蜘蛛の匣(ハコ)~エレベーターの中に閉じ込められていたハエトリグモを助けたら恩返しされました。

黒猫虎

短編



       1



 ある日曜日。


 スーパーの買い出しから帰ってきてぼくたち夫婦は、自宅マンションのエレベーターに乗り込む。


 上にあがっていくエレベーターの中、ソレ丶丶を最初に発見したのは妻だった。



「このクモ、閉じ込められているのかな」



 妻が指差した場所――操作パネル付近をよく見ると、確かに小さな黒いクモがいる。


 エレベーターの養生ようじょうシートが少しめくれた部分だ。




 これはハエトリグモかな。


 糸で巣を張るのではなく、家の中をぴょんぴょんと跳び跳ねるタイプのクモだ。



「そうみたいだね。ぼく、助けてあげようかな」



 ぼくはクモが嫌いではない。


 害虫を食べてくれるクモは、どちらかというと「益虫」の方に分類カテゴライズされる。


 特に、このハエトリグモという生き物は女郎蜘蛛ジョロウグモのようにクモの巣を作らないし、アシダカグモのように足も長くないので見た目も気持ち悪くない。


 むしろカワイイとさえ思っていて、ぼくという人間にとってはほとんど害がない生き物だと認識している。



「ほっといたらいいんじゃない。自分で出ていくでしょ」


「えと。さすがに無理だと思うけど」



 突き放すような妻の発言に少し戸惑とまどうぼく。


 エレベーターのドアが開閉するのは人間が乗り降りするほんの数瞬。


 その間にハエトリグモが自分で「降りまーす」と出ていくことは不可能と思われた。



 でもこの発言はさすがぼくの妻。


 かなりドライな性格なのである。




 ぼくたちの部屋がある階にエレベーターが到着し、ドアが開く。


 妻が「降りよう」と急かす。



「助からなくても、それは自然の摂理というヤツよ」


「でもエレベーターは人間が造ったもので自然にないよ?」


「そこも含めて自然よ。人間だって自然の一部でしょ」


「えー、そうかな?」


「ほらっ、急がないとアタシの見たいテレビ始まっちゃう」



 この時は妻に急かされるまま、ハエトリグモをそのままにしてしまったのだった。





       2



 それから2日ふつか後の火曜日。


 仕事から帰宅してきたぼくは、ふと「あの時のハエトリグモはどうなったかな」と気になった。


 エレベーターに乗り込むと、さっそく操作パネル付近の養生シートの捲れ部分をチェックする。



(いた)



 まったく同じ場所から動いていなかった。



(もしかしてもう死んでいるのだろうか? エサも食べれてないだろうし)



