幼馴染から全力で逃げる話

ペボ山

第1話

 僕の幼馴染を、周囲は天才と持て囃した。

 運動能力、外見、芸術的センス。現代に於いて『才能』とは、知能だけを指す言葉ではない。僕の幼馴染とは、そんな『才能』という言葉で括られる大方の分野に於いて、生まれながらに、平均点以上を持ち合わせているような男であって。

「秀介」

 アンバーの瞳は、光の当たり方によっては金色にキラキラ光る。夜空を置き去りに。星だけを掻き集めて詰め込んだような瞳を、僕の名を呼びながら撓ませる。そんな幼馴染の表情は、いつだって僕の胸を騒つかせた。

 腐れ縁の幼馴染として、あの光に当て続けられて。僕の目は、とうの昔に潰れてしまっていたのだ。


 最初は昔話から。

 幼馴染について語るのなら、出会いからしっかりと知ってもらわねば困るのだ。彼奴との縁を辿れば、僕が未就学児だった頃まで遡る必要があるが。


 若槻結依(わかつきゆい)は、昔から変な奴だった。


 静かで、ぼうっとしていて、何を考えているのかよく分からない。それなのに、なまじ綺麗な顔をしている物だから、よく目に付いた。それは僕に限った話ではないみたいで、「変な名前だ」「女みたいだ」と、しょっちゅう園の男子達に突き回されていた。それでも、抵抗一つ見せずにされるがままで。ひどい事を言われても、転ばされても、ちらとも色の変わらない金眼が薄気味悪かった。

「若槻くんは、和田くんよりずっと男らしいよ」

 だから、本当に気紛れだったんだ。あまりにもされるがままだったから、見ていられなくて、初めてそこに割り込んだ。

「お腹からたい焼きに齧り付くのを見たよ」

 それに、僕は知っていた。若槻は変な奴だったが、すこぶる優秀だった。イヌの糞を枝に刺して喜んでいるような奴らに、彼が嘲られるのがいい加減癪だった。

「うどんもふーふーせずに食べる」

「ふーふーせずに…!?」

「みかんも一口で食べる」

 嘘だったが、和田くん達は若槻から一歩距離を取った。こいつやるなと言う顔で、「一口……」と呟いて。

「覚えとけよ、オンナ男が!」

 捨て台詞を吐いて逃げ去って行く。みかん一口に勝る男らしさを、彼らは持っていなかったようだ。その程度で、よく人を女々しいやらと嘲笑できた物だと思った。

「うそはきらい」

「そう、ごめんね。知らなかったから」

 若槻の声を、初めて聞いたのはその時だ。細くて小さいけれど、よく通る。教育番組で見た、カナリアの鳴き声を思い出す。

 そんな事を考えながら答えれば、若槻は眠そうな目をパチパチと瞬く。それはまるで、たった今初めて、僕の存在を認識したような所作で。顔をじいっと覗き込んできたので、よく分からないけれど、僕もまた若槻の顔を覗き込んだ。

 真っ白な肌は、マシュマロみたいにふっくらとしていて、鳶色の猫毛はふわふわだ。二重幅の広い目は、カールした長い睫毛に縁取られている。嵌め込まれた瞳は、メープルシロップみたいな色をしていて甘そうだと思った。

 前々からふわふわした子供だと思っていたけれど、改めて見ると本当にふわふわしている。ともすれば、背中から羽とか生えて、飛んで行ってもおかしくないとすら思った。天使みたいに。

 気不味くなって、「なに?」と聞けば、若槻は赤い唇をツンと尖らせた。

「驚いたんだ。えっと、」

「香穂」

「かほちゃん?」

「ちがう。香穂秀介だよ。名前は秀介」

 言えば、若槻はフゥンと頷く。聞いておいてあんまりな反応だと思った。

「秀介くん、怒らないんだなって。ぼく、ありがとうも言ってない」

「……………」

「『たすけてくれた』のに」

 若槻の目は、日に当たって金色に光っていた。いつも焦点が定まっていないのに、その時だけは、僕の事を一直線に射抜いていて。品定めされて、検分されてるみたいだ。鷹だとか狼だとかを思い出して、すぐに目を逸らした。何を考えているのかわからないので、変な嘘を吐くのは怖かった。

「『助けられた』って、自分じゃどうにもならない人のことばだよ」

 幼いながらに、彼は無力なのではなく、単に無関心である事を何となく感じ取っていた。事実その気になれば、若槻はすぐにクラスの輪に馴染めたのだろう。複雑な気持ちで、読み掛けの図鑑へと視線を落とす。前、若槻が読んでいた図鑑だ。当時の僕には難しい内容だった。

「これは僕の……そう、じこまんぞく。べつにきみに何かを求めたりは、ないから」

「………………むずかしい言葉を知ってるんだ」

「きみも知ってるでしょ」

 僕の問いには答えずに、足をゆらゆらする。揶揄れているような気分になった。

「ぼくのせいで、和田くんにきらわれちゃったかも」

「いいよ、別に。………気にしてない」

「どうして?」

「和田くんとは、多分これからも遊ばない」

 騒がしい人が苦手だった。カタカナすら書けないのに、どうしてあんなに威張り倒せるのかが、当時の僕には理解できなかった。

「………それがいいよ」

 弾かれたみたいに顔を上げれば、若槻は小さく小首を傾げる。

「和田くんは秀介くんににあわない」

 表情がピクリとも動かないので、何を考えているかが全く分からなかった。さっきみたいな冴えた目つきではなく、もう、いつも通りの眠そうな顔に戻っている。瞬きを2、3回。柔らかい指先で、「秀介くん」と僕の裾を掴む。

「ぼくと遊ぼう」

 はにかむように微笑んだ顔は、なるほど、大人達が「天使みたい」と持て囃すだけの物だった。初めて見た彼の笑顔が、あまりにも綺麗な物だから。僕は気付けば、彼の誘いに頷いていたのだ。

 思えばこれが、僕の人生の、最初にして最大の過ちだったのだろう。


 ***


 そんなこんなで、この後、若槻が通学路でよく見る、綺麗な庭の家に住んでいた事が判明して。なんだかんだ小中と同じ学校に進学して、なんだかんだ同じ高校に進学して。いわゆる、世間一般での幼馴染と呼ばれるそれであって。


「秀介はさぁ、真面目だよね」

「真面目と言うか、期末前だぞ」

 落ち着いたテノールは、甘く耳に心地良い。声変わりする前のあの幼気な声は、もはや見る影も無かった。

 期末期間の昼休みは、比較的落ち着いている。真面目な生徒と計画性のない生徒。この2種類が、昼食を食べる間も惜しんで教材を広げるからだ。特にこの特進クラスなんて物は、僕含め前者の数が圧倒的に多い。だから静かな分、そいつの───若槻の声はやけに大きく響いた。

「お前と違って、僕はこうしてコツコツやる方が性に合ってるんだ」

「昼飯も惜しんで?パン食べないの?持ってきてたよね?」

「なんで知ってるんだ……。放っとけ。お腹が空いたら食べるから」

 時は金なり。僕は確かに優秀だが、覚えが特別良い方では無いのだ。正直、こうして話している間も惜しい。視線で英単語をなぞりながら言えば、若槻は、前の席の椅子を引いた。ガタンと腰掛けて、僕の机に肘を置く。長く骨張った指先が、広げた単語帳を意味もなく摘んだ。これは、若槻が何かを強請る時の癖だった。

「俺にちょうだいよ」

「……久しぶりに寄ってきてそれか?飯たかりにきたの?」

 普段若槻は、クラス外の友人と昼食を摂る。理由は簡単で、このクラスには僕みたいなのが沢山いるからだ。騒がしいのが苦手で、あまり冗談も得意じゃ無い人間。単純に、若槻は他のクラスの同級との方が相性が良かった。

 恐らく友人が捕まらなかったであろう日は、偶にこうして僕の席へと襲来するが。

「なぁに。拗ねてんの?普段から一緒に食べたいなら、そう言えば良いのに」

 妙に艶っぽい声音に、ゾワゾワと鳥肌が立つ。思わず単語帳から目を離して、若槻の顔を覗き込んでしまう。

 子供みたいな笑みだった。嬉しくて、楽しくてしょうがない子供みたいな。

 今日も癪に触る顔をしていたので、ノータイムで取り出した葡萄パンを顔面に投げつける。

「ありがと、秀介!」

 弾む声で「わあい」と言いながら、若槻は葡萄パンを顔面で受けた。茶色い猫毛が、ふわふわと揺れる。僕の暴力に騒つくクラスメイト達を横目に(一部始終を見ていて、何故僕が悪者のような空気になっているのだろう)、パンを頬張る男を眺める。

 すっかり丸みを失った相貌は、繊細な線で輪郭が縁取られている。二重幅の広い目を伏せれば、睫毛が白い肌に影を落とす。陽光を浴びたアンバーの瞳は、妙な吸引力を以てきらきらと光った。

 両親共に僕は無宗教の無神論者だが、彼を見ると、神とは実際に存在するのではないかと思えてくる。

 彼は神の力作だ。神が手ずから丁寧に捏ね上げて、選りすぐりの宝珠で装飾して、千年かけて色を付けた。そうでなければ、この美貌に説明が付くはずが無いと思う。

「秀介?元気?」

「ああ……」

 若槻の怪訝な声に、しぱしぱと痺れる目を擦る。「要る?」と齧りかけのパンを差し出してくるので、「要らない」と青い顔で首を振った。不満そうな顔をしないでほしい。歯形だらけのパンを差し出してくる奴の方が、どう考えたっておかしいんだから。せめて千切るとかして。

 溜息を吐いて、単語帳に視線を落とす。とんだ邪魔が入ってしまったが、口が塞がっているのなら僥倖だ。居てもいなくても変わらない。控えめな咀嚼音を聞きながら、ページを捲った。

「あ、そこ誤植」

「え?うそ」

「うっそ」

「………………」

 握り締めた拳を、咄嗟に自分の腹に叩き込む。机の下なのであちらからは見えない。きゃらきゃらと楽しそうに笑う声が、非常に腹立たしい。

「秀介が構ってくれない」

「……………」

「ねぇってば、単語はいつでも覚えられるでしょ」

「……………」

「今は俺に構うべきじゃない?俺だけが必死みたいじゃん」

 その言葉に、僅かに手が止まる。幼馴染の口から出る、『必死』と言う言葉が目新しかった。軽妙洒脱として。全てを持ちながら、そのどれにも執着しない彼には、馴染みのない言葉だったから。勉強も、運動も。人が並以上の努力をして越える壁を、彼は易々と越えていく。そして与えられる賛辞や賞賛を、鼻にかけるでもなく、当然のように受け入れるのだ。彼はいつだって涼やかで、飄々としていて。そう。いつだって必死なのは、寧ろ─────、

「………あっ」

 急に色を変えた視界に、目を見開く。赤シートを取られたのだと気付くのに、数秒掛かった。

「良い加減にしろよ、若つ、」

 意図せず語尾が尻すぼみになる。やはり、若槻があまりに嬉しそうに笑っていたから。琥珀色の瞳が、甘く撓んだ。

「…………何が面白いんだよ」

「いや?」

 小首を傾げれば、柔らかな猫毛が揺れる。微笑んだまま、若槻は僕の頬を片手で掴んだ。冷蔵庫の取手でも引くような無造作だった。片手で掴んで、そして、「いらなーい!」と、残ったパンを口に詰め込んでくる。半分ほど残ったそれを、無理矢理にだ。なんらかの罪状が付くのではないだろうか。僕があと70年くらい年をくっていたら、全然死ねている。

