってきていた。
それでも必死に足を動かした。
更に激しい音がして、火の粉が飛んでくる。走りながら建物をチラッとみると、先ほど綾と常茂がいた場所の屋根が崩れ落ちていた。
逃げ惑う人々の中に常茂と先ほどの侍従の姿は見えない。
綾は一瞬目を瞑る。常茂は死を覚悟していたのか。綾は更に走る速度を上げた。
門まで来ると、門にも火の手が上がっていた。別荘地として作られたためか屏は生垣になっていて、そこも火の手が上がっていて外に出られない。もう一度周囲を見渡すとかろうじて人が通れるくらいの隙間が門のところにあった。
(ここを通り過ぎるしかない)
綾は体に縛り付けていた赤子を確認する。綾は着ていた単衣の袖も引きちぎる。
それでさらに赤子を包み、火の手をあげる門の外をめがけて一気に走り出した。
門をくぐる時だけ熱いと感じた。髪が焦げる匂いがしたが気にしないで走り抜けた。
外に出ると急に冷たい風が吹いていた。
振り返ると建物は半分くらいがすでに元の形を成していない。
急に涙が出てきたが腕で拭ってさらに走る。追いかけてくる姿は見えないが、折角逃げ出せたのだから捕まるわけにはいかない。それに今立ち止まったら、もう動けない気がした。
出来るだけ建物から離れられるように走り続けていると遠くから馬が走ってくるのが見えた。傍には先程の下男の姿が見えた。騎乗していた人が馬から降りて、走ってくる。その顔を見て綾はその場にへたり込んだ。
「侍女殿、大丈夫ですか」
承香殿で見かけた護衛の人だった。
二人の横を十数人の騎馬が走り去っていく。あの屋敷に向かっているのが分かった。
護衛は綾の体に縛り付けていた赤子を見て驚いている。
「その赤子は!」
「どうか、どうか誰にも知られずに、私とこの子を大納言家へ連れて行ってください。お願いします」
それだけ言うと綾は気を失った。
「侍女殿!」
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