 そっとつついてみる。



  ピクリ



 あっ。生きてる。


 もう一度つつくと、今度はノソノソと動いてすぐに止まった。



 相当に弱っているようだ。


 体の色もだいぶツヤが無いように見える。


 飢餓状態、もしくは脱水状態で干からびる寸前なのか。



 普段は触りたくても触れない、すばしっこいハエトリグモの表面に触れた感想は「硬いのに、体毛がありなめらか」という感じだ。


 例えるなら、皮膚の硬い猫――あなたに伝わるだろうか。




 さて、ぼくはこれより「クモ救出作戦」を開始しようと思う。


 しかし、これがなかなか思い通りにいかない。


 右手の人差し指でつついて左の手のひらに乗せようとするのだが、ダメだ。


 下手ヘタに力を入れたせいで彼(彼女?)を潰してしまっては、元も子もない。


 道具もないし、どうしよう……。




 あっ、そういえばマスクがあった。


 コロナ禍で装着を余儀なくされている、このマスク。


 ぼくはマスクの薄さとやわらかさを利用して、クモをエレベーターの内壁から引きはがし、そのままマスクの上に乗せることに成功した。



「よし!」



 思わずマスクを持ったまま小さくガッツポーズをしてしまう。


 ずっとドアを押さえていた右足をお役目から解放する。


 エレベーターを止めてしまっていたので他の階の住人達に迷惑をかけてしまっただろうか。


 まあ、きっと夜遅い時間なので大丈夫だろう。




 救出したハエトリグモはマスクの上でじっとしている。


 そうとう弱っているのだろう――ほとんど動かない彼(または彼女)をそっとマンションの裏にある原っぱの草の上にはなす。



 果たして、彼か彼女が復活して生き延びることはできるだろうか。


 もしかしたら、やはり無理なのかもしれない。


 クーラーの効いたエレベーターの中だからギリギリ生き延びていたところに、明日の朝に太陽が昇り、夏の日射しを浴びればすぐにからっからに乾燥してしまうかもしれない。



 でももし、ぼく自身があのハエトリグモだとしたら、最後にこの美しい自然の中で死ねて幸せと思うのではないか。


 自然の中で死ねば土にかえることもできる。




 自己満足に過ぎないかもしれないが、ぼくは小さな満足感とともにその場を後にした。





       3



 あのクモとのほんの僅かな交流から数年が過ぎた。


 ぼくの人生は困難におちいっていた。


 でもこの日本では、この世界の人間社会では、さして特別なことではないのかもしれない。


 

(とにかくお金がない)



 給料の良い仕事に就きたいと転職を繰り返したのだが、ふと気づくと悪い方悪い方へ、下流の方下流の方へと流されていたのだった。



(借金だらけだ)



 最近では生活費をローンで借りることが多くなった。


 消費者金融に手を出していないだけマシなのだろうか。



(また妻に哀しい思い、寂しい思いをさせてしまった)



 家に帰ればお金のことで妻から責められる。


 愛する妻にお金のことで悲しい思いをさせているという事実は、男にとって1番辛い。


 妻の夢だという対面キッチンのあるマンションへの引越しや、賃貸ではなく分譲マンションはついぞ手に入る見込みがない。


 ぼくたち夫婦に子どもはないが、子どもにオモチャを買ってあげられない親はきっとこんな気持ちなのかもしれない。


 獲物を狩れないダメなオス烙印らくいんというものがあれば、思わず自分自身に押したくなる。



(年下のくせに偉そうに)



 何度も転職を繰り返したしっぺ返しなのだろうか。


 今の上司は年下だ。


 年齢で上下関係を決めるのはおかしいという理屈は分かっているつもりだが、実際に年下の上司から偉そうに指示をうけたり激しい口調で注意を受けたりすると、ぼくの心は、暗い何かに確実にむしばまれていく感覚におちいっていく。



「年功序列を復活させます」



 ぼくがもし政治家に立候補するなら、公約にはそう書きたい所存である。





       4



 毎日ゆっくりと絶望していくぼくは、次第に死ぬことを考えるようになった。



 たとえば、地上から離れた少し高い場所に登ると、自然と下の方を見るようになった。


 その瞬間、「ここで命を手離したら楽になるのではないか」と、どうしても考えてしまうのだ。


 でも、「楽になりたい」ではないので、ギリギリ自分を保てていたのだろう。




 ――しかし今、ぼくはとうとう「楽になりたい」と涙を流しながら自宅マンションの屋上から下を眺めている。



「もう、終わりにしよう」



 自分自身に確認するかのように、実際に口にしてみた。


 悲しい言葉が、夜の闇に溶けていく。



(さあ、飛び降りよう)



 屋上の手すりの上に立ち上がった――――その時だった。





       5



 何か大きな存在に、ひょい、と持ち上げられる感覚があった。




 そこは何もない、白でも黒でも明るくも暗くも色も何もない空間だった。


 いや、空間なのかも分からない場所だ。




 ぼくの前に、ナニカの存在がいる。


 ソレが人間を超えた存在だということは、すぐに分かった。


 ぼくはただ、何者かの言葉を待つしかなかった。



「わたしはあの時のクモです」



 ぼくはすぐに理解した。


 この人間を超越した見た目も美しすぎる存在(おそらく彼女)は昔エレベーターで助けた、あのハエトリグモだと。


 