「……っゲホ!ゲッ、ゥえ!」

「赤シート忘れちゃったから、貸して?」

「おま、良い加減に、……ッゲェ!」

 鳴り響くチャイムの音を聞きながら、どうにか探りあてた水筒を傾けた。涙で滲む視界に、遠ざかっていく広い背中。恨みがましくそれを睨みながら、いつもそうだと悪態を吐いた。

 若槻と幼馴染である事の弊害その1。彼奴はいつも、人の物を欲しがる。当然僕の物も欲しがるので、僕はいつも割りを食う羽目になるんだ。

「…………見えるな……」

 赤シートの無くなった単語帳は、当たり前だが、英字も日本語も丸見えだ。著しく学習効率の低下した教材に、ため息を吐く。ちらと若槻の方を伺うが、クラスメイトに囲まれていて、彼奴がどうしているのかはいまいち視認できない。けれど、単語を勉強しているわけではない事だけは確かだった。


 ***


 若槻の悪癖が顕著になり出したのは、小学校に入学してからだったと思う。

「その本貸して」と。僕が読書をしている時は、いつも若槻が裾を引っ張ってくるようになった。かなりの確率で、良いところで遮られるので、最初の方は少しウンザリしていた。けれど、感想を共有する仲間を求めてたのも確かであって。特に、若槻は変なやつだったけれど、頭だけはピカイチに良かった。そんな相手の見聞も聞いてみたいと言う欲もあった。

 おねだりの度に審議を行うが、最後には不満半分、期待半分で本を渡す事になるのだ。僕から本を受け取る時の彼奴は、いつも目をキラキラ輝かせていた。だから僕もまた、正直満更ではなかった。結局その数日後、彼奴が1ページも読まずに返却していた事を知る羽目になるのだが。

 そして中学年に上がる頃には、「貸して」が「ちょうだい」へと進化した。特にあの頃は母さんがまだお弁当を作ってくれていた時期だから、おかずをぶん取られるなんて事はザラだった。大事に残しておいた卵焼きに箸をつけたところで、「ちょうだい」と眉を下げる。この頃の僕は素直だったから、おかずと友達を天秤にかけて、少し残念な気持ちで卵焼きを差し出すのだ。そんな調子で、若槻の「ちょうだい病」は悪化して行ったように思う。消ゴムやら、お菓子やら。僕が気に入っていたり、楽しみにしていた物は全部若槻に取られた。「新しい物がもう一つあるよ」、「同じ物があるよ」と。そう後ずさっても、「秀介くんのが良い」とにじり寄ってくる物だから、本当にどうしようもなかった。

 高学年に上がった頃に、僕はこれが原因で、一度若槻と喧嘩した。若槻が僕の栞を千切ったのだ。図書委員会の女子生徒がくれた物だった。「皆んなには秘密だよ」と、図書室で握らされたそれには、押し花が設られていて。趣味だったらしい。手作りのそれを、意外にも僕は気に入っていた。栞なんて、どれも同じだと思っていたのに。だから、若槻に「ちょうだい」と言われたそれを断った時、一番驚いていたのは僕自身である。さらに、「どうして」と呟く若槻に、「これは僕が貰った物だから」とまで答えていたのだから、本当に不思議だ。おかずも、お菓子も、消ゴムも。全部「僕が貰った物」に変わりは無いのに、それだけは何故か譲る事が出来なかったのだ。

 そして、若槻は強硬手段に出た。冒頭で言った通り、僕の栞を千切ったのだ。

 特に感慨もなく。落ちているゴミを、邪魔だったからゴミ箱に捨てるみたいに。本当に自然に千切る物だから、僕は碌に反応する事もできなかった。

「あたらしいの、あげる」

 ビリビリでぐしゃぐしゃな紙屑と違って、若槻はそれは綺麗に笑っていた。いい加減若槻の性質に気付き始めていた僕は、その時初めて若槻に───もっと言うと、誰かに怒りの感情をぶつけた。だって、そうだろう。あれは、単純に僕の物を欲しがっているわけではない。僕が困ったり、残念がっている姿を見て楽しんでいるのだ。友達と思っていたのは僕だけで、若槻はずっと僕の事が嫌いだった。

 感情に任せて声を荒げれば、若槻はうっとりと笑う。本を貸したり、何かをあげたりした時と全く同じ表情だった。とうとう失望してしまって、そのあと僕は、中学受験までずっと若槻を無視していた。若槻は、僕に栞をくれた女生徒と付き合い始めていた。



「好きなんです」

「…………………え?」

 ポキンと、芯の先が折れる。弾かれるみたいに顔を上げて、眼前の女生徒を凝視した。肩の長さまで切り揃えられた黒髪に、薄くそばかすの散った青白い肌。普段伏し目がちな黒目は、いまいち感情が見え辛い。そんな双眸が、今は、広げた英文のテキストには目もくれず、真っ直ぐに此方を見据えている。

「好きっ、て?」

「…………………」

「英語が?」

「…………………」

「桜井さん?」

 女生徒───桜井さんは、頬を赤く染めながら、ふるふると首を振る。口をむずむずさせたきり黙り込んでしまわれても、困るのは僕だ。どうするつもりなんだ、この空気。矢張り日本語の悪いところとは、主語をこうも簡単に省略できてしまうところではないか。唸りながら、桜井さんをじっと見つめる。

 桜井さんは、僕と同じクラスの女生徒だ。理系科目はほぼ学年トップで、確か、「超伝導カエルの養殖」だったか。夏季に開催される研究発表で、最優秀賞も受賞していた才女である。カエルの養殖がどう電気抵抗に関わってくるのか甚だ疑問だが、兎に角彼女が、理系分野で特出した才能を誇っている事は確かだった。反面文系科目が毎回悲惨で、本人もそれを気にしていたようで。一つ前の中間から、昼休みや放課後などの時間に一緒に勉強していたのだ。彼女のような秀才に教えを乞える機会は貴重であるし、互いにとって有意義な時間だ。そう、少なくとも僕はそう思っていたが。

 彼女の今の発言からして、僕は認識を改める必要があるのかもしれない。

「…………若槻?」

 言えば、彼女の肩がピクリと震える。その反応に、複雑な感情が、一瞬胸中を濁した。

 ─────やはり、桜井さんは若槻が好きなのだ。

 完全な当てずっぽうと云う訳ではない。前兆はあった。前触れもあった。

 例えば、今日の午後。テスト前───特に期末前の最近になると、テキスト片手に訪ねてくる事が多い桜井さんだが、今日は来なかった。というか、実の所僕は、斜め後ろから突き刺さる、桜井さんからの視線に気付いてはいた。何か不都合があるのかとあえて触れずにはいたが。いつもとの違いらしい違いと言えば、若槻が騒ぎ立てていた事くらいなのだ。

 加えて最近は、桜葉さんと若槻の交流も幾分か多くなってきたように思える。若槻からのアプローチ(?)が主であるが、それが少しずつ、彼女の心を開くきっかけになっていたのかもしれない。

 総括すると、今日の昼休み、桜井さんは来なかったと云うか、来れなかった。そう考えると、合点がいくのでは無いだろうか。何故なら奥手の桜井さんは、意中の相手を意識して、恥ずかしくなってしまったから。

「……ちが、私は、……えっと、」

「良いんだ。こういうの慣れてるから」

 昔から、若槻への橋渡しを頼まれる事は少なく無かった。加えて桜井さんからの頼みともあれば、断る理由も無いだろう。

「というか、寧ろ僕の気が回ってなかったと言うか…」

 聡明な彼女が、勉学と言う分野で僕に価値を見出す筈がなかった。随分前から、彼女の文系科目の点数は右肩上がりであったし───、何というか、浮かれていた自分が恥ずかしくなってくる。

「アイツも喜ぶんじゃないかな。桜井さんの事、楽しそうに話してたし」

 それに、脈無しと言う風には見えなかった。あの釣れない感じが好きだ、伏し目がちの黒目も、黒髪も、よく見るとすごく綺麗だ。そんな歯が浮くような惚気話を素面でするのだから、彼奴は矢張りどこかおかしい。それともそれくらいが、プレイボーイの条件だったりするのだろうか。

 ……………どうにしろ、彼奴が桜井さんとくっついてくれた方が、僕としては色々と都合が良────

「─────あの…!」

 ガタン、と、椅子を鳴らして立ち上がる桜葉さん。今度こそシャープペンシルが手をすっぽ抜けるが、それどころではない。何故なら、彼女が今にも泣き出しそうに見えたから。

「……………桜井さん?」

「わ、わたし、今日は、その………、」

「…………………」

 潤んだ黒目が、うろうろと忙しなく宙を泳ぐ。僕を見て、此方へと集まる周りの視線を見て、また、僕を見て。

「……………今日は、取り敢えず帰りますね…」

 覚束ない手付きで、教材と筆記用具を掻き集める。歪な形に変形したバッグを抱えて、桜井さんはそそくさと図書室を後にしてしまった。

 元々シャイな女性である。恋愛相談の空気に耐えられなかったのだろうか。若しくは僕の方が、いきなり核心を突きすぎてしまったかもしれない。デリカシーに欠ける言動だった。僕らしくもない。普段ならもっと、慎重に言葉を選ぶくらいはできた筈なのに。

「…………………?僕は普段通りだろ」

 僕は普段通りだったし、おかしいのは徹頭徹尾桜井さんの方だった。これは若槻と幼馴染である事の弊害その2だ。要らない男女関係によく巻き込まれる。騙されかけたが、僕に負い目なんて一つもないんだから。

 とは言えこの気不味いままの関係で、彼女と接するのもなんとなく嫌だった。

 …………若槻に良い感じに探りを入れられたのなら、それは彼女への手土産になるだろうか。

 くるりとペンを回し、切り替えるようにテキストのページを捲る。

 若槻も桜井さんもいない以上、この場で僕にできる事は何も無い。取り敢えず今は、目の前の課題に集中する事が先決だろう。今やっているのは英語教材なので、桜井さんの助力は要らない。何なら応用だって、このレベルなら問題ないだろう。

 常々色恋沙汰とは、正直どんな応用問題よりも煩わしくて難しい。



 ***



 図書館は18時に閉館する。

 図書館を閉め出され、日が沈みきった頃に家に帰って。

 自室の部屋を開ければ、そこで待っていたのは全く知らない男だった。

 知らない男が、ベッドの上で三点倒立をしながらこちらを見ていた。精悍な顔立ちに、整えられた黒髪。総じて『イケメン』に分類されるであろう男は、倒立したまま、怪訝な様子で眉を顰めた。

「………誰?」

「お前こそ誰だ!」

 仰け反り、声を荒げる。思いの外狼狽した声が出た。あまりの太々しさに、思わずこちらが間違っているのかと。そう騙されかけたが。おかしいのはあっちだ。危ない所だった。同じ制服を着ている所から同級にも見えるが、同じ制服を着ているだけのコスプレ強盗と言う可能性も全然ある。バッグを構えて、じりじりと距離を取った。