「瀕死のわたしを人の造りだしたはこから外に出してくれたように、あなたをクモわたしたちの造ったはこの中から出してあげます」



 そのセリフと共に、ぼくはまたナニカにつまみ上げられた。



 周囲の世界が、書き変えられた。





       6



 本当に、世界が変わった。


 ぼくは、ただただ驚いた。


 しかしこのままでは、かつてぼくが彼女にしたように、ぼくはこの場所に捨て置かれてしまう……。



 そう察したぼくは、彼女にいくつか質問することにした。


 幸運にも、彼女とは言葉が通じる。


 最初の質問をさっそくしてみよう。




「さっきの『クモの造ったハコ』というのはどういう意味ですか」


「言葉通りの意味です。あなたたち人間の住む世界はわたしたちクモの造ったはこの中にあります。あなたが助けてくれた小さなクモが人間の造り出したエレベーターハコを理解できないように、あなたたち人間もわたしたち大きなクモ丶丶丶丶丶が造り出したはこを理解することはないでしょう」



 彼女の話す声の音色は、本当に美しい。


 その美しさは、普段なら理解できないような難しい説明や仕組みを理解できる気がしてくるくらいだ。


 錯覚だと思うけど。



「ぼくたちの住む世界が入っている『ハコ』……そのハコをあなたたちクモは何のために造ったというのですか」


「多くの目的があるので、ひとつひとつを説明することはできませんが、大きな実験装置として造られました」



「ぼくが今まで感じていた苦悩は、あなたたちの実験のために味わっているというのですか」


「そうかもしれないし、違うかもしれません。ただ、わたしたちの造ったはこの中にいるので、あなたたちは『本当の世界の美しさ』を知りません」



「なるほど。ぼくに最後に『本当の世界の、本当の自然の中で死んで欲しい』というワケですね?」


「はい。あなたに本当の世界の中で、本当の自然の美しさを感じて、知ってもらってから死んで欲しかったのです。わたしの自己満足かもしれませんが」



 ああ。本当に彼女は純粋にあの時の恩返しをしようとしてくれているのだろう。


 ぼくがあの時のハエトリグモに水をやったり食べ物になる虫をあげたりまでしていたら、彼女も同じようにぼくをここで見捨てたりはせずに世話をしてくれたのかもしれない。



 彼女にとってはイヤミでも何でもないのだろう。


 言葉通り、死ぬ前に世界の美しさを感じて、知って欲しいのだろう。


 かつての彼女がそうであったように。



 ぼくは、もう全てが手遅れだと理解した。




「ありがとう。命がきるまで、本当の世界の中で、本当の自然の美しさを感じたいと思います」


「良かった。あなたに恩返しができてわたしもうれしいです。ではごゆっくり」



 大いなるクモ丶丶丶丶丶丶の彼女は、その言葉を最後に存在が見えなくなった。


 もう、ぼく以外の知的な存在を感じない。


 本当の自然の中、ぼくはひとり残された。





       7



 今いるこの世界、この景色は何と言い表せばいいのだろう。


 元いた場所、大いなるクモが造り出したハコの中の世界とは全く違う為、ぼくは説明できる言葉を持たない。



 ただただ壮絶。


 そして絶景。


 ――そうだ。



壮絶景そうぜっけい



 そう呼び名を付けてみた――大いなるクモの手が入っていない本当の世界、本当の自然の美しさを表す言葉。



「本当に見事な壮絶景そうぜっけいだ!」



 ぼくの周囲には想像もできない光景がこれでもかと広がっていた。



 見たこともない動物や植物が躍動している。


 どこまでも続く大自然のアトラクション。



 空に映し出されるのは、見たこともない見事な天体ショー。


 巨大な星と星がぶつかって、目の前にリングを作っている。


 特大のほうき星が3つの太陽の間を駆け巡る。


 空の色は青、緑、ピンク、紫、黄、オレンジがぶちまけられたような極彩色だ。



 見たこともない鳥たち、翼竜も飛んでいる。





 最後にこの美しい自然を見て、知って、死ねて。


 きっと、ぼくは幸せだ。







 ~fin~







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蜘蛛の匣(ハコ)~エレベーターの中に閉じ込められていたハエトリグモを助けたら恩返しされました。 黒猫虎 @kuronfkoha

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