「…………あれ、秀介じゃん」

 同時だった。ザァと水を流す音が聞こえたかと思えば、背後から肩を叩かれる。振り返らずとも、その声が誰の物かは、考えるべくも無くて。咄嗟に机の上を目視で確認する。ある程度整えられた配置に安堵するが。

「若槻、説明」

「おかえり。…………今日は遅かったね?」

 噛み合わない会話に、米神を揉み解した。


 若槻と幼馴染である事の弊害その3。

 プライバシーが無い。

「せめて連絡くらい入れてくれ。危うくお前の友達を警察に突き出す所だったんだからな」

「もしかして結衣ってヤバい奴?」

 英字パンフレットと書きかけのエッセイを、纏めて机の端に追いやる。正座した若槻を見下ろしながら叱れば、御友人──中津くんがベッドの上から合いの手を入れた。「違うよ」と若槻が首を振るので、「嘘は良くない」と牽制を入れておく。

「当たり前みたいに、植木鉢の下から鍵取り出すんやもん。俺お前が怖いよ」

「秀介とは幼馴染だからね。昔からよく家を行き来してたんだ」

「だとしても客を人の家に上げるなよ」

 応酬を聞く限り、中津くんは若槻と違って話が通じるみたいだ。取り敢えず、空き巣とかにあったら、真っ先にこいつを容疑者として突き出そう。心に誓い、平らな目で若槻のつむじを睨め下ろす。全く反省していない様子で、にこにこと能天気な笑みを浮かべていた。

「それで、なんの用だよ。人様まで巻き込んで」

「ええ、だって今ってテスト期間じゃん」

「それで『たしかにそうか』とはならないだろ」

「だって」と言う接続詞の意味が分からない。若槻はしばしば、日本語すら通じなくなる時があった。

「一緒に勉強しよ、3人で」

「いやだ」

 しっしと手で払えば、若槻はその相貌に悲壮感を滲ませる。ペットショップで売れ残った犬を思い出して、心が悲鳴を上げた。だが、僕もここで引くわけにはいかない。万が一を考えて、なんとしてもこの2人を家から追い出さなければならないのだ。母親が帰ってきたら困る。せっかくきてくれた所、中津くんには申し訳ないが。白湯でも出してお引取り願おう。

「そもそも若槻。お前は、わざわざ誰かと勉強する必要なんてないだろ」

「いや、数学はまあそうだけど。俺暗記苦手なの。知ってるでしょ?」

「だから何だ」

「秀介が居ると覚えやすいんだよね」

 めちゃくちゃにめちゃくちゃな言い分だ。小一時間問い詰めたかった。本当に人を納得させる気があるのかと。

 胡乱な目で睨めば、切なげに眉を寄せる。僕と若槻を交互に見比べて、中津くんは嗜めるように若槻の名前を呼んだ。

「帰るぞ。香穂クン困っとるやん」

「でも、」

「親しき仲にも礼儀ありって言葉があるやろ?」

「俺んちにお前上げたくない…!」

 中津くんは若槻を殴った。殴って、スネを蹴り、最後に肘鉄を叩き込んで3コンボを決めた。若槻のスネから、凡そ人体から聞こえてはいけない音がする。殴られて然るべきではあるが、何もそこまでしなくてもといいのではと思ってしまった。

「潔癖症なん?結衣。にしても、言い方ってモンがあるよね?」

「……………親が居るの、今」

「……………?」

 首を傾げる中津くん。逆に俺は、自分の中でストンと嵌るのを感じた。納得したのだ。若槻が何故、こんな犯罪紛いの暴挙に出たのか。それは単純に、彼奴は家に帰りたくないと言うだけだ。そういえば彼奴は、自分の母親が苦手だった。

「八時までだぞ」

 だから、温情をかけてやる事にした。どうせ僕の母親は、滅多な事がなければ今日中には帰ってこないし、学年一位との勉強は、何だかんだ学ぶ物も少なくない。何故僕はこのチャランポランに勝てないのかと言った虚しさにしばしば襲われるが、此奴は間違いなく優秀ではあった。

 それに─────、

「そういえば、僕もお前に用があった」

 頭に浮かぶのは、桜井さんのあの表情である。

 不本意ではあるが、彼女との交友関係のためだと思えば苦でもない。間抜けな表情で首を傾げる幼馴染を、急かすように睥睨した。

「座れ。教材を出せ。邪魔したら蹴り出すからな」

「秀介……!」

 満面の笑みで飛びついてきたので、全力で振り払う。若槻が大の字で床に転がれば、一気に室内が狭くなるような圧迫感が生まれた。何というか、コイツはデカいのだ。体積が。

 ………………やっぱり蹴り出そうかな……。

 そんな衝動を優しさで押し込めて、指定鞄から教材を取り出した。


 ***


 家族が壊れたのは、僕が中学受験に失敗してからだった。国内でも有数の、中高一貫の男子校。その不合格通知が届いた時、父さんは母さんと離婚した。これは後から知った事だが、父さんは母さんの他にも、『愛人』を持っていたらしい。そして向こうの子供は大変優秀で、僕の落ちた学校にもしっかりと合格したようだった。世継ぎの選別競争に、僕らは負けたのだ。父さんはあまり家に帰ってこなかったので、僕にとって、彼はいてもいなくてもあまり変わらなかった。だけど母さんは違う。母さんは父さんを愛していた。父さんとの愛の結晶である、僕の事も愛していた。だけどそれが、『愛』の結晶でも何でも無く、ただ打算で植え付けられた物だと知ると、途端に、ボクの中に価値を見出せなくなったようだ。

「あなたが失敗さえしなければ」

 そう吐き捨てたきり、母さんは部屋から出てこなくなる。たまに出てきたかと思えば、「あなたさえいなければ」「私が悪かったの?私が上手く育てられなかったから」と、支離滅裂に取り乱した。ご近所の若槻が、その学校に受かっていた事も、余計に彼女を追い詰めたようだった。そう言えば冒頭で若槻について、『小中高と一緒に上がった幼馴染』と紹介した。しかし正確に述べるならば、『一定期間を除いて』と云う注釈を入れる必要がある。

 まあ、それはさておきである。

 そんな──所謂、『終わってる』状況の中で唯一幸いだったのは、父さんの家が裕福だった事だ。父さんは、僕の養育費と学費だけでなく、生活費も負担してくれた。大学進学についての支援も、快くうけつけてくれた。いや、勝手に産んだ責任を考えれば、当然のアフターケアだとも思うが。兎にも角にも、僕は、事実上の手切金のおかげで、中学校に無事に進学する事ができたし、人らしい生活を送る事もできていた。人らしいと言うと、少し語弊があるかもしれないけど。

「お前、そんなに勉強してると馬鹿になっちゃうよ」

 その頃は若槻と半ば絶縁状態だった代わりに、祐樹と言う少年とよく関わっていたように思う。と言うよりかは、碌に会話を交わす友人らしい友人が、祐樹しか居なかった。祐樹は、昼休みも放課後も参考書に向かい合う僕を、よく気にかけてくれていた。

 最初はしつこかった遊びの誘いも、僕が嫌がっているのを察するとすっかりと無くなった。代わりに、ただ黙って、隣に寄り添って来るようになったのだ。祐樹は根明で、底抜けに優しかった。あの時の僕は、それに十分に答える余裕は無かったけれど。とは言え祐樹の隣はそれなりに心地良くて、図書館から追い出された後は、いつも2人で帰路を歩いた。

 けれど。

「秀介」

 その日は、穏やかな日々と一味違った。地平線に沈む西日が、じりじりと背中を焦がしていた。アスファルトには、引き伸ばされた影法師が三つ並んでいる。俺の分と、祐樹の分。残りの一つは────、

「…………………」

 振り返れば、案の定、そこには2年前関わりを絶った筈の、幼馴染がいた。


 蛍の光が流れたら、子供たちは一斉に家に帰る。だから、その時間の児童公園は閑散としていて。祐樹には先に帰ってもらったので、それなりに広い公園には、僕と若槻の2人だけだった。

「俺たちだけの国みたいだね」

 少しだけ、声が低くなっていた。

「そう言うのがずっとほしかった」

 無邪気に話しかけてくる若槻に、曖昧に頷く。何せ2年ぶりなので、こちとら話題探しに必死だったのだ。だけど相手がこの調子なので、そんな気遣いも馬鹿らしくなってしまって。手近なブランコへと腰を下ろせば、若槻も倣うみたいに隣に腰掛ける。キィキィ擦れる鎖の音が、昔から少し苦手だった。

「…………さっきの子、だれ?」

 ブランコに腰掛けるなり、問いかけてくる幼馴染に、自然と表情が強張る。何故か、例の栞が脳裏をよぎったからだ。「友達だよ」と努めて素っ気なく流して、「それより」と言葉を継ぐ。若槻には、あまり祐樹の事を話したく無かった。

「川崎さんとはどうなったの」

 川崎さんとは、僕に栞をくれたあの女生徒の名だ。確か、5年の終わり頃から若槻は彼女と付き合っていたはずだったが。他校ともなれば、中々会える機会も無いだろう。僕は当然川崎さんと同じ中学だったけれど、すっかり交流も無くなっていたので、近況については知らない。

「………カワサキ?」

 こて、と首を傾げた若槻に、頭から血の気が引いていくような気分になる。俗に言うドン引きであったが、同時に、その反応に意外性は無かった。

「付き合ってただろ、小5の時」

「ああ、川崎。川崎さんね。あの後3ヶ月くらいで別れたよ。……半年だったかな」

 覚えて無いや、と頬を掻いて、ブランコを手持ち無沙汰に漕ぎ始める。

「それよりさぁ」

 惰性でブランコを揺らす口調は、川崎さんとの思い出など、心底どうでも良いと言った様子で。当時既に、若槻に人格的な部分で期待するのをやめていた僕は、特に感慨もなく次の言葉を待っていた。

「俺、学校やめる」

「は?」

 キィ、と音を立てて、僕のブランコが止まる。僕が急ブレーキをかけたからだ。「今日は午後から雨が降るよ」と。そう台詞を置き換えても違和感の無い調子での告白は、あまりにも衝撃的な物だった。反射的に相貌を上げる。若槻の顔を見つめるけれど、相変わらずその内面を読み取る事はできなかった。少なくとも、冗談を言っている様子では無いが。

「…………なんで?」

 辛うじて絞り出した言葉は、当時の僕の思考を占める全てだった。

「楽しくないから」

 即答して、地面を見ながら答える。その横顔は、相も変わらず───否、2年前よりも、さらに美しさに磨きが掛かっていたように思う。骨張ってきた骨格に、伸びた手足。しなやかな肢体には、あの名門校の制服がよく填まっていた。そこにいるだけで、人の心を惹きつける美貌だ。小学校の頃の人気ぶりも鑑みると、彼が人間関係で悩んでいるのだとはとても考え辛かった。

「秀介のせい」

「はぁ?」

「…………秀介は、絶対に受かると思ってたのに」

 柔い部分───膿んだ傷口を、踏み抜かれたような。そんな感じ。母さんに何を言われても、泣く事は無かったのに。驚くことに僕は、若槻のそのたった一言で、ボロボロと泣き始めていた。

「泣いてるの、秀介」

「………意味わかんねぇ」

「?」

「いっぱい、努力したんじゃないのか、お前」

 唇と手が震えてきて、居た堪れなくなって顔を覆う。僕の顔は、特別整っているわけでもない。だから、自分の泣き顔は普通に汚いし、見苦しい物だってことを理解していた。

「なんで───、」

 嗚咽まじりの声が漏れる。唾を嚥下すれば、喉の奥から息苦しさが込み上げてくる。

「────なんで、そんなに簡単に捨てられるんだよ」

 僕が死に物狂いで追い求めて、掴めなかった物。若槻はそれを手に入れても、鼻にかける事もなく、当たり前に称賛を受け入れて、挙句簡単に放り棄てる。今あいつが捨てようとしている物だって、僕がかつて必死に手を伸ばした物だ。

 ─────『あなたは本当に何もできないのね。お隣の結衣くんと違って』

 そんな彼奴の隣にいるのが、ずっと、どうしようもなく息苦しかった。必死になっている自分が、どんどん惨めになっていくみたいで。

「否────、」

 違う。そうじゃない。僕は彼奴が憎らしいわけじゃない。こんな、他人を妬むことしかできない自分の醜さが、情けなくて仕方ないのだ。無いものねだりして、他人の才能を羨むだけしかできない自分が、どんどん嫌いになっていって。実の所、これが此奴と幼馴染である事の、1番の弊害と言っても良かった。此奴が笑いかけてくる度に、自分がどれだけ嫌な奴なのかという事実に、直面させられるのだ。

「それなりに苦労はしたよ」

 その声には、相変わらず抑揚はない。けれど、若槻が何の努力もしてこなかったわけでは無いのは、確かなことだった。

「けど、俺にとっての価値は無かった。だから捨たの」

「……………………」

「秀介が居ないなら、意味ないし」

 意味がわからなかった。若槻は、僕が嫌いだったんじゃないのか。都合の良い玩具が無くなって、寂しいとのだろうか。彼奴は僕を困らせて遊ぶのが好きだったから。けれど、普通それだけのために、あの学校をやめるだろうか。僕の代わりなんて、ごまんといるのに。考えれば考えるほど訳がわからなくなって、結局何もいえなくなってしまう。

 そういえば僕は、こいつを理解できたことなど、一度だってなかったのだから。

「…………………なんだよ、それ」

「ごめんね、秀介。あの時の俺、何も分かってなくて。すごく馬鹿なことした」

「だから、何で…………」

 殆ど嗚咽でしかない言葉を遮るみたいに、若槻は俺の手をなぞった。伺いを立てるみたいに、顔を覆う手を握って、引き寄せられて。その所作があまりにも柔らかい物だから、気付いたたら僕は、みっともない泣き顔を晒してしまっていたんだ。

「秀介」

 夕焼けに照らされた金色の目が、僕を上目遣いで見ていた。

「俺、秀介とずっと一緒に居たい」

 平坦な声音に沿わぬ、熱烈な告白だった。何か眩しい物を見るみたいに、目を細めて。まるで自分が、恋愛映画のワンシーンに紛れ込んでしまったような気分になる。

 けれど、この時の僕は捻くれていたというか。家庭のこともあって、疑心暗鬼と卑屈を極めていた。

 何故若槻が僕を選んだのかもわからなかったし、僕に価値を見出す言葉の全てを、信じられずにいた。選ばれたと言う喜びよりも、理解できないと言う気持ち悪さが勝っていて。要するに、自己肯定感が地に落ちていたのだ。今思い返せば、中々にギリギリのメンタルだった。

「…………わかったよ」

 だから、それを拒絶しないので精一杯だった。若槻に悪気が無いことだけは、理解していたから。それにきっと若槻も、あの時は新しい環境に身震いしていたのだろう。だから、昔馴染みの僕の姿に、思わず声をかけてしまった。気持ちはわからなくも無かったので、せめて、学校に馴染むまでのサポートはしてあげようだなんて。苦手でも、どんなに憂鬱でも、完全な拒絶はできない。何だかんだ言いながらも、幼馴染と言う関係性は、他と一線を画した特別感があったのだ。

「学校、いつから?」と聞けば、「明日から」と答える。案の定、若槻はすぐに学校の人気者になった。



 若槻が環境に慣れるのに苦労しないと言うのは、ある程度予想できたことだった。予想外だったのは、若槻と僕が一緒にいる時間が、かなり長かったと言う点である。小学生の時と同様、普段から所属しているグループは違う。けれど若槻は、誰とでも親しく接して、何処にでも溶け込んで、色んなコミュニティを、衛星みたいに飛び回って。そして度々、僕の隣に腰を下ろした。祐樹ともすぐに馴染んで、表情や喋り方が似てくるくらいには仲良くなっていた。

 小学生の時に戻ったみたいだった。若槻とも、幼馴染らしく普通に喋って、祐樹とも、変わらず良好な関係で。

 けれど、周りにはそうは見えなかったようだ。と言うよりかは、周りが変わっていったのだ。足が速いだとか、面白いだとか。そんな物だった価値基準が、美醜だとか、クラスで目立つだとかに変わってきた。

 要するに、平凡な僕と、煌びやかな2人が並び立つ状況に、不満を抱く人間達が現れ始めたのだ。若槻と幼馴染である事の弊害その5、不当な妬み嫉みを買う事である。

 陰湿な嫌がらせに始まり、「不釣り合いなんだよ」と言う直接的な忠告なんて物も浴びせられたりして。

 幼いとは思うけれど、僕も僕でその時は価値基準が偏って凝り固まっていた。人の価値は能力の高さで決まるのだ。そう言った──小さな頃から擦り込まれてきた、選民的な思想に拍車がかかっていたのだ。能力次第で人は親にすら見限られるし、「能力」とは、数値で表される相対的な学力のみを指すのだと思い込んでいた。そう言うわけで、そんな不満も、僕にとっては理解できない物だった。どうして自分より勉強のできない───能力の低い人間に諭される必要があるのかと思った。何より、1位以下は等しく敗者である事は前提として。学年1位と学年2位が並び立つ事に、それ以下の人間が意見する正当性も見つけられなかった。つまりはお互いがお互いに、偏った価値観で相手を値踏みし、相手を下に見ていた。

 相入れる筈もない。口には出さなかったけれど、僕の傲慢は相手に伝わっていたんだろう。僕と彼らの溝は深まって、更に、祐樹とクラスが別れたのも重なって。ある時僕は、そこそこ大きな怪我を負わされた。治療費は父さんが負担してくれたので困らなかったし、僕が何も言わなかったので、相手もお咎め無しだった。ただ右腕が骨折して、受験勉強にも支障が出たのは、面倒だと思った。


「最近釣れないね?」

「………………」

 大勢の前でそんな事を言う物なので、僕は気が気じゃなかった。若槻を睨め上げながら、「普通だよ」と席を立とうとする。クラスメイトの視線が煩わしかった。視線をずらせば、若槻の隣で、僕に怪我をさせた集団が笑っていて。僕が若槻と祐樹を避けるようになってからは、「やっと身の程を弁えた」、「『忠告』の甲斐があった」と、ご満悦だった様子。ついには険悪に睨み合う僕らの関係が、嬉しくて仕方無いようだった。今思っても異常だけど、「過ぎたカリスマは周りを狂わせるのだ」と言う事は、彼奴の隣で嫌と言うほど思い知らされてきた。

「待ってよ、話、終わってないでしょ?」

「僕はおまえと話す事なんてない」

「秀介」

 低い声に、教室の温度が少しだけ下がったみたいだった。流石の僕も肩を揺らしてしまう。昔の若槻に戻ったみたいだったのだ。その時は、完全にゆるふわ根明男な若槻に慣れてしまっていたので、その表情は馴染み無い物だった。ともすれば、クラスメイトは若槻のあの顔を見るのすら初めてだったのでは無いのだろうか。表情さえ落として仕舞えば、元々、彫刻みたいだった相貌は一気に人間味を失う。据わった金眼だけが剣呑に光っていて、猛禽に───ともすれば、もっと上位の何かに睨まれたみたいな恐怖心が煽られる。こうなった彼奴は何をやらかすかわからなくて。何なら、栞を破り捨てる直前だって、この顔で凄んできたのだ。

「……………」

「いい子」

 ストンと椅子に腰を下ろせば、若槻は柔和に笑う。先刻までの無機物くささは幾分がマシになったが、未だその笑顔は何処か昏い。

「俺、何かしちゃった?それなら謝るから」

「…………別におまえは悪く無いよ」

「じゃあ、なんで?何もしてないのにそう言う態度取るの、ちょっと酷くない?」

 穏やかに、諭すような口調だ。けれど、ひたひたと染み出すような怒気は、絶えず空間を冷やす。若槻大好きクラブも、先刻の愉悦も見る影なく、強張った表情をしている。なんなら鬼みたいな形相で、場を収めろと僕に訴えかけてくる。

「…………ああ、」

 面倒くさい。

 そんな言葉が脳裏を過ってしまえば、糸が切れたみたいに全身が重くなる。

 本当に。此奴と一緒にいて、碌なことがない。預かり知らないところで恨みを買って、挙句、危害を加えられて。放っておいてくれたら良いのに、こっちが専念したいことまで邪魔される。僕が悪いのだろうか。いや僕は悪くないだろ。けれど周りはそうは思わないんだろうな。今後の為に、ここは穏便に済ませてしまおうか。

「面倒くさいんだよ」

 そんな思考に反して、口を突いて出たのは正反対の言葉だった。というか、本音だった。言い訳をすると、僕は連日の迷惑行為と、受験期間ですごく疲れていた。自制するだけの体力が無かったのだ。なんなら、どうせ残り少ない中学生活、どうなっても良いというくらいの投げやり具合だった。

「好い加減ダルい。もうお友達もたくさんいるんだから。そんなに頑張らなくたって……嫌いな奴に、無理に構わなくたって、お前は良い子ちゃんだって皆んな知ってる。大体の人はお前が大好きだし。……僕は割と嫌いだけど。とにかく、欲張るなよ。妥協してくれ。皆んなに好かれるなんて土台無理な話なんだ。幼馴染なんて肩書きに縛られて───、」

「わかったよ」

 遮るように落とされた声音は、柔らかな物だった。物分かりの良い、優等生の物。けれどそこには、今までに見たことのないくらい、悲痛な何か蹲っていた。

「秀介の言う通りだ。皆に好かれるのなんて、最初から無理な話だったんだ。…………ごめん」

「結衣…!謝ることないだろ…!香穂、お前なぁ!」

 黙っていないのは、若槻大好きクラブの吉田くん。若槻の名を気遣わしげに呼んで、親の仇みたいに僕を睨む。周りもまた、同じ目をしていた。完全に悪者は僕だった。僕も僕で幾分か冷静になってきて、自分の言動を振り返るだけの余裕が出てくる。

「………最低だな」

 誰かの声が聞こえてくる頃には、僕はクラスメイトを押し退けて、廊下に転がり出ていた。

 その通りだ。最低だ。

 何もしていないのは、若槻だって一緒なのだ。それなのに、感情のままに八つ当たりして。いくら余裕がなかったからと言って、僕の言動はあまりにも酷い物だった。

 僕はその日初めて、自分の意思で授業をサボった。


 その次の日から、僕はいわゆる保健室登校というものを繰り返した。怪我をさせられた時から、保健室の先生は僕の事を気にかけていてくれたようで。こっそりとココアを入れてくれたり、クラスメイトから匿ってくれたりもした。加えて、どこから聞き付けたのか、祐樹も度々お見舞いに来てくれたので、コミュニケーションにも事欠かない。

「若槻は?」

「あれから会ってないよ。それに、僕には彼奴に合わせる顔がない」

「…………そうか」

「祐樹はさ、」

「なに?」

「なんでいつも来てくれるの?」

「それはお前、友達だからだろ」

「なんで僕なんかと友達になってくれたんだって聞いてるんだ。こんな───、」

 卑屈で、根暗で、自己中心的な人間と。

 口篭れば、祐樹は少し怒ったような、困ったような顔をして首を振る。

「それはこっちのセリフだよ。ずっと疑問だったよ。俺、バカだし、子供だし。なんでお前みたいなすげぇ奴が、俺の相手してくれるんだろうって」

「………すごくなんかないよ」

「すごいよ、秀介は。ずっと大人で、将来見据えて、ちゃんと努力してる。俺、お前よりがんばってる奴見たことないもん」

 人の良いところを見つけるのは、悪いところを見つける事より、実はずっと難しい。祐樹はこう言ってくれたけれど、実のところ、僕なんかよりも祐樹はずっと大人だった。実際に、その祐樹の言葉は当時の僕の心を幾分か楽にした。視界がぱあっと開けたみたいで。結果ではなく過程を見て、そしてそれを評価する人間がいる事。それは驚きの事実であり、同時に希望にもなったのだ。

「……………ありがとう」

 そんなやりとりの翌日、ようやっと僕は教室へと復帰した。実に2週間ぶりの登校だった。無理して授業には出なくて良いと、保健室の先生は言ってってくれたけれど。その度に、暗い部屋の隅で丸まった、母の背中を思い出すのだ。

 あれと同じ生き物にはなりたくなかった。

「おはよう、秀介くん」

「香穂、おはよう」

 重い気持ちで教室に入った僕を迎えたのは、想像とは違う光景だった。皆、僕に笑顔で挨拶をしてくる。「大丈夫だったか」なんて。まるで、僕の友達みたいに接してくる。

 ─────気持ち悪い。

 何か、悪い夢でも見ているような気分だった。

 何なら、無視されたり、罵倒されたりした方がマシだとすら思った。あの日、此奴らが僕に向けた視線を忘れない。仇的を、親の仇でも見るようなあの目。

 だが、それがどうだこの状況は。2週間前の事を、彼らはすっかりと忘れてしまったのだろうか。クラスメイトを模しただけの人形にでも、囲まれているようで。

「若槻」

 できるだけ、周りに視線を向けないよう歩を進める。真っ直ぐに向かうのは、若槻の席である。僕の当面の目的は、若槻への謝罪だった。

「若槻。この前は、その─────」

「秀介!良かった、来てくれたんだ…!」

「え、ええと、ええ?」

「俺、お前に嫌われたんじゃないかって……」

 掴まれた手と、若槻の相貌を忙しなく見比べる。垂れ下がった目元も、間抜けに歪んだ唇も。それはあまりにも、切迫詰まった物だった。本当に、心の底から『僕に嫌われる事』を怖がっているようで。ふわふわ揺れる猫毛を、呆然と見つめる。

 なんで?

 頭に浮かんだ疑問符に、つい先日聞いた、『友達だから』なんて言葉が脳裏を過ぎる。

 確かに、僕も友達に───祐樹に嫌われるのは怖い。けれど若槻は、僕の事が嫌いなのだと思っていた。……僕が苦しむ姿を見て、楽しめる程度には。でも、嫌いな相手に嫌われるのを、怖がる人間もあまりいないんじゃないだろうか。

 だとしたらやっぱり、

「………この前はごめん、若槻」

 ……やっぱり、若槻は僕の事を『友達』だと思っているのかもしれない。

 そう思えば、すんなりと謝罪の言葉が出てくる。友達に酷い事を言った時は、謝らなければならない。それは当たり前だからだ。

 頭を下げれば、両頬を両手で挟まれる。骨張った大きな手は、真っ白なのに少し暖かくて、汗ばんでいて。本当に若槻が興奮しているのだと理解できた。

「いいよ、そんなの。秀介は悪くない」

「悪くない事はないだろ」

「いや、全部俺が悪いんだ。だって俺が、」

 誰の目にも、あれは僕の落ち度だったことは明らかな筈だった。だから、咎める声を探して、僕は周りに視線を巡らせる。だけど、皆は不満な顔をするどころか、微笑ましげな視線を此方へ向けていた。

「─────俺が馬鹿だったんだから」 

 頬を包み込む力が強くなって、若槻の顔だけを真っ直ぐ見つめる羽目になる。潤んだ金眼は、あまりにも鮮烈な光を放っていて。眩暈のするような金色だった。気を抜けば、意識すら刈り取られてしまう程に。

「………わかつ、」

 ぱちぱち、ぱちぱちと、まばらな音が、どこからか響いてくる。一瞬何かと思ったが、それはどうやら、拍手の音のようだった。俺たちを囲んだクラスメイトたちが、「良かったね」と口々に喜んでいて。不協和音が気持ち悪い。

 努めて、周りに意識を向けないように、若槻の顔を見つめた。その穏やかな微笑みに、かつて僕を苦しめた少年の面影は残っていない。

 この環境への薄寒さと、仲直りの安堵の狭間で、僕はそっと息を吐いた。



 ***



 中津くんは、中々食えない男だった。

 若槻が寝落ちしたのを良い事に、彼奴の恋愛事情を聞き出そうとしたのに。交換条件やら何やらで、僕の幼少のアレソレを、気付けば倍くらい喋らされていた。まぁ、アイツがフリーで、かつ片想い中なのを知れたのは良かったが。「サクライサン?あー、アイツ好みではあるね。アリなんじゃね」との情報は、本当の本当に大収穫と呼べるだろうし。

「波瀾万丈やん。………それで?」

 数式を書き連ねながら、中津くんは首を傾げた。目線は僕の方を向いているが、手元は確かに数式を解いている。器用な人だと思った。

「結衣とはそれ以来順調に?」

「そう。少なくとも昔よりは此奴の事分かってきたよ。相変わらず、変なやつではあるけど」

 寝こけている若槻を、何気なく見下ろす。寝顔は子供みたいにあどけなくて、僕は昔、何だってこれを恐れていたのだろうと云う気になってくる。

「それ以来ないん?」

「無いって何が?」

「妬み嫉みみたいな物。フツーに障害沙汰だし、その……誰だっけ。香穂くんのこと怪我させた──、」

「吉田くん?」

 言葉を継げは、「そうそれ」と、間伸びした返事が返ってくる。シャーペンをノックして、視線を左上に巡らせる。極力クラスメイトと関わら無いようにしてたので、記憶が朧なのも無理は無いが。そういえば、彼……吉田くんとは、あの後────、

「………………どうなったんだったっけ」

「ええ?」

「いや、昔のことだし。あんまり興味も無かったって言うか…」

「昔って、ほんの3年前でしょ。香穂くんはさぁ。大人なように見えて、割と無頓着やったりする?」

 ボロクソ言うなこの人。胡乱な声で、「殴ってきた奴の顔とか、一生忘れねーんだけど」とか唸る中津くん。ソッと目を逸らして、彼の答案を盗み見た。答え合わせをしているが、計算ミスをしてしまったらしい。ほら見ろ、集中しないからだ。咎めるように目を細めれば、中津くんは肩をすくめる。「それに」と、矢張り胡乱な視線で、若槻を一瞥した。

「俺からしたら、その2週間で何があったのかって方が気にな────、」

「うわ!!」

 ガッシャン!と言う騒音と共に、水飛沫が舞う。目を見開き、咄嗟に広げた英語教材を庇う。若槻が、「フリじゃ無いんだって…」と、寝ぼけ眼で辺りを見回していた。気狂いとしか思えない寝言から見て、落下する夢でも見たのだろう。ダイナミック起床と共にひっくり返したコップの水で、ブレザーはビショビショだった。

「お前なぁ。タオルとふきん取ってくるから、そこ動くなよ」

「んん?ごめん?」

 避難させたコップを置き、状況をいまいち飲み込めていない若槻を小突く。ビショビショのダックスフンド(老犬)みたいだ。中津くんは今の騒ぎで布団に突っ込んでしまったので、尻しか見えない。良い尻だ。

 立ち上がり、飛び出た尻を叩いて部屋のドアを開ける。暖房の熱気の籠った部屋から、冷え切った廊下へ。靴下越しに滲むような冷たさに、だんだん頭が冷えていくみたいだった。

「………………もう9時か」

「うわ、秀介ごめーん!」

 ようやっと目が覚めてきた頃なのだろう。背後から追ってきた声に、中指を立てる。この廊下に誰かの声が響くのも、思えば久しぶりだった。

 両親が離婚する前は、確かよく彼奴や祐樹が遊びに来ていたから、ざっと6年ぶりだろうか。彼奴は確か、オレンジジュースが好きだった気がする。いや、それは祐樹の方だったか。6年も前の事だから、もう分からない。

「………………」

 スマートな外観の冷蔵庫は、開ければ空っぽで、中には茶色いシミや汚れがこびり付いている。

 そういえばそうだ。どうにしろ、この冷蔵庫にジュースなんて無い。僕は氷と水を取りに来ただけなのだから。

 急速に、冷蔵庫から漏れた冷気が足元から身体を冷ましていく。ピッチャーに水を注いで、新しいコップに氷を入れて。やけに冷えると思った。早く、あの暖かな空間に戻りたいとも。直ぐに冷蔵庫を閉める。ふきんとタオル。あとは飲み物を盆に乗せて、慎重に歩を進めた。

「……………お前」

 強張った声に、扉の前で足を止める。これは確か、中津くんの声だ。今日会った仲だが、彼のこんな声を聞いたのは初めてだった。何か張り詰めた状況だろうか。入り辛い事この上ないが────、

「おかえり、秀介」

「っ、」

 足音が聞こえていたのだろうか。ドア越しに飛んできた声に、肩を揺らす。少しだけ水が溢れてしまったので、手元の布巾で盆を拭いて。扉を開けば、何処か異様な雰囲気が空間を支配しているように思えた。特に中津くんの視線は、怯えやら憐憫やら。交々な感情が込めれている気がして。

「席を外そうか?」

「どぉして?」

「僕が来る前に、何か2人で話し込んでただろ。話し辛いなら────、」

 口を噤む。若槻が、「なんにも!」と笑ったからだった。無機質の美を感じさせる造形を、全否定せんとばかりの能天気な破顔。地球外生命体が、そこら辺の人間を真似たようなミスマッチさがある。

 あんまりにも薄気味悪い笑い方だ。

 足のすくむような気でいれば、若槻は眉根を寄せ、態とらしく肩を抱いた。

「寒いから早くドア閉めて!」

 我に帰り、段々と寒さがぶり返してくる。言われた通りにドアを閉めて、思わず「ウゲ」と声を漏らした。

「───人の水勝手に飲むなよ……」

 若槻の手元にあるのは、見間違いで無ければ僕のコップではないだろうか。空っぽになったそれに項垂れて、腰を下ろす。腰を下ろして、濡れた机とテーブルを拭いた。やっぱり此奴の、人の物を欲しがる癖は気に入らない。なんだか苛立ちがぶり返してきたので、使用済みのタオルを若槻に投げつけた。





 あの後考えに考えた僕は、若槻と桜井さんの関係を何度か取り持ってきた。何はともあれ、先ずは彼らのコミュニティを取り持つ必要があると考えたのだ。具体的には、若槻を勉強に誘ってみたり、若槻と会話している時の話題を、桜井さんに振ってみたり。目に見える成果として、この数日間で、2人の距離は随分と縮まったように思う。特に若槻は、僕と桜井さんの間に、積極的に加わってくるようになったし、何なら、自分から桜井さんに話しかけに行く姿が多くみられるようになった。手応えは上々の好感触。そう思えたが。

「いやだ」

 花の綻ぶような笑顔で、ざっくりと切り捨てる。小さく首を傾げれば、柔らかな茶髪がサラと揺れた。

「3人で勉強するの、正直もう良いかな」

「ええ?」

 思わず素っ頓狂な声をあげてしまう。それはどういった意味だろうか。考えてみるも、前触れも無かった物だからどうしようも無い。見た限り今日の放課後まで、この2人の関係は良好だった。

「なんで」

「そう言う気分じゃない?」

「桜井さんと合わなかったか?」

 聞けば、ブラウンの瞳がぐるりと宙を泳ぐ。「いや、そうじゃないな」なんて言った口調は、辺幅を飾らぬ物で。若槻が嘘を吐いている訳ではない事は確かだった。

「じゃあ……」

「秀介はさ、子供ってほしい?」

「は?」

 怖い。怖い怖い怖い怖い。普通この文脈で、その質問が出てくるだろうか。いや、出てこない。頭が沸いてるとしか思えない。僕の幼馴染が大分キている件について。逃避を続けつつも、真意を探ろうと頭をフル回転させるが、当然理解は及ばない。と言うか理解できたらできたで、僕は病院にお世話になった方が良い気がする。

「……………………いや別に…」

 結果、事実だけを述べる他なかったのは、仕方のない事だろう。僕の答えに、澄んだ金眼がゆっくりと瞬く。此方だけを反射して内面を覗かせないその色が、僕は前々から苦手だった。

「じゃあ、恋人は?」

「それなりに…?」

「それなりに?そういう相手がいるの?秀介はさ、その人と手繋いで、キスして、セックスしたい?」

「………いや、その、」

 顔のあたりに、熱が集まってくる。なんだって急に此奴は、そう生々しい方向に舵を切ってくるのだ。

「い、まは…………今は、良い、かな。別に要らない」

 食欲減退…とは少し違うが。そう生々しい事を想像すると、急に恋愛と言う物に嫌悪感が出てくる。僕は意外と、潔癖だったのだろうか。

 耐えられなくなって、視線を落とす。窓から差し込む西日が、僕の手を真っ赤に染めていた。

「お、お前こそどうなんだよ。それに、それと桜井さんになんの関係が────、」

「俺はほしいよ、子ども。出来るかどうかは別にして」

「………っ、」

 骨張った長い指が、僕の手に絡み付いてくる。あまりにも冷たい体温は、その声音からは想像のつかない物で。思わず相貌をあげれば、若槻はまた、心底幸せそうに笑う。

「手、繋ぎたいし、キスしたいし、セックスもしたい」

 真っ赤な唇から吐き出される言葉は、直接的で、あまり上品な物とは言えない。けれども、人を惹きつける倒錯的な魅力があった。

 空いた手で、僕の袖の裾を掴んで。何かを乞うような目で、ゆっくりと首を傾げた。

「だから、ね?秀介は邪魔しないで」

「邪魔て」

「もう桜井さんに近付かないで?俺は2人でお喋りしたいの」

 ここに来て、ようやっと理解する。

 僕の努力は無駄では無かったのだ。若槻はちゃんと桜井さんに恋をしている。それも、キスだとか子どもだとか、セッ…セック……フンフンだとか。嫉妬でそんな物を平気で口にしてしまうくらいに、なりふり構っていられない様子。要はベタ惚れである。僕はこんな幼馴染の姿を初めて見ました。

 僕の裾を掴む手を、やんわりと掴んで離させる。

「………そ、そうか。じゃあ、俺今日は帰るな」

「最高。秀介だいすき!」

 右手の人差し指と親指を交差させて、仔犬のような笑顔を浮かべる。そんな可愛い顔をして、言っている内容は「俺の女に近付くな」である。若槻がこうも人に執着するのは意外だったし───何より。付き合う前から子供だとか何だとかを考えてたり、妙に排他的だったり、そう言う側面は初めて見る物で。

 正直、あまり知りたくなかったような気もする。

「じゃあな」

 乾いた笑みを漏らしつつ、桜井さんにメッセージを送る。少し寂しいが、幼馴染と恩人の恋路を思えば、仕方の無い事だと思えた。

 清々しい笑みで手を振る幼馴染を一瞥。

 微かに震えたスマートフォンを、バッグに深く突っ込んだ。


 ***


「…………香穂さん…!」

 脚を止める。靴箱に伸ばした手を引っ込めて、溜息を噛み潰す。億劫な気分で振り返れば、そこには肩で息をしている桜井さんがいて。

「待ってください、香穂さん」

「メッセージでも言ったけど、僕。今日予定があって───、」

「どうして連絡を無視するんですか?」

 訝しげな黒目に、急かされるような気分になる。バッグからスマートフォンを取り出せば、液晶に表示されるのは、怒涛のメッセージ通知。

「ごめん、気付かなかった」

「……………」

「僕に何か用事?」

 微笑んで見せれば、桜井さんは気不味げに顔を伏せてしまう。先刻までの覇気は何処へやらだ。内巻きになった肩は薄く、丸められた背は頼り無い。彼女は、ここまで小さかっただろうか。いつも背筋がぴんと伸びていてる物だから、気付かなかったけれど。

「………誤、解を、解いておきたくて」

 ようやっと絞り出しただろう声は、小刻みに震えていた。足元から迫るような何かを、腕時計を確認する仕草で誤魔化す。

「ごめん、僕、ちょっと時間が───」

「あなたが!」

 口を噤む。潮時だった。右手を下ろして、真っ直ぐに彼女を見据える。相貌から表情が削げ落ちて行くのが分かった。

「───────あなたが、好きなんです」

 あーあ、と。僕と同じ声の誰かが、脳裏で間延びした声をあげた。目を細める。彼女が、内気な質な質で良かったと思った。顔を伏せている分、今の僕の顔は見えないだろうから。

「………若槻が好きなんだと思ってた」

「嘘。……嘘よ。全部気付いててはぐらかしていたでしょう?」

「そんな事しないよ。本当に信じられなかったんだ。だって、彼奴が居るのに、僕を選ぶ理由って何?」

 そんな物は、正直どうでも───聞く意味はあまりなかったけれど。桜井さんは真面目で優しいから、僕の美点を上げてくれる。「それに」と擡げた相貌は、いじらしくも赤く染まっていた。

「何故、貴方がそこで若槻さんを引き合いに出したのかが、わかりません」

「……………………」

「私は他でも無い、『あなた』が好きなのに」

 強靭な光を湛えて、黒曜石みたいな眩しさを以て。少しだけ潤んだ黒目が、真っ直ぐに此方を見据える。そんな真っ直ぐな光に充てられるのは、あまりにも久しぶりだった。太陽みたいな奴の隣にずっと身を置いて。脇に佇むだけの僕を見る人間にだなんて、今までそう出会わなかったから。

「……………っ、」

 口の中が嫌に乾いている。自分の意思通りに動かない身体が気持ち悪かった。

「……僕は──────、」

 息を吸って、喘ぐように言葉を絞り出す。『僕は』、何なのだろう。漠然と考えていた台本なんて物は、もう既に飛んでしまっていて。僕は一体、彼女に何と言おうとしたのだったっけ。

 吸い込まれるような黒目に睨まれて、目が逸らせない。痺れた指先のまま、ぐるぐる、ぐるぐると足元が揺れるみたいだった。



 ***



「そういえばさ」

 ポテトを摘んだまま、祐樹は唇を尖らせた。ハンバーガーショップで、勉強に集中できる道理がわからなかったが。そもそも、此奴は集中する気と言うか、勉強する気すら無かったらしい。

「お前の志望校てどこだっけ」

 そんな質問に、少しだけ迷って「○○大」と答える。大袈裟に仰反る友人を、相変わらず賑やかな奴だと思った。

「うーわ、国内トップじゃん。流石だよなぁ」

「感心してる暇があるなら、お前もちゃんと手を動か………むぐ」

 口に突っ込まれたポテトを、大人しく咀嚼する。恨めしげに眉を寄せれば、祐樹はニンマリとニヒルな笑みを浮かべた。どうやら、認識を改めた方が良さそうだ。これは勉強会ではなく、同窓会なのだと。

「アイツも一緒?」

「若槻?」

「そ。って、聞くまでも無かったか?」

 平坦に頷く友人。僕はと言えば、友人の口から出た「若槻」と言う名前に、少しだけ憂鬱になる。

 ────『なんて言って断ったの?……「今は要らない」って?』

 一昨日────桜井さんと別れた、次の日の事を思い出したからだ。桜井さんに言われたのだろうか。それとも、何処かで聞いたのだろうか。何故か僕が桜井さんを振った事を知っていた若槻は、開口一番にそう言って目を細めた。「ごめん」と言えば、「良いよ。気にしないで」と微笑む。その口調は、本当に昔の恋路なんてどうでも良いみたいで。また、僕は憂鬱になったのを覚えている。

 どうしてそんなに簡単に諦められるのだろうかと。あれだけ執着しておいて。あれだけ可愛いと思っておいて。

 ………それでも彼奴にとって、彼女は惜しむ価値すらない物だったのだろうか。

「おい、秀介?」

「ああ、えっと。何だっけ、若槻?」

「大丈夫かよ。やっぱ勉強のしすぎて馬鹿になったか?」

 お馴染みの軽口に、平らな目で下唇を突き出す。「わかんない」と呟きながら、祐樹のポテトを摘んだ。

「直接は聞いてないから。でも、彼奴の頭なら何処にだって行けるよ」

「じゃあ、大学も同じか」

「わかんないって言ったろ」

「またまた!お前ら腐れ縁って感じだし、」

 ─────彼奴、お前のこと大好きだし。

 口端が引き攣るのがわかる。その言葉を、祐樹の口からは聞きたくなかった気がした。側から見てそうなら、本当にそうなのだと言う気がしてくる。「秀介が居ないと意味がない」と、僕を理由に彼奴は中学を辞めた。お陰で苦労も何も水の泡になった。

 それは彼奴が、僕の事が好きだったからだろうか。幼馴染が好きだから、「秀介が居ないと意味が無い」?彼奴が僕の事が好きだったから、僕らは中学も高校も同じだった?

 それならば僕は、一生彼奴から離れられないじゃないか。

「はは、」

 僕はずっとずっと、この惨めな思いを抱き続けなきゃならないと言うわけだ。

「──────冗談キツいだろ」

「秀介?」

 強張った祐樹の声に、努めて笑みの形を作る。教材の山で、祐樹からは僕の手元が見えない。それだけを確認して、ほぼ反射的に進路表を引っ張り出した。兼ねてより目指していた大学名を書き込んで、「とにかく頑張ろうぜ」と笑う。

 分厚いガラス張りの窓から、暗雲立ち込める空を一瞥した。




「…………お前、香穂くんの事ホント好きな」

 布団からノロノロ這い出ると、中津はぐったりと腰を下ろす。主人の去った部屋は、先刻よりか幾分か涼しくなったようだった。

「え?何、なに?急になんの話?」

「いや、終始ノロケ聞いてる気分やったわ。香穂クンのことだから、悪気は無いっちゃろうけどさ」

 戸惑ったような半笑いで、首を傾げる若槻。盛大に水を被ったからだろうか。仕草自体は幼いが、湿った前髪の隙間から、気怠げな金眼が覗く絵は、妙に艶っぽい。それを無感情に眺めながら、「いつから?」と鼻を鳴らす。

「え?いつからって────、」

「お前の恋バナから?馴れ初めから?いつから聞いとった?」

「いや、俺何言われてるか今さっぱりで……、秀介が好きなのは、それはそうなんだけど」

「嘘吐けよ。ずーっと起きとったやん、お前」

 茶化すように笑って、コップの縁をなぞる。その所作は、友人と談笑するままのそれだった。籠った部屋の中で、電子ヒーターが小さく唸り声を上げている。それが僅かな沈黙を埋める間に、若槻は照れ臭そうな笑みを浮かべていた。

「………………バレてた?」

「ヘタクソ」

「だって、自分の昔話だよ?どんな顔して起きれば良いのか分かんないよ。恥ずかしいし、気不味いし」

「都合悪いし?」

 かがちのような黄金から、一瞬だけ温度が失われる。しかし瞬きをしたその次の瞬間には、その眼は、温かに色付いていた。弧を描いた唇は、完璧な角度に歪んでいて。

「どんな魔法使ったわけ?単純な好奇心として知りたいんやけど」

「俺、魔法使いじゃないよ」

「まさか皆に、『香穂くんを歓迎してあげてください』って呼びかけたわけじゃないよな?」

 トン、と。机を弾くような硬質な音が響く。中津が視線を上げれば、丁度、骨張った指がグラスに絡み付く所で。妙に艶かしい仕草に、唾を嚥下する。

 当の本人は、依然として気の抜けた笑みを浮かべているが、空間には、妙な緊張感が張り詰めていた。

「秀介の人柄だよ」

 微笑んで、コップを傾ける。中津は上下する喉仏を眺めながら、「そう」とだけ呟く。それきり、誰も何も言わなかった。

「俺、中津のそう言うところだぁいすき」

 小首を傾げて、きゅう、と目を細めて。親指と人差し指を交差させて、ラブコールを送る。甘ったるい、鼻から抜けるような声は、相手を籠絡するためだけの物だった。

「あと、恋バナは0点」

「……最初から起きとったんかい」

「ナシだよ。完全にナシ。お前、俺の事全くわかってないのね」

 顎を引く。柔らかな前髪が揺れて、端正な相貌に影を落とす。カランと、氷が溶ける音がした。

「代用品で済ますなんてありえないでしょ。妥協って一番きらい」

 笑みの形を模ってはいるが、その双眸だけは、全くと言って良いほどに笑っていない。

「俺は、お前のそう言うところどうかと思う」

「拗ねるなよ。冗談だって。敢えてでしょ?実際秀介には、勘違いしてもらったままの方が都合良いし」  

「マジでかわいそー、サクライ?さん」

 乾いた笑いを漏らして、軽やかにペンを回した。澱んだ黒目が、問題文を二、三度滑る。だが、中津の思考がそこにない事は、誰の目にも明白だった。

「…………お前って、男が好きな人?」

「俺は『香穂秀介』が好きな人。なら結局は、そう言う事になる?ああでも──、」

 ─────あれが女の子だったら、もっと楽だったかもなぁ。

 悩ましげに伏せられた双眸が、やがてうっそりと弧を描いた。中津の表情が強張る。美しい造形をしただけの、悍ましい何かと対面したような。そんな気分だった。あの小綺麗な皮の下に、得体の知れない何かが蠢いているようで。額に滲んだ冷や汗を、払うように前髪に触れる。

「…………お前」

 強張った声を上げれば、ぱちん、と、若槻の目が瞬いて。

「おかえり、秀介」

 張り上げられた声に、扉の向こうで、息を呑むような音がする。

 足音など、全く聞こえなかったが。

 中津の背を、嫌な汗が伝う。友人の横顔を呆然と眺めて、おもむろに開いた扉へと視線を移した。

「席を外そうか?」

 冷たい空気を背負って、秀介が怪訝な顔で首を傾げた。異様な雰囲気に、見るからに戸惑っている様子だった。若槻の表情が明るむ。「どぉして?」と、甘ったるい声で言うと、黒目が気不味げに揺れた。

「僕が来る前に、何か2人で話し込んでただろ。話し辛いなら────、」

「なんにも!」

 無邪気に首を傾げる。部屋の温度を置き去りに、賑わった声を上げて。実際部屋の空気は幾分か和らぐ。眉根を寄せ、何処か芝居じみた仕草で肩を抱いた。

「寒いから早くドア閉めて!」

 我に帰ったように、秀介は目を瞬く。言われた通りにドアを閉めて、若槻の手元を見て「ウゲ」と声を漏らした。

「───人の水勝手に飲むなよ……」

 空っぽになった自らのコップに項垂れる。濡れた机とテーブルを拭いて、使用済みのタオルを若槻に投げつけた。


 ***



 俺の母は、俺の知る限りで最も美しい人間だった。同時に、俺の知る限りで、最も悍ましい人間でもあった。色んな物を踏み台にして、色んな物を騙して、色んな物を蹴落として。それなのに、平気で居られるような人だった。

 しかし母は母で、子は可愛かったようで。母は彼女なりの教育───人心掌握、恵まれた外見の使い方、彼女の人生論を、徹底して俺に教え込んだ。「美しいだけの人間なら、この世に腐るほど居るわ」と、人間的な付加価値の重要性を、誰かを足蹴にしながら教えてくれた。

 母親の言う通りだった。美しい人間は、この世界にごまんといた。

 俺はそんな、俺にとって美しいだけの母親を、醜くて汚いと思った。

 けれど、人の好意の裏側、根本の損得勘定。それを享受した時に求められる見返り。彼女に吹き込まれたそれは、苦しくも、この世界の真理を突いていた。たしかに、俺に手を差し出してくる人達は、俺に理不尽な見返りを求めた。頼んでも無いのに「あなたのため」だと好意を押しつけて、見返りを求めて。『助け合い』だとか『思いやり』だとかは、結局のところ、彼らが俺を消費するための、安っぽい建前でしか無かった。たしかに相互扶助とは、人間社会で生きていく上で必要不可欠なシステムではあるけれど。それ以上に、あれらが気持ち悪くて仕方がない。

 あれらの良いようにされるくらいなら、ドロップアウトした方がマシだとすら思うほどには。

 だから、人に好意を受けた時は、意識して相手を貶めた。

『俺は貴方に何も還元しませんよ』、と。

 そう、分かり易いポーズを取ってあげれば、自ずと手を差し伸べてくる人間は居なくなって、世界も幾分か快適になった。

「これは俺の……そう、じこまんぞく。べつにきみに何かを求めたりは、ないから」

 だから秀介との出会いは、俺の人生観を根本からひっくり返す程の衝撃で。最初は、なんて馬鹿な子供だと思った。自分から被搾取側に回るだなんて。何も求めないだなんて言葉は、奪われ続ける人生を肯定する宣言に他ならないのに。

 あまりにも見慣れない生き物だったので、興味本位で『秀介くん』を観察して回ったのを覚えている。

 案の定、彼はいっそ笑えるほどに生きるのが下手だった。自尊心が低く、他人の感情に疎い。処世と云う点では、致命的な欠点を抱えすぎている。当時の俺が言うのも何だが、秀介はクラスで浮いていたし、そしてそれは、学年が上がっても、社会に出ても変わらないのだろうと思った。

 ただ一点。

 第一印象の誤りを上げるならば、あの愚かな宣言は、『諦観』からくる物だと言う点だ。あれは、無知からくる発言ではない。知りすぎたが故の諦めだった。

 単に、与えられないと分かっているから求めないし、裏切られると分かっているから期待しない。それだけの話である。

 そんな擦れて摩耗しきった大人が行き着くような結論に、何故齢二桁にも満たない少年が行き着いてしまっているのか。秀介に対する興味は尽きなかったが、結局あれが、搾取を受け入れてしまっていることに変わりはない。加えて他人には期待しないくせに、『努力』なんて物の可能性は、疑う事なく盲信している。

 気付けばずっと目で追っていて。

 どうしようもなく胸が切なくなって、ぎゅっと抱きしめてプチっと潰したくなるような感覚は、初めて覚える物だった。

 有り体に言えば、初めて出会った綺麗で純粋で、それでいて危うい生き物に、俺は夢中だった。

 幸い物覚えは良かったから、秀介とは離れずに済んだ。幼くてばかな秀介の世界では、『成績』だけが尺度の全てだったから。秀介より良い数値を残せば、秀介の前を走る事はできたし、秀介の必死になってる姿も、悔しそうな顔も、俺は大好きだった。

 けれど高学年になった時、転機が訪れる。

 秀介が、初めて俺の頼みを断ったのだ。「それちょうだい」、と。初めは、秀介が他の物に取られると言う恐れから始まった習慣。それがいつしか、一種の確認行為に変わっていた。

 彼はどこまで俺を許してくれるのだろう。

 俺の優先度ってどれくらいなんだろう。

 その度に秀介は期待に応えてくれたから、俺はいつも満足だった。

「それはだめ、あげられない」

「これは僕が貰った物だから」

 だから、そう。初めて拒絶された時は、頭からすうっと何かが引いていくみたいだった。初めての感覚だったが、俺はどうやら、怒っていたようだ。

 …………俺は、秀介以外かわいくないのに、秀介は俺以外が可愛いんだって。俺は秀介が一番なのに、秀介は俺より優先する物があるんだって。

 だってそんなの、許せる筈がない。

 これの存在を許してはいけない。

 そんな使命感のままに、気付けばその栞をビリビリに破いてた。その時俺は馬鹿だったから、栞が消えた安心感と、初めて見る秀介の表情に満足していた。今でもきっと、そうなれば喜びが隠せなかったと思う。だってあれ、多分俺だけに見せてくれる感情だから。しょうがないと言えばしょうがない。

 総括すると、感情としては何も間違ってはいないし、俺が俺である以上致し方ない。ただ不味かったのは、やり方だ。

 秀介に嫌われて仕舞えば、元も子もないのに。

 取り敢えず不安の種を取り除いて、反省会を開いた。秀介に嫌われないように、少しだけ良い子になろうと決めた。あとは────、

「与えすぎてはだめよ。構いすぎてもだめ。根腐れしてしまうもの」

 本当に癪だが、人身掌握に於いて、母親以上に優れた人間を俺は知らなかった。ガーデニングが趣味の母親は、観葉植物に水を与えながら、独り言みたいに言った。

「 温度も湿度も環境も、ぜんぶ完璧に管理してあげなきゃ。思い通りに咲いて欲しいなら」

 たおやかに微笑んで、「頑張ってね」と歌うみたいに言う。これを見る度に、父と母は愛し合うべく愛し合ったのだと思うし、俺は生まれるべくして生まれたのだと思わされる。相変わらず、母の言動に嫌悪しか覚えなかったけれど。

 取り敢えず秀介が受ける中学を受験して、合格して、心機一転。俺は気合い充分だった。周りは全部知らない顔だから、うまくいけば秀介をずっと隣に置いておける。

 けれど、秀介は来なかった。

 受験に落ちたのだ。後から聞いた話、受験当日に高熱を出したのだとか何とか。

 俺は秀介をずっと見ていたから、それが嘘だってわかる。

 秀介は『わざと落ちた』のだ。

 例え本調子じゃ無かったとしても、秀介の頭で、あれに落ちるだなんて事は有り得ない。母親伝手に、俺と秀介の志望先が同じなのは伝わっていたのだろう。とは言え秀介は賢いから、一時の感情を優先させる事なんて無いと鷹を括っていた。

 だけど、思えばあれは確かに、自分を騙すのが一等上手かった。

 ずっと自分を騙して、俺の隣に居続けたくらいなのだから。特にその時は、受験の結果が離婚にまで繋がったようだし、尚更、『わざと落ちた』だなんて認める事はできなかったんだろう。何なら本気で、自分は実力不足で落ちたのだと思い込んでいるのかもしれない。

「────なんで、そんなに簡単に捨てられるんだよ」

 案の定、秀介はそう言って憤った。あまりにも歪で、哀れで、かわいそうで。思わず笑みが溢れてしまう。そんなところも、可愛くてしょうがなかった。

 自分の意思でそれを捨てたのは、お前だって同じなのに。そんなエゴにも気付かずに、自分を無能だと思い込んでいる。

「秀介」、と。「お前は自分が思っているより、ずっと狡猾で、残酷で、優秀な生き物なんだよ」、と。

 あの泣き顔を包み込んで、鼻先を擦り合わせて。そう教えてあげられたのなら、彼はどんな顔をしてくれたのだろうか。憤っただろうか、泣き喚いただろうか、動揺しただろうか。想像するだけで肩を抱いてしまうが、刹那的な快楽を求めた失敗から、学ぶ事は学んでいた。秀介は、自分が優秀だと言う事に気付いてはいけない。

「俺、秀介とずっと一緒に居たい」

 だから、本音の一部だけを吹き込む。

 腹の内を開示すれば、秀介は少しだけ肩の力を抜いた。彼のこんな───少し心配になるような鈍さも、培ってきた防衛本能なのだろうか。

 胸に込み上げる切ない衝動を押し込めて、秀介の裾を引っ張った。


 環境に溶け込むのには苦労しなかった。

 魅力的に見えるように、かと言って嫌味にはなりすぎないように。母親の教育の賜物か、そこのバランスを掴むのは簡単だった。構いすぎては───依存しすぎては、秀介が一歩引いてしまうから、人間関係にも気を遣わないといけなかったのだ。

 その時は良い『お手本』もあったから、秀介との関係も充実してた。

 けれど、そう思ってたのは俺だけだったようだった。秀介が怪我をして、俺を避けるようになって。

「面倒くさいんだよ」

 また、俺を拒絶した。「嫌い」だと言われた。クラスメイトの1人が、俺を口実に秀介を怪我させたらしい。俺が大好きだったから、俺に近付く人間を選別してくれていたと。

 確かに、気持ちは良くわかった。

 それを『相手の為』だと思った事は一度もなかったけれど。俺もまた、秀介に近付く人間を排斥してきた側だから。秀介に栞を握らせた女の子も、秀介に好意を寄せる見る目のない人達も。皆の目をこちらに向けるのは簡単だった。

 ただ─────、

「……………吉田くん」

 女の子の髪を掴んだ少年は、引き攣った笑顔を俺に向ける。ご主人様に褒められるのを待っている犬が、確かそんな表情をしていた。

「それは、よくないよ」

 ただ、気持ちを理解できるからと言って、許容できるかは全くの別問題だった。自分の能力に合わない策謀は、企てるべきではない。

 吉田くんは、やり方が下手くそだ。

 だって、吉田くんは間違った事をしている。僕は正しい事しか言っていない。善悪を極めるのは世間だから、そこに出る文脈は、常に正当な物でないといけない。そこに至るまでに、彼なりの文脈があったとしても。

 それは誰でも知っている事なのに、彼の目は曇ってしまった。

 案の定吉田くんは、目を見開いて、「え?」と素っ頓狂な声を漏らす。『俺のために、俺に告白した身の程知らずな女を懲らしめている』吉田くんからしたら、晴天の霹靂だったのかもしれない。周りから見たら、自分のしている事が、行きすぎた私刑だって事にすら気付いてない様子だった。

「吉田、やりすぎじゃない?」

「女子に手ぇ出すのは最低でしょ」

「うーわ、泣いてんじゃん」

「…………香穂怪我させたのも、吉田ってマジ?」

「マジだよ。見たもんアタシ」

「は?あれ吉田がやったの?フツーに犯罪者じゃん」

「香穂、確かに若槻くんと仲良かったもんね」

「それただの嫉妬じゃね?よく『若槻のため』とか言えたよな」

「若槻くん本当に喜ぶと思ってんのかな?」

 ──────つーかお前が何様ってかんじ。

 進行方向を決めてやるだけで良かった。

 あとは自ずと、場の空気が望んだ方向へと向かって流れていく。吉田くんが悪者になって、あの子と秀介は被害者になった。「なんで」、「結衣」だなんて、譫言を吐き出しながら、まだ震えて。それが更に悪印象になるとは気付いていないみたいだ。

 あれが俺のためになるだなんて幻想を、本気で信じているから。

 …………「庇ってくれて、すごく嬉しかった」「いつもありがとう」だなんて。

 確かに、同じような事を秀介に言われたら、俺もちょっと浮かれちゃうかも。

 けどそんな戯言、本当に相手の事が好きなら嘘だってわかる筈だろ?



 環境の整備はできた。ただ、肝心の秀介とは中々会えなかった。前の俺なら此方から会いにいっていたけど、構いすぎるのも、与えすぎるのもいけない。ここで俺の方から謝りに行くのは、『おかしい』事だから。秀介は真っ直ぐな子だから、道理に沿わない事は、気持ち悪いって身を引いてしまう。

 だから、少し待つ事にした。待って、あと1ヶ月来なかったら、また別の策を考える。祐樹くんが上手くやってくれるだろうから、あまり心配は要らないだろうけど。やっぱり秀介に会えない学校は、すごくつまらなかった。

「………………この前はごめん、若槻」

 秀介が来たのは、結局2週間後で。俺もそろそろ限界だったから、来てくれて本当に良かった。祐樹くんのおかげだって所が面白くないけど、どうせ高校になったら居なくなると思えば、別に気にならなかった。

 それに、秀介の大事な物は大事にしなければならない。でないと、また嫌われてしまう。

 逃げられないように、両手で秀介の頬を包み込む。急所を抑えなかっただけまだ理性的だった。微笑んで見せれば、秀介の肩が揺れた。

「いいよ、そんなの。秀介は悪くない」

 ……なんてね。そう、その通り。全部お前が悪いんだよ。おまえが俺から離れるから、吉田くんは学校に来れなくなっちゃった。

「悪くない事はないだろ」

 嫌いだなんて、二度と言わないでね。次言われたら、俺どうして良いかわかんなくなっちゃうから。自分でも何するかわかんない。

「いや、全部俺が悪いんだ。だって俺が、」

 これは本心。

「──────俺が、馬鹿だったんだから」

 俺は、本当に馬鹿だった。

 俺は世界の事なんてどうでも良いけど、世界は俺たちのことを放っておいてはくれない。周りが私欲のために、勝手な『好意』やら『善意』やらで俺たちの邪魔をする。そんな事に、今更気付くだなんて。

 癪だけど、母親の言葉は正しかった。

 望み通りの状況を手に入れたいなら、環境から完璧に掌握しなくてはいけないようだ。

 俺たちの邪魔をするのは、いつだって外からやってくる物なんだから。

 次はもっと上手くやろう。次はもっと上手く扱おう。次はもっと────、

 ────── 『思い通りに咲いて欲しいなら、温度も湿度も環境も、ぜんぶ完璧に管理してあげなきゃ』

 ふと頭を過った言葉に、思わず自嘲気味に笑う。

 ああ、そう、と。その時やっと自覚したから。心底認めたくは無かったけれど。

 俺はしっかり、あの母親の子供だったみたいだ。



 ***



 事前調査は念入りに行う必要がある。秀介の周りから、それとなくあれの志望先を聞き出した。

 合格発表の日には、確かに秀介の番号を確認した。

「────秀介?」

 けれど、入学式会場の何処を探しても秀介はいなかった。誰にも教えないまま、連絡先は変更されていて、彼の部屋ももぬけの殻で。

 目を見開く。記憶を巡らせて、記憶の中の緒を手繰り寄せる。

 私立は受けていない。確認したので知っている。

 就職では無い。それも知っている。

 では何処に?

 ぐるぐる、ぐるぐると、思考を巡らせながら殺風景な部屋を見回す。約半年分の衣服が回収されたクローゼットに、いつか自分が水をぶちまけたカーペット。そして────、

「………………………」

 そして、シックな色調の勉強机。

 そこには以前、いくつかの海外大学の英字パンフレットと、書きかけのエッセイが置かれていた。それを慎重に後ろ手に隠して、俺と中津へと話題を振った。

 遅れて濁流みたいに押し寄せてくるのは、仕切りに英語教材と向き合う姿だった。

 今思えば、前兆はあった。前触れもあった。

 けれども、それらはあまりにも念入りに覆い隠されていた。仲の良い女生徒も、昔の友達も、口を揃えてあれの志望校はここだと言った。嘘を吐いている様子も無かった。つまり、親友すら騙して、徹底して志望先を偽り続けた。挙句国内受験を使って、カモフラージュ紛いのことをして。

「…………そこまでする?」

 やがて漏れでた笑み声は、自分でも驚くくらいに乾いていた。

 だってこんなマネ、中学受験で散々思い知らされた人間の所業では無い。綺麗で、純粋で、危ういあの秀介が、こんな選択を2度できるとは思ってもいなかった。

 俺は、幼馴染を随分と見誤っていたのかもしれない。

 あれは俺が隠す間も無く、自分が優秀である事を知っていた。そして、自分が利己的な生き物である事も。分かった上で受験に失敗し、家庭崩壊を静観し、また同じようなことを繰り返した。

 どうやら幼馴染は、俺が思っていたよりもずっと狡猾で、残酷で、強かで。

 そして、俺の事が大嫌いだったみたいだ。






 ***




 香穂秀介

「幼馴染と恩人の恋路を思えば〜」とか「彼女への手土産になるだろうか」とか記述しながら、桜井さんに若槻を押し付ける事しか考えていなかった。何なら最初から、国内大学を受験するつもりもさらさら無かった。徹底した利己主義者。それに自覚的でありながら建前は取り繕おうとする偽善者なので、言動に全く一貫性が無い。正直こいつの内面とか動機の記述は6割型信用できないので、話半分で聞くくらいが良い。

 ぶっちゃけ若槻と離れられれば何でも良かった。


 若槻結衣

 騙された人。

 思ってたより、幼馴染が良い人じゃなかったし、なりふり構ってられなかったくさい。フィルターかかってたね。

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幼馴染から全力で逃げる話 ペボ山 @dosukoikokoi